第24話 「貴方の力をどうか貸してください」
王から使いがやってきて、お披露目の夜会は一ヶ月後と決められた。
ジャスターから手渡された手紙を、リーンハルトがじーっと睨みつけるように眺めている。
「うー……ん。だ、れ、を……しょ、う、た、い、する、か……は、ま、た……おって……きこ、える……? 違うな、うーん……あ、し、……しら……知らせる、か」
読み終わるとリーンハルトが顔をあげ、眉間をもみこむ。
「僕でも読めるように簡単に書いてくれているのに、久しぶりに読んだら歪んで見えて、頭痛くなっちゃった。夜会、誰を招待するかまだ決まってないみたい」
リーンハルトは、いつにない早口だった。
「はい、承知しました」
「レティス、何着る?」
「え?」
突然の話題転換についていけず、レティスはあっけに取られた。
「僕とお揃いにする? でもドレスを仕立てている時間が足りないか。残念」
そこでレティスはリーンハルトがわざと明るく振る舞っている事に気づく。
(もしかして、リーン様が文章を読めないことに私が落胆していると思われた?)
そういえば、彼が実際に文字を目の前で読んでみたのは初めてのことだった。
レティスとしては、すでにリーンハルトの個性の一つとして受け止めていて、取り立てて今の光景を何とも思っていない。だがもしかしたらリーンハルトには違うのかも、と思い至ったのである。
レティスはにっこり笑うと、何気ない口調で答えた。
「お揃いはいいですね。私、ハンカチを刺繍してみてもいいでしょうか?」
「ほんと?」
リーンハルトの瞳が輝く。
「はい。お揃いのハンカチに刺繍してみます。シルクがいいかな」
「うれしい! 楽しみだな!」
リーンハルトの瞳から憂いが消え、レティスはほっと安堵した。
(特別なことはしなくていい、そのままの私達で……いいのよね)
それから数週間は飛ぶように過ぎ去った。
その日は朝からリーンハルトが絵を描くために部屋にこもっていた。
朝食の席でジャスターにその旨を聞き、ルパートと相談の上でその日の授業は取り止めにした。
リーンハルトの部屋の扉をノックしてから、そーっと開く。
いつ来てもいいよと言われてはいたものの、彼の部屋に入るのはあの日以来のことだ。
もし嫌がられたら即退室する心持ちであったが、部屋の奥に設えられたイーゼルに向かっているリーンハルトは振り返りもしない。
彼は丸椅子にぴんと背筋を伸ばして腰かけ、一心にキャンバスに向かって、鉛筆を動かしている。どうやらまだ描き始めらしく、大きいキャンバスはほとんど白いままだ。
窓から差し込む太陽の光が、彼の銀色の髪を柔らかく照らしている。
(なんて神々しいの……)
しばらくレティスはぼんやりリーンハルトの後ろ姿を見守っていた。
やがて我に返り、うるさくして邪魔をしてはいけないとそっとソファに腰を下ろす。あの日は至るところに置いてあったキャンバスは片付けられ、壁に整然と立てかけられていた。
待ち時間にリーンハルトのハンカチに刺繍をするつもりで持参している。しゃっしゃっと鉛筆の音がするのを心地よく感じながら、レティスも自身の作業に没頭した。
どれくらい時間が経っただろうか。
持参したハンカチの刺繍があらかた終わる頃、彼が振り返る気配がして、視線をあげる。
「――レティス?」
「はい、私です」
ぱっとリーンハルトの方を向けば、彼が驚いたようにこちらを見ている。
「いたの気づかなかった、いつからいたの?」
「えっと……」
レティスはぐるりと目を回した。
すっかり時間を失念していたが、窓の外を見る限りすっかり陽が高くなっているような気がする。
「朝食の後からおりますよ」
「ほんと? 声をかけてくれたらよかったのに」
「とっても集中なさっていたので、お邪魔してはいけないと思いましたので」
「気を遣ってくれてありがと」
リーンハルトは丸椅子から立ち上がると、さっとレティスの隣にどさりと座った。彼はうーんと身体を伸ばしながら呟く。
「あ――絵を描いてて、ちょっと集中力が途絶えたときに、レティスが部屋にいるのいいなぁ。なんか今ね、ふっと意識が浮き上がった感じがしてね、そしたらレティスの気配がしたんだー。振り向いたらほんとにいたから、すごく嬉しかった」
リーンハルトが無造作に手を伸ばして、レティスの手を握る。
「いつもは我に返っても一人だから、そのまま続けちゃうけど……レティスが待っていてくれるなら、止まれるんだな。いいな、こういうの……」
ふふ、と彼が微笑んで、指を絡める。こうしたさりげない接触は以前よりずっと増えた。決してリーンハルトがそれ以上を求めてくることはないのだが、レティスはどきまぎしてしまう。人との接触があまり得意ではないリーンハルトがこうした形で親しみを見せてくれることが嬉しい。
「今、何を描いていらっしゃったんです?」
質問をして高鳴る鼓動を紛らわそうとリーンハルトに水を向けると、彼は首を傾げた。
「レティス」
「……え?」
「だから、レティスを描いているの」
「え、私を描いてくださっているんですか!?」
予想外すぎてぽかんとすると、彼は当たり前でしょとばかりに胸を張る。
「僕は自分が見たものを描くのが好きなの。レティスを描かないで他に何を描くの」
「……!」
胸が一杯になって言葉にならない。
(私……本当にリーンハルト様にとっての“誰か”になりつつあるのだわ……)
「まだ全然終わってないけど、完成したら見てね」
リーンハルトがにこにこしてそう言って、レティスはうんうん、と頷いた。
「もちろんです、楽しみにしています……!」
「うん。それでレティスは何をしてたの……あ、これ刺繍?」
「そうです。夜会の日に間に合わせようと思って。リーンハルト様のお名前と共に、モチーフを刺繍しています」
「わ、助かるなあ。文字より断然分かりやすい。どれ、見せて……?」
レティスの膝に置いてあったハンカチを取り上げてのぞきこんだリーンハルトが爆笑した。
「じゃがいも……!? しかもちゃんと黄色い、マスタード色の方! やっぱりレティス最高だな!」
「私の方は灰色の皮のじゃがいもにするつもりです」
「最高すぎる!」
涙を流しながら笑い続けるリーンハルトに向かって、レティスは微笑む。刺繍のモチーフに、じゃがいも以上の“適役”はいるだろうか。
「そういえばリーン様、ハンカチだけでなく、お花もお揃いでつけるのはどうだろうと思ったのですが……生花は萎れてしまうかもしれないので、他に何かいいアイディアがないかミシェルに聞いてみようかと思って」
「お花、いいね。でも僕、このじゃがいもハンカチだけで十分満足してるよ」
リーンハルトはそう言って、にっこりと笑った。
◇◇◇
リーンハルトは今日はもう絵を描かないというので、共に昼食を取ることにした。レティスが刺繍道具を置きに自室に戻ろうと廊下を歩いていると、ちょうどミシェルがやってくるところに行きあった。
(今、ミシェルに聞いてみようかしら……あ、でもまた……)
ここしばらくミシェルの顔色があまりにもよくない。
あまり何度も聞いてもと控えていたが、さすがにこうまでずっと様子がおかしいと心配になる。
「ミシェル」
足を止めて声をかけると、ミシェルが足早に近寄ってきた。
「はい、どうされました?」
「今度の夜会の日に、殿下とお揃いの何かを身につけたいという話になっているのだけれど、何かいいアイディアはない? 生花でもいいのだけれど、萎れてしまうかもとも思って」
「ああ、なるほど。相手の瞳の色の宝石をする、というのももう多くの方々がされていらっしゃいますしね……」
うーんと考え込む彼女の顔色がやはりあまりにも優れないので、思わずレティスは尋ねる。
「ねえ、本当にどうかした? ここ最近あまりにも元気がないから心配だわ」
真正面から切り込むと、ミシェルははっとしたように視線をあげる。メイド長はしばらく黙っていたが、やがて頭を下げた。
「ごめんなさい、ご心配おかけしました」
「それはいいの。でも体調は本当に問題ない?」
顔をあげたミシェルは、小さく首を横に振る。
「体調は……問題ないです」
「でもきっと何か、……あるわよね?」
躊躇いがちに聞くと、ミシェルが頷く。
「もしよかったら、話してくれる?」
「わかりました。お聞き苦しいかとは存じますが……」
二人でレティスの部屋に入る。
ミシェルはふうと息を吐くと、身の上話を始めた。
ミシェルは地方の男爵家で生まれ育ったという。父親と反りが合わず、またあてがわれた婚約者とも気が合わなかった彼女は、出奔したのだと続けた。
「出、奔……!」
「はい。我が家は弱小貴族だったので……相手は貴族でもありませんでした。婚約者は二十歳は年上のとある商家の当主で……後妻として迎えられることになっていたのですが、いつ会ってもいやらしい目で見てくるのがもう本当に嫌で嫌で」
ミシェルはその頃から気が強く、父にも何度も嫌だと告げていた。けれど、父親は頑として話を聞かなかったのだという。
「その商家は確かに素封家ではあったんですよね。だから将来苦労はしないだろうってその一点張りで。おそらく私が結婚すれば、まとまった資金が渡されることになっていたのではないかと思います。家は兄が継ぐし、私なんてただの道具だったんです。貴族の結婚で、愛を求めるのはどうなんだ、とそんなことを言われました」
「……そうだったの……」
「よくある話だとは思いました。思いましたけれど……いざ自分の身に起こってみると、どうしても我慢ならなくて毎日泣いて暮らしていました」
ミシェルの母親は昔から身体が弱く、また横暴な夫の言いなりではあった。だが、最終的に出奔の後押しをしてくれたのは、母親だったらしい。ミシェルの婚約者に嗜虐癖があり、前妻も彼が殺したのだと噂話が流布しはじめたのが、決定打になったのだという。
「あまりにもかわいそうだと母がこっそりと準備をしてくれて……逃してくれたんです。もう二度と会えないということは覚悟の上で……母のおかげで私は逃げ出すことが出来ました」
まともな後ろ盾もなにもないミシェルだったが母の持たせてくれた紹介状のお陰で、王都の貴族宅でメイドとして雇ってもらえることになった。もちろん彼女は貴族としての名前は捨て、ただのミシェルとして生きていくことになった。
やがて知り合った、自身と同じような境遇の従者――夫は元伯爵家だったが――と結婚をして、家庭を築くことにもなった。そして気働きの出来るミシェルとその夫は、王宮での仕事を得ることとなったのだ。
「母には近況をこっそり手紙で知らせていました。ですが……つい先日、初めて兄から手紙がやってきて……、母がもう二度と回復しない重い病だと……そして昨日は……危篤だと連絡がきました。そして母からの“最期”の手紙が同封されていたんです」
話しながらいつしかミシェルは静かに泣いていた。
「自分は身体が弱く、夫の言いなりになってしまったが……、一から自分の居場所を作り上げた私を、誇りに思う、と書かれていました。あの日の決断を一度も後悔したことがないと……これからも幸せに生きてほしいと、それだけ願っていると……」
レティスの視界が揺れ、胸が震える。
ミシェルはぱっと流れ出る涙を手で乱暴に拭き取ると、口元に笑みを浮かべた。
「湿っぽくなってしまってごめんなさい。受け取った時点で、兄が手紙を出した日から一週間は経っていましたので、どちらにせよ今から実家に向かっても間に合わないでしょう。それに残念ながら父はまだ健在なので、戻ってくるなと兄が……。何年経っても嫌がらせをするような人なので、私もそうするべきだと分かっています。けれどもし許されるなら――」
ミシェルは一旦言葉を切った。
「もう一度だけ母に会いたかった。一目でいいから、会いたかった……そればかりを考えてしまうのです」
「――ッ!!」
それは、レティスの心の叫びとリンクした。
もう一度だけ、母に会いたい。
本当にもう一度だけでいいから――。
レティスはぎゅっと目を瞑った。
自分は、母に会いたいときにどうしただろうか――と。
そこでレティスははっと身体を震わせると、衝動的にミシェルの両手を握る。
「辛いことなのに、話してくれてありがとう。……私にひとつ、提案があるの」
「……てい、あん……?」
レティスはミシェルの瞳を見ながら、頷いた。
◇◇◇
先に席についていたリーンハルトが、ダイニングルームに入ってきたレティスを見て椅子から立ち上がった。
「レティス、遅かったね――……」
レティスは夢中でリーンハルトに駆け寄った。
「リーン様、お願いがあります」
「お願い……?」
「リーン様にしかお願いできないことなのです」
「僕に、だけ?」
「はい。貴方の力をどうか貸してください」
「僕にできることなら、なんでもするけど……?」
軽く首を傾げたリーンハルトに向かって、レティスは口を開いた。
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