第20話 「王宮へ」

 リーンハルトと膝をくっつけて座ったまま、レティスはゆっくりと話し始めた。


 まだ微かに残っている、幸せだった幼少期の記憶。

 母が亡くなるまでは父から愛されていたように思っていたこと。

 父が後添えをもらい、弟が出来てからは状況が一変し、姉の意地悪に耐え続ける毎日になったこと。

 ――肖像画のくだりについて話すときは、少しだけ息が乱れた。

 父が姉の所業を知っていて、放置していたらしいこと。


 話を聞きながら、リーンハルトはどんどん眉間に皺を寄せていき、彼女の手を手繰り寄せて握ってくれた。


 それから時が経ち――クリスティアーレ家で、セイディがフェリクスに抱きつくのを見て、我慢ならなくて庭園に出たこと。その夜、月を見ながらレティスはもう姉に縛られたくない、と強く願ったのだった。そうして突然目の前に現れた、妖精のようなリーンハルト。


 そこまで黙って聞いていたリーンハルトは、ちょっとだけ顔をしかめる。


「……好きだったの、その人のこと?」

「その人……? ああ、ダルゲンランド様ですか? 好きというか、憧れのようなものでした。彼はすごく親切でしたから」


 ぐっと、繋がれた手に力がこめられ、リーンハルトの横顔がこわばっているようにも思えて、レティスは首を傾げる。


(どうされたのかな……?)


「でも、ダルゲンランド様とはその後話す機会が増えたのですが、男性として魅力を感じることはなかったです」


 その後の出来事をかいつまんで話す。フェリクスは親切だったが、取り立ててレティスに興味があるような素振りはなかったし、それはレティスも同じだ。

 そう言えば、きりっと眉毛があがったリーンハルトがぱっとレティスの方を向いた。


「……??」


 いつにない彼の態度に、レティスはますます首を傾げてしまう。だがそんな彼女を見つめるリーンハルトの身体から力が抜けていく。


「レティスはそうでも、相手は違ったかもしれないのに……」


 リーンハルトがぶつぶつと呟くが、答えは求めていなそうだったので、気にしないことにした。その代わりレティスは、ふと思いついた疑問を彼に尋ねることにした。


「そういえば、リーン様はどうしてクリスティアーレ家にいらっしゃったんですか?」


 話題が変わったからか、リーンハルトはくつろいだ表情を浮かべる。


「ああ、クリスティアーレ侯爵とは個人的にやり取りがあるんだ」


 今までの感じだとあまり親しい人はいないように見受けられたので、興味を惹かれる。クリスティアーレ侯爵は、父親といってもいいほどの年の差があるが――。


(そういえば、あの夜は髪を覆う布をしていらっしゃらなかったし……)


 リーンハルト本人が後で「レティスに会った夜ははしゃいでいた」と言っていたくらいだ。きっと楽しいこと、なにか良いことがあったのだろうと察せられる。とすると年齢差や立場の違いはあるが、クリスティアーレ侯爵とは本当に良い友人関係なのかもしれない。


「ではよくクリスティアーレ家には行かれるのですか?」

「そうだね。そんなに頻繁ではないけれど、ごくたまに」

「そうですか……、ああ、でしたら!」


 レティスはあることを思いついて、リーンハルトを見上げる。


「クリスティアーレ家の廊下に、たくさんの絵画が飾られているのはご存知ですか?」

「……うん、知ってるよ」

 

 どうしてかリーンハルトの答えが一拍遅れた。


「その中に私がすごく好きな絵があるんです」

「すごく、好きな絵……?」

「はい。女性の後姿なんですが、本当に温かみがあって大好きなんです。眺めていると時間を忘れちゃうくらいで……でもサインに見覚えがなくて……他の作品を是非拝見したいのに、その方の名前がわからないんです。もしリーン様がご存知だったら――」

 

 ふとリーンハルトの顔に視線を送ったレティスは、口をつぐんだ。

 驚くほどに彼の顔が真っ赤に染まっていたからだ。


「ど、どうされました……?」


 彼はぱっと口元を引き結ぶと、ぶんぶんと首を横に振る。


「なんでもないっ……その絵、そんなに好きなの?」

「はい、とても」


 レティスははっきりと頷いた。


「母の肖像画がなくなったことはお話したでしょう? でも、あの絵に描かれている女性は、もしかしたら母かもしれないって想像できるくらい素敵で――慰められました。クリスティアーレ家に行くとあの絵を見ることができて……母に会えるみたいで……だから私にとって特別なんです」


 聞いているうちにリーンハルトが見る間に真面目な表情になっていく。


「うん」

「それで、あの画家の方をご存知――?」


 言いかけたレティスの言葉は、ジャスターのノックの音で遮られた。


「お取り込み中でしょうか、お昼の準備が整いましたがいかが致しますか?」


 すっかり時間を失念していたレティスとリーンハルトは顔を見合わせた。


「お腹、すいた?」

「そういえば、そうですね」


 レティスがふふっと笑うと、リーンハルトが彼女の手を引いて、ソファから立ち上がらせる。


「じゃ、お昼ごはん食べよ」

「そうしましょうか」

「お昼ごはんが終わったら、明日王宮に行く準備しなきゃね」

「そうですね」

「嫌だけどね……!」


 いつもののんきな雰囲気がすぐに戻ってくる。

 そして、ありがとう、と彼女の背中に向けてリーンハルトが呟いた声は、レティスには届かなかった。 


 ◇◇◇


 翌日のお昼すぎ。


 平服で良いと言われたが、勿論一国の王に会うわけだから文字通りに受け取るわけにはいかない。レティスは手持ちのうち、一番上等な、そして派手すぎない紺色のドレスを選んだ。ミシェルがレティスの髪を上品な印象を与えるように、手早くまとめてくれる。


「素敵だわ、ありがとう、ミシェル――」


 振り返ったレティスはそこで言葉をのみこむ。いつも明るいミシェルが、なんだか顔色が優れないように感じたからだ。


「どうしたのミシェル……? 具合、悪い……?」


 心配して声をかけると、櫛を持っていたミシェルがはっとしたかのように唇を震わせた。


「いえ、なんでもないです。申し訳ありません」

「そう……? だったらいいけれど。体調がよくないなら、休んでね」

「ありがとうございます、レティス様」


 そう答える声にもいつものような張りがない。出発の時間が迫っていたレティスは心を残しながら部屋を出た。


 玄関ホールに、リーンハルトが立って待っていた。

 今日は王に会うからいつもの簡易の布を巻くのではなく、つばのない白い布の帽子を被っている。カフスにマッチしたダークグレーのウエストコートの下には、シルクのシャツと細身の黒いパンツを合わせていて、彼の美貌を際立たせている。


「レティス!」


 その彼はレティスを見ると嬉しそうに顔をほころばせた。


「お待たせいたしまして、すみません」

「待ってないよ。そのプルシャンブルー色のドレス、レティスによく似合ってるね」


 レティスは自分のドレスを見下ろした。


「ネイビーかと思っていましたが、これはプルシャンブルーでしたか」

「うん。ネイビーよりちょっと明るいかなって気がしたからさ」

「リーン様がおっしゃるならこれはプルシャンブルーですね」


 顔をあげた彼女は、にっこりと微笑む。


「ふふ。じゃ、行こうか」


 ちょっとだけ首を傾げたリーンハルトが、レティスに向かって肘を差し出した。


 ◇◇◇


 離宮から王宮までは馬車で向かう。

 当たり前のように隣に座ったリーンハルトが、話し始める。


「向こうでルパートってのが待っているって言ってただろう」

「そういえば、閣下がおっしゃっていましたね」

「うん。ルパートは、王宮に住んでいた頃は僕の側仕えと護衛を兼ねていたんだけど……そうそう、クリスティアーレ邸で君も会ってるよ」

「あ、ああ……そういえば……?」


 そういえば大柄で年若そうな騎士がリーンハルトを呼びにきたのはうっすら記憶している。申し訳ないが、それ以上詳しいことは何も覚えていない。


「彼はマッキンゼー公爵家の三男でね、幼馴染でもあるんだ。年はちょっと上なんだけど……、離宮にはついてこれなかったんだ。後で紹介するね」

「はい、楽しみにしています」


 話している間に王宮に到着する。


「レティス、王宮に来たことはある?」

「……デビュタントのときに一度だけ。でも短時間でした」


 シュテット国ではデビュタントを迎えると、王宮での舞踏会に招かれる。実はその時にシュテット王夫妻に挨拶はしている。が、もちろんほんの数秒王の前でカーテシーをしただけで、王と王妃の印象もほとんど残っていないくらいだ。挨拶の時だけは父と義母が隣にいたが、それが終わるやいなや二人は去り、レティスは放っておかれることとなった。

 すぐさまセイディがやってきて、着ているドレスやアクセサリーについて嫌味を言われながら、そのまま馬車に乗り込み帰宅した。それがレティスのデビュタントの全てだった。

 だがもちろん、それをリーンハルトに言うつもりはないが。


「そっか、短時間……、君のお父上とお姉様が一緒だったってことは……、きっと良い思い出じゃないでしょ」


 だがリーンハルトはあっさり看破してしまい、レティスは黙るしかなかった。御者が開けた扉からひらりと降りたリーンハルトが、レティスに手を差し伸べる。


「じゃあ、こう言わなきゃいけないね――ようこそ王宮へ、レティス」


 レティスは息を呑む。

 陽光が彼を照らし、背筋をぴんと伸ばした姿は――神々しいとも思えるくらい美しい。


(やっぱりこの方は……王子様なのだわ……)


 レティスはそんなことを考えながら、その手を委ねる。優しいがしっかりとした手つきでレティスを馬車から下ろしながら、リーンハルトが舌を出す。


「なんて、自分の家みたいに言ってしまったな」


 先程までの神々しさは消え、すぐにいつものリーンハルトに戻った――レティスのよく知るリーンハルトに。

 

「いえ、リーン様にはその資格がありますわ」

「まさか、ないよ。だって僕は今は住んでないもの」

「でも――」

「――…お待ちしておりました」


 二人がいつものように二人の世界で話していると、そこへ野太い声が響きわたり、レティスは思わず身体を震わせてしまった。


「ルパート、声が大きい。レティスが驚いただろ」


 彼女をかばうようにリーンハルトがレティスの前に出ながらそう言うと、騎士服姿の赤い髪の青年がさっと礼をする。


「大変失礼いたしました。無粋な行動をどうぞお許しください、レティス様」

「い、いえ、こちらこそごめんなさい。どうぞ頭をお上げください」


 慌ててレティスがそう言えば、青年がさっと姿勢を戻した。

 立派な体格の青年だった――リーンハルトより二十センチは身長が高いだろう。線が細く中性的な美男子であるリーンハルトとは違い、どこもかしこもごつごつとした骨太の印象を与える。精悍な顔立ちもあいまって、男らしいといった風貌だ。年の頃はおそらく三十歳手前、といったところだろうか。


「ルパート=マッキンゼーと申します。今日はお二人の護衛を任されております」

「うん、よろしく。では青の間に行こうか」

「かしこまりました。案内致します」

「ああ」

 

 リーンハルトがのんびりとした口調で答える。


(きっと、ルパートさんのことはお好きだわ、リーン様は……)


 彼の雰囲気からそれを察したレティスは、緊張で自然と力が入っていた肩を下ろした。


「じゃあ、レティス、行こう?」


 いつものように彼に肘を差し出され、レティスはそれに掴まった。


 ◇◇◇


 王宮はあまりにも綺羅びやかで、どこを見ても目が滑ってしまう。


 どこまでも高い天井と、ふかふかの青い絨毯が続いている。天井を見上げれば、きらきら輝くシャンデリアが輝いている。そして廊下に置かれた高価そうな壺に寸分の狂いもないと言わんばかりに生けられた花たちと、レティスも知っている有名な画家たちによる絵が壁に飾られている。


 最初はただただ圧倒されていたレティスだったが、途中から心に蓋をすることにした。そうしないと、まともにまっすぐ歩けない。

 階段を登り、いくつもの扉を越え、やがて一つの扉の前でルパートが足を止めた。

 彼が一歩下がり、礼をしたので、レティスにもここが青の間なのだということが分かる。


「ありがとう」


 リーンハルトはルパートに告げると、ちらりとレティスに視線を送った。


「心の準備はいい?」

「――はい」


 レティスは彼の腕に掴まっている自分の手に力を込めた。

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