第19話 「はずれ王子の秘密と初めてのキス」

 しかしレティスの目の前で、リーンハルトはみるみるうちに顔面蒼白になっていってしまった。


「少しだけ、僕の、話を……」


 彼が自分の眉根に人差し指と中指をあてながらそう小さく呟いたから、レティスの胸はさっと悲しみに満ちた。


(まだリーン様が話されたいタイミングではないのに……っ)


 レティスの脳裏に、セイディの所業をどうしても告げられなかった日のことが過る。


 姉のことを客観的に眺め、少し心の距離が出来たと思っていた。対処だって以前よりはそつなくできるようになっていたとも。けれどいざリーンハルトに姉のことを話そうとしたら、どうしても言葉にならなかった。


 自分でもショックだった――姉にまだ囚われていることに気付いてしまったから。

 でもそんなレティスをリーンハルトは理解し、尊重してくれた。

 友人や、家族のようにハグまでしてくれ、温かみを分け与えてくれたのだ。


(私も、リーン様にそうやって寄り添いたい)


「リーン様、どうかご無理なさらないで。明日に向けて、私が最低限知っておくべきことはなんでしょうか。それだけでいいですから」


 その言葉はどうやらリーンハルトに届いたらしい。


「……それだけ、で……?」


 のろのろと手を下ろしながら、ぼんやりと彼が呟いた。


「もちろん。私は、リーンハルト様の話したいと思われるタイミングを待ちたいです」


 レティスの言葉を噛みしめるように、彼が繰り返す。


「僕の話したいタイミングを待ってくれるんだって……? ありがとう……やっぱり君は優しいね……」


 血の気がひいていた彼の頬に、ゆっくりと赤みが戻ってくる。そこでレティスは彼の額に汗がびっしょりと浮かんでいることに気づく。


「ちょっと気分転換にお茶でも?」

 

 心配になって申し出てみたが、リーンハルトは首を横に振った。


「ううん、いらない。多分お茶を飲んでるうちにくじけちゃうから、今話す。――あのね、僕がはずれ王子って言われているのは……まともに政務ができないからなんだ」

「まともに……?」


 そっと尋ねると、リーンハルトがくっと息を呑み込む。 


「……そう、まともに。こんな離宮に押し込められているし、公務には携わらないってことで想像ついていると思うけど、でもそれは、政務だけじゃなくて、ずっと、ずっと昔からで……」


 彼の声が徐々に掠れていく。


(あっ……!)


 カタカタと震え始めてしまったリーンハルトにレティスは思わず手を伸ばした。


「そこまでで大丈夫」


 彼の腕に手を置くと、リーンハルトのそれがぴくりと動く。


「でも、父上が……きっと余計なことを、レティスに言う……言っちゃうんだ。そしたら、そしたら、レティスだってきっと………だって今まで、それを知ったらみんな落胆したから」


 喋りながらリーンハルトが俯いていってしまう。 いつしか彼の言葉遣いは、まるで子供のようになっている。


(きっと、ご不安のあまり、取り繕ったりできないんだわ)


 そこまでの負担を彼に強いて、秘密を知りたい訳ではない。


「もう話さなくていいです。私、出来る限りのことはします。必要があれば事情を知っているふりをしますから。ね、安心してください」


 リーンハルトの指がそろそろと彼女の手へと伸びてきて、すがるように握りしめる。レティスは薄手袋をしているが、リーンハルトはつけていないというのに、彼の手はあまりにも冷たい。レティスはぎゅっと握り返した。


「私、リーンハルト様の味方です」

「……みかた……?」

「はい。だって婚約者ですもの。リーンハルト様と一蓮托生です。そのつもりでいますから」


 伝わってほしい、と願いながらレティスは一生懸命言葉を紡いだ。


「ありがとう、レティス。僕……かっこ悪いな、君にそこまで言わせちゃうなんて……」


 彼がはぁ、と息を吸って、吐いた。数回それを繰り返してから、静かに呟いた。


「聞いて」


 彼がすっと息を吸い込む。


「僕ね、文字が読めないんだ」


 レティスは数回瞬いた。


 リーンハルトの顔はいまやもう真っ青だった。だが彼は囁くように続ける。


「うまく説明できない……でも、どうしても文字を判別することが出来なくて。滲んだり、二重に見えたり……歪んでる。ずっと、そうだった」


(……文字を、判別することができない……?)


 レティスはリーンハルトの言葉を胸の中で繰り返す。


「家庭教師は頑張ってくれて……文字に慣れる術を一緒に考えてくれた。訓練して、なんとか頑張れば、調子が良ければ、読めないことも、ない……くらいにはなった。だけど、全然読めない日もあるし、そもそも人と同じスピードでは読めない。複雑な文章は読み解けない。それに書くのも難しい。書こうとはしても似ても似つかないものになっちゃう。名前くらいは、なんとか書ける。だけど、それで精一杯だ」


 リーンハルトから表情がみるみると失われていく。


「そもそも不吉な髪色と、ちょっと見ない色の瞳で生まれたのに、その上、まともに文字を読むこともできない……だから、僕ははずれ王子なんだ」

「――!」


 そうだったのか、とレティスは一気に腑に落ちた。


 自分がはずれ王子などと揶揄されているのを知っていても、受け入れている。

 四阿で本を読んだら気持ちよさそうですね、と言うレティスに僕なら昼寝をしちゃう、と答えた彼。

 離宮の図書室に本があまりにも少ないこと。

 そして植物や色について、本ではなく庭師や家庭教師から学んだという。

 本について聞けば、いつも朗らかな彼らしくなく、表情がなくなった。


(……本嫌いではなくて……きっと……読むのが苦手でいらっしゃるから……)


 文字を読むのが苦手な人がいる、というのは、貴族の知り合いの中では聞いたことがない。自身も問題なく文字を読めるため、それが真実かどうかは判断がつきかねる。だがリーンハルトが嘘をつくような人ではないのは確かだ。


 だからレティスは彼を信じる。


(きっとずっと……お辛かっただろうな……)


 レティスには想像することしか出来ない。

 だがなんとか克服しようとリーンハルトが凄まじい努力をしたのは簡単に想像がつく。『人と同じであるために』髪色も、かぶれてでも金色に染めていたのだから。


(そっか、きっと……家庭教師との学びが始まって、そのことが分かって……髪の毛も染めなくていいと言われたのかもしれない)


 以前彼が話していた内容と合致する。 


(……王子、でいらっしゃるから……)


 実際、王族が文字を読めないというのは致命的だろう。

 今、こうしてリーンハルトが離宮で暮らし、公務に携わらないという決定がされていることは『正しいこと』なのだろう。けれど、リーンハルトにとっては王子に生まれついたことは不幸としか言いようがない。

 王族でなければ、彼は彼らしく生きられたかもしれないのに。


 そこでレティスははっと気づく。


(はずれ王子って二つ名をご存知だったくらいだもの、嫌なことを言う人はいっぱい身近にいらしたんじゃないかしら。だからじゃがいもをかぶせるしかなかったんだ……)


 レティスに授けてくれた対処法は、きっと自分のために編み出したのだ。

 そう思うと、胸がぐっと痛んだ。


(リーン様には、文字が読めなくっても素敵なところはいっぱいあるのに……)


 レティスは、リーンハルトに王子としての価値は見出していない。だから彼が文字が読めない事自体は――彼が今までつらい日々を過ごしていたことは胸が痛いけれど――彼を判断する材料にはならないのだ。


(リーン様は、穏やかで、それこそ私なんかよりずっと優しくて、思いやりもある方。……自分の目で見たものだけを私は信じる……!)


 レティスはぐっと顔を上げた。


「リーン様、話してくださってありがとうございます」

「……!?」


 それまで項垂れていたリーンハルトが仰天したようにレティスを見下ろした。


「レティス、僕のことが嫌にならないの!? だって、僕……何もまともにできないんだよ。今までできなかったんだもの、これからだってできるわけがない。レティスにも迷惑かけること、たくさんあると思う――だって僕は、はずれ王子だから」


 レティスはかぶりを振って、彼の手を握っている手に力を込める。リーンハルトが信じられないものを見るように、二人の繋がれた手に視線を落とした。


「私にとっては、はずれなんかじゃないです」

「レティス……」

「何もできないわけない。リーン様は植物にもお詳しいし、色だって詳しく判別することができるじゃないですか。それになにより、リーン様は素敵なお人柄です」


 彼がぽかんとして、レティスを見下ろす。


「私は、リーン様の婚約者になれて、よかった。それだけは父に感謝します」

「……お父様に、感謝するって……」

「言葉のとおりです。リーン様との婚約は、父の下した決断の中でもっとも最良のものです」


 きっぱりと言い切り、それからレティスは改めて彼に微笑みかけた。


「リーン様、勇気を出して、私に話してくださってありがとう」


 そこでようやくリーンハルトの表情が変わって、眉毛がちょっとへの字になる。


「……レティス……」

「はい」


 彼の瞳が少しだけ潤んだように思える。


「……レティス、何て言ったらいいのか……今まで、このことで、がっかりしなかった人がいなかったから、その……わっ」


 レティスは衝動のまま、彼に近寄ると、繋いでいない方の手をリーンハルトの背中に回した。


(私も、お姉様とお父様のことを思い出して辛かった時ハグをしてもらって安心したもの。ちょっとでもリーンハルト様にも一人じゃないって伝えたい……)


「ど、どうしたの……?」


 最初はわたわたと慌てたように手を動かしていたリーンハルトだったが、やがて大人しくなり、そのまま彼女をぎゅっと抱きしめた。


「ありがと……ハグすると、やっぱり元気になる」


 その声に誘われるように、レティスは視線をあげた。リーンハルトの紫色の瞳が、潤んでいるように思える。レティスは吸い込まれそうな美しい瞳を見ながら呟いた。


「クロッカス」

「えっ!?」

「ラベンダーかライラックと思っていましたが、クロッカス色ですね、リーン様の瞳」


 柔らかな青みが強い薄紫のリーンハルトの瞳は、クロッカスに近いのではないか。ここしばらく色彩辞典を読み込んでいたから、間違いない。

 唖然としていたように見えたリーンハルトが、ふは、と力が抜けたように笑った。


「レティス、最高だな……」

「クロッカスで合ってます?」

「レティスがクロッカスだと思ったなら、クロッカスでいいよ。僕の瞳は今日からクロッカス色だ」


 いつか刺繍の糸がピーコックブルーかピーコックグリーンで同じようなことをレティスはリーンハルトに告げる。そんなことを思い出していると、みるみるうちにクロッカス色の瞳が近寄ってきて――彼女の唇は、リーンハルトのそれにふんわりと覆われた。


「――!」


 キスをされた、と気付いたレティスが目を見開くのと、リーンハルトがぱっと顔をあげ、赤面したのが同時だった。


「ご、ごめんね、レティス。レティスが好きだ、って思ったら、とめらんなかった……」


 ――レティスが好き


 レティスの顔にゆっくりと微笑みが広がっていく。

 胸のうちが暖かく、緩んでいく。それこそ、サンルームでリーンハルトと共に過ごしている時間に感じているように。そう、彼と過ごす時間はすべて、特別だった。


(今までこんな気持ちは誰にも感じたことがない――私、私も――) 


「いいんです、謝らないでください――私も、リーン様が好きです」


 レティスの笑顔を見たリーンハルトが瞬きをして、それからもう一度彼女を引き寄せると――再び口づけを落とした。初めてのキスは、ただ唇を合わせるだけのものだった。それでも彼への思いで胸がいっぱいになる。


(リーン様……だいすき)


 しばらくして顔をあげたリーンハルトが、レティスの頬にそっと小さくキスをする。


「ありがとう、レティス。本当のことを知っても、僕のことを嫌がらないで、側にいると言ってくれて……そんな人今までいなかったよ――君は本当に優しいね」


 今までも何度も優しいねと言われた。

 その度に、自分は優しくないと打ち消してきた。


「私が優しいかどうか……自分ではわかりません」


 レティスはリーンハルトを至近距離で見上げると、クロッカス色の瞳が、彼女を真剣に見つめた。


「リーン様のように、私も勇気を出して……お話致します。聞いていただけませんか?」

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