第18話 「少しだけ僕の話を聞いて欲しい」

 それからも穏やかな日々が続いた。


 あの日のように至近距離で見つめ合うことはないが、それでも二人の距離は日に日に、自然と近づいている。日毎にお互いのことを一つずつ知っていく。それに応じて、態度も、会話も、少しずつ親しみあるものへと変化していく。どうしてかあれから一度もリーンハルトが部屋に籠もることはない。 

 心配になって一度聞いてみたが、彼自身意外そうに「大丈夫みたい」との返事だったので、それ以上は気にしないことにした。


 ――そうしてレティスは気づく。

 時々、リーンハルトが彼女のことを真剣な表情で見つめていることに。


 向かいのソファから視線を感じて、レティスは色彩について説明された本から顔を上げる。

 今日のリーンハルトは、朝からなんとなく元気がないように感じられた。それは、アフタヌーンティーを済ませてからサンルームで思い思いに過ごしている間も変わらなかった。


(いつもだったらもっと賑やかにお話なさってくれるのに)


「どうされました?」


 ばちっと視線が合ったリーンハルトが、寝そべっていたソファから起き上がると、片膝を抱えた。


「――……なに、読んでるの」


 ぽつりと呟かれた言葉に、目を丸くした。まさか本について尋ねられるとは思わなかった。


「これですか? 色彩についての本です――ご覧になられますか?」


 差し出したが、リーンハルトはそっけなく首を横に振る。


「ううん、その必要はない。だって僕は――」

「はい」

「……僕は……」


 だがいくら待っても続く言葉はなかった。内心首を傾げたレティスはリーンハルトの顔を見て、目を見開いた。


(ああ、またやっぱり……切なそうな……)


 レティスはゆっくりと口元に笑みを作って、ちょっとだけおどけた口調で続きを引き取った。


「リーン様は色彩のエキスパートでいらっしゃいますから、本は必要ありませんよね」

「――……エキスパートって」

「ふふ、違いました?」


 レティスはにっこり笑うと、再び読書に戻った。リーンハルトが抱えていた片膝をぎゅっと自身に引き寄せる。


「ありがとう、レティス。全てを話して、君に嫌われてしまうのが、怖いな……」


 その囁きはレティスの耳には届かなかった。


 ◇◇◇


 そうして三ヶ月が過ぎた頃、宰相が離宮へやってきた。折しももうすぐ初雪が降るかも、とリーンハルトと話していた矢先のことだった。

 ジャスターから宰相の訪問を聞き、朝食後の散歩を取りやめてサンルームで彼を迎えた。

 ベッケンバウアーの名を聞くと同時に頭に布をすっぽりと被ったリーンハルトは、当然のようにレティスの隣に座った。婚約者ならば何もおかしくないが、しかし二人を見守る宰相の視線はどこか満足げだった。


「おはようございます。突然の訪問をご容赦ください」


 向かいのソファに腰かけたベッケンバウアーが明るい声を出す。朝一番だというのに、宰相の機嫌は上々のようにうかがえる。


「殿下のご機嫌はいかがでいらっしゃいますか」

「うん、悪くないよ。――それで、突然来て、なに?」

「陛下がぜひ、殿下とレティス嬢にお会いしたいと。急ではありますが明日の午後ならお時間が取れるそうです。あくまでも私的な集まりなので平服でお越しいただければ」


 意気込むベッケンバウアーとは裏腹に、リーンハルトの眉間に皺が寄る。


「父上が?」


 どこかそっけない口調で、そこで宰相の勢いが削がれた。

 

「その……まぁ、陛下も、その……」

「わかってる。……“時間がなかった”んだよね?」


 淡々とリーンハルトが呟く。

 息子の――王子の――婚約者にこんなにも長い間会わないことこそ、リーンハルトの王宮での立場がうかがいしれるというものだ。それを言えば、宰相がこの離宮にやってきたのも数ヶ月ぶりである。


「私からは詳細を申し上げられないのですが、状況を整えるのにこれだけ時間がかってしまいましたが……き、来ていただけますでしょうか?」


 機嫌を伺うかのようにベッケンバウアーがおそるおそる尋ねると、リーンハルトがため息をついた。


「レティス、付き合ってくれる?」

「!」


 まさか自分に意向を尋ねてくれるとは思わず、レティスはぴくんと身体を小さく震わせた。ベッケンバウアーが頼みの綱とばかりに、すがるような視線を彼女に送ってくる。


「殿下がお望みでしたらご一緒させていただく所存です」


 ベッケンバウアーが安堵したように表情を緩めるのが視界の端にうつると同時に、リーンハルトが口元に笑みを浮かべた。


「ありがとう。本音を言えば僕は行きたくないんだ」


 途端に宰相が青ざめる。


「で、殿下……! ですが、その、陛下がご所望されているわけですから……、その……」

「分かっているよ、レティスの評判にも関わることになってしまうんだろ? だから行くことにする」

「レ、レティス嬢の……評判?」

「それ以外に何がある? 何故そんなに驚いているの?」


 あっけに取られたような宰相が、首を横に振った。


「い、いや、殿下が……他の人のことを気にされることが今までなかっ……、あまりなかったようにお見受けしましたので、その……」

「他の人って……レティスは僕の婚約者だよ?」

「は、はぁ、おっしゃる通りです……」


 レティスはリーンハルトの横顔を見上げる。

 宰相はジャケットの胸のポケットから白いハンカチを出し、せかせかと自分の額をふく。


「えっと……では私は今日はそのことを話に来ただけですので……、明日午後一番に王宮の“青の間”でお待ちしております。ルパートをつけます」

「わかった」


 リーンハルトの気の変わらぬうちに、と言わんばかりにベッケンバウアーがさっさと腰を上げ、暇を告げた。宰相の姿がサンルームから消えるや否や、リーンハルトは深い溜め息をつきながらソファに寄りかかった。


「明日かぁ……」


 はあ、とリーンハルトが息を吐くと、レティスに視線を送る。


(あ、よかった……、いつものリーン様だ)


 先程までの張りつめたような、険のある表情ではなく、見覚えのある彼に戻っていたからレティスはほっとする。――と、しばらく黙っていたリーンハルトが、おもむろに口を開いた。


「もう潮時か……。父上に会う前に……少しだけ僕の話を聞いて欲しい」

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