第17話 「近づく距離」

それから数日後にリーンハルトが、分厚い本を渡してくれた。


「はい、これ、レティスにあげる。初心者はもちろん詳しい人にでも役に立つ植物図鑑だって」

「わ、ありがとうございますっ! こ、こんな立派な本をいただけるなんて……」


 ずしりと重い大判の本をレティスは大事に胸に抱える。もともと図鑑はそんなに安い値段では手に入らないが、特にこの本は表紙になめした茶色の皮が使われていて、間違いなく高価だと察せられた。

 何より、リーンハルトが約束を違えずに果たしてくれたことにレティスは感動していた。


「いいんだ。一生使える本だよって庭師が言ってたよ」


 にこにこしながらリーンハルトが答える。

 リーンハルト様もお読みになったことがありますか、と尋ねようと思って、本については質問しないと決めたことを思い出し、違うことを口にした。


「私、ずっと大切に致しますね」

「うん、そうしてくれると嬉しいな」


 リーンハルトが明るく応じて、首を傾げる。そうすると銀色の髪がさらりと揺れ、彼が頭巾をまとっていないことをレティスは嬉しく思いながら、笑顔を返した。


 その日からレティスは、時間があるとその図鑑の頁をめくるようになった。

 植物の名前の下に丁寧に描かれたイラストは花だけでなく、草や茎まで詳細が描かれており、育て方はもちろん花言葉についてまで触れられている。


(……すごいわ……)

 

 しかもいわゆる野花についても触れられているという、凄まじい知識量がつめこまれた図鑑であった。


(植物の世界がこんなに奥深いなんて……)


 鉛筆で描かれたようなタッチのイラストは白黒で、色については文字で書き添えられているだけである。


(本当はどんな色なのか知りたい)


 そう考え、翌日から早速レティスは庭園に出るたびに、図鑑で知った植物を探すようになった。そして、リーンハルトはレティスにとって良き教師である。


「リーン様、一つ伺ってもいいですか?」


 その朝、とある植物に目を留めたレティスが声をあげた。


「もちろん」

「このこんもりとした植物、ずっとヒースだと思っていたんですが……正式にはカルーナと呼ばれるのですよね?」


 二人は花壇で、濃いピンク色の花を咲かせているカルーナの前で足を止めた。細長い枝に小さな花をたくさん咲かせ、またそんな枝が密集して咲いているカルーナはとても華やかな印象を与える。


「うん。でもカルーナもヒースと言っていいから、間違いじゃないけどね」

「……そういえば、ヒースは野原に咲いているイメージでしたが、この庭園では花壇に植えられているのですね」

 

 ヒースに分類されるエリカやカルーナは、痩せた土地でも咲くことができる植物のため、わざわざ花壇に植える印象がない。実際アーヴァイン家の庭園でもヒースは植えていなかった。どちらかというと野生の植物に近いのだ。


「うん。僕が好きだから、庭師に頼んだんだ。だから実は最近ここに植え替えてもらったばかりなんだよ」

「そうでしたか」

「ああ。カルーナって、花が小さいけど、長円形なのが可愛いよねぇ」


 いつも穏やかなリーンハルトだが、植物の話となるとずっと熱が入る。


「カルーナにも種類がありますが、こちらはなんと呼ばれますか?」

「カルーナ・ブルガリスだよ。ね、この枝、細かな葉がいっぱいついて立派でしょう? これでほうきを作ったりするんだよ。手のひらサイズのほうきにして、机の上を掃除したりするのも便利なんだ」

「ほうきを! 確かに、作れそうですね」


 レティスはじっとカルーナを見つめた。


「ありがとう」


 唐突にリーンハルトが呟いたので、レティスはカルーナから彼に視線を向けた。


「……?」

「僕に合わせて、植物の勉強を始めてくれたんでしょう? それなのにこんなに熱心に知ろうとしてくれてすごく嬉しい」


 いつものように穏やかな口調だったが、レティスは胸をつかれてすぐには答えられなかった。


(……どうしてだろう、すごく、さみしそう……)


「きっかけは……確かに、リーン様ですけれど」


 レティスは目の前に立っているリーンハルトを見上げた。


「今まで知らなかったことを知るのは純粋に楽しいです。このカルーナのこともヒースだ、と思って、他の名前があるなんて考えもしなかった。考えもしなかった自分は、視野が狭かったな、と思っています」


 はっとしたようにリーンハルトがレティスを見返した。


「知らないまま生きるより、ずっと幸せだと思います。だから私、リーン様に感謝しています」


 リーンハルトの瞳が揺れて、くしゃっとした笑みを浮かべる。


「君はさ……いつもそうやって良い風に言ってくれる。なんでそんなに優しいの?」

「私、優しくなんてないですよ」


 レティスは首を横に振る。

 自分が優しいなどと思ったことは一度もない。優しくもないし、何にも抜きん出ていない。平凡で特出すべきことのない、どこにでもいる令嬢だ。リーンハルトのほうが容姿も中身も非凡だと日々感じている。


「優しいよ。今まで会った誰よりも優しい」


 リーンハルトこそ優しいのに。

 レティスは衝動に駆られ、口を開いた。


「いいえ……、私……姉と父にじゃがいもを被せてるくらいなんですから。優しい人だったら家族にそんなことをしないはずです」


 口に出した瞬間、己の衝動を後悔する。


(あっ、いけない……!)


 目を丸くしたリーンハルトを前に、我に返ったレティスは両手で口をおさえた。

 

「……姉と、父……レティスの?」


 さあっと風が吹いて、リーンハルトの銀色の髪を揺らす。


「それ、本当……?」

「……ッ」

「ね、レティス。それだけは教えてくれない……?」


 嘘はつきたくないとレティスは観念して、こくりと頷いた。すると、リーンハルトの顔がみるみるうちに真剣なものになる。


「そうか。そうなんだね……。もしかして最初に会ったときに言っていた、嫌なことをするのは友達とかではなく……お姉さん?」


 レティスは返事をしようとして、どうしてもそれが出来なかった。姉とは決別したつもりなのに、長年セイディから与えられた恐怖がいまだに彼女を蝕んでいて、喉に何かがつまったようになる。みるみるうちに顔色を悪くして、震えてしまうレティスを前に、リーンハルトが唇を噛みしめる。


「ごめん」

 

 レティスは小さく首を横に振った。


「ご、ごめんなさい……、こ、こんな大げさな反応をしてしまって……」

「謝らないで……レティス、震えてる。……君がよかったら、抱きしめてもいい?」


 その声が憐れみに満ちていたら、レティスには耐えられなかったに違いない。でもリーンハルトの声には、ただただ彼女を励ましてやりたいと言わんばかりの響きだった。だから彼女は数歩前に出て、リーンハルトの腕にすくい取られた。

 ぎゅっと抱きしめられると、思ったよりもしっかりした厚みのある彼の温かい身体を感じて、レティスはあまりの心地よさに瞠った。


 ――思えば、誰かに抱きしめられた経験がレティスには圧倒的に足りない。


 リーンハルトからは檸檬のような爽やかな香りがした。彼女がそろそろとその背中に手を回すと、リーンハルトの身体がびくっと跳ねる。

 慌てて手を引っ込めようとしたが、リーンハルトがそれを阻み、彼女を更にぎゅっと強く抱き寄せた。


「ハグって、こんなに気持ちいいんだね」


 リーンハルトが彼女の耳元で囁く。レティスは女性にしては身長が高いから、顔をあげればリーンハルトの顔を間近で見てしまうことになるだろう。なので彼女はそのまま姿勢を変えず、リーンハルトの喉仏を見つめながら、こくりと頷いた。


「僕、誰かとこんな風に触れ合ったことがないから、今まで知らなかった」


(――リーン様も?)


 その言葉を聞いたレティスは恥じらいも躊躇いも忘れて、ぱっと顔をあげてしまった。思っていたよりももっと至近距離で、目を丸くしたリーンハルトが彼女を驚いたように見下ろす。


「私も、私もです……!」


 そこでレティスは息を呑んだ。

 朝陽の下、リーンハルトの、美しい紫色の瞳に金色の光彩が飛び散っているのが目に飛び込んできたからだ。人の手ではない、自然に生み出された彼の造形美に惹きつけられる。


(なんて……なんて、美しいの……!)


 誘われるようにレティスは右手を伸ばし、彼の頬に添えた。


「とってもお綺麗ですね、リーン様の瞳……」

「君の瞳だって、ライムグリーン色で本当に綺麗だ……」


 二人はしばし見つめ合っていが、数秒後、ばっと離れた。


「わ、ご、ごめんなさい……!」

「僕こそ、ごめんっ……!!」


 お互いに同時に謝り、そこで顔を見合わせ、声を上げて笑った。


「僕たち、なんで謝ってるの……!」

「本当に、なんででしょうね……!?」


 ひとしきり笑ってようやく衝動がおさまると、笑顔のままのリーンハルトが彼女に腕を差し出した。


「散歩を続けようか?」


 そこにはもういつもと何ら変わらないリーンハルトがいた。だからレティスはほっと安堵した。


「――はい」

「そういえば、カルーナの枝で作るほうきのことだけどね、干した枝をまとめてほうきにするって言っただろう? シナモンをかけるのが一般的なんだけど――」


 それから残りの散歩を二人で心ゆくまで楽しみ、レティスの心はずっと暖かいままだった。そして夜寝る時になってようやくリーンハルトにアーヴァイン家について尋ねられなかったことに気付いた。

 リーンハルトがレティスの個人的な背景に興味がないことのあらわれと捉えられるかもしれないが、彼女はそうは思わなかった。


(リーン様はきっと……私が話せるようになるまで待ってくださるおつもりなんだわ)


 リーンハルトにも秘密があるように、レティスにも秘密がある。

 そのことをリーンハルトは理解してくれ、尊重してくれている。


 レティスが寝る直前に思い浮かべたのは、あまりにも美しいリーンハルトの紫の瞳だった。


(私の瞳をライムグリーンと仰ってくれていた。私も、リーンハルト様の瞳の色を、もっと正確に知りたい……あのお色は、何て言うのだろう……)


 色彩の本ならばそこまで難しくないだろうから、ジャスターかミシェルに頼めば調達してくれるだろうか。明日朝一番に頼むことをレティスは決めた。

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