第15話 「いつかきっと君に話すから、どうかもう少しだけ時間をちょうだい」
こうしてリーンハルトの婚約者としての生活が始まった。
朝食の後に天気さえよければ散歩をするのが習慣化した。秋が深まるにつれて、リーンハルトが言う通り葉っぱの色が少しずつ変わっていくのを二人で見守るのが日課となった。
例によって朝食を食べすぎてしまい、昼食を飛ばすことはあるが、アフタヌーンティーは必ず一緒に楽しむ。最初は応接間だったが、寒くなってくるにつれて、日当たりのよいサンルームへと場所を移した。アフタヌーンティーの後にそのままサンルームで思い思いに過ごすことも増えていった。
晩餐も共に囲み、満ち足りた気持ちで就寝の挨拶をして、お互いの寝室へと戻る。
アーヴァイン家にいたときは、いつ絡んでくるか分からないセイディの襲撃に怯えていたのだから、これ以上ないくらい、のんびりとした落ち着いた暮らしだといえる。
最初の印象の通り、リーンハルトは穏やかで優しい気性で、共に過ごす時間は心地よい。リーンハルトの人柄を知れば知るほど、どうして彼がはずれ王子と呼ばれるのかレティスには理解できない。
だがあれから宰相がこの離宮を訪れることはなく、またリーンハルトが王宮に足を向けている様子もない。療養中という体だからしょうがないのかもしれないが、それにしても誰も訪れてこないのだ。王家の関係者もそうだし、同性の友人すらも。
そしてもう一つ。
彼と過ごす時間が長じるにつれ、起こることがあった。
「あ……もしかして、リーン様は……?」
朝食の席についたレティスは、目の前の空席に気づいてジャスターに尋ねた。
「はい。今朝はリーンハルト殿下はお見えになりません」
「ああ、やっぱり……」
レティスはぽっかりと空いた席を見つめ、小さく息を吐いた。
リーンハルトは突然執務室にこもる時がある。
文字通り“突然”で、また短時間のことも、長時間のこともある。長時間のときは、下手をしたら数日顔を見ないこともあるくらいだ。どうやらこれは以前かららしく、ジャスターもミシェルもまったく動じていないが、レティスは一人で気を揉んでいた。
(ちゃんとお休みになられているのかしら……)
前回こうしてこもった時には、実に二日は顔を見なかった。ようやく現れたリーンハルトはかなりげっそりと疲れ果てているように見受けられたのだ。
「お食事は運んでくださっているのよね?」
「はい。お部屋に運ばせて、頂いております」
ジャスターの返信はすっきりしなかった。
運んではいるが、もしかしたらあまり食べていないのかもしれない。
(……何をされているのかな……)
ここでの生活に馴染み始め、リーンハルトがいなかったとしてもレティスは時間を持て余すようなことはない。使用人たちとも問題なく意思疎通が取れるし、居心地はアーヴァイン家にいるよりも余程いいが――。
(リーン様がいないと、寂しいな)
レティスは一人で、味気ない朝食を済ませた。
◇◇◇
その日は父から手紙が届いていた。
気は進まないが、無視をする訳にはいかない。レティスは手紙を読んでからため息をつく。内容は簡単に想像がついたものだった――レティスの機嫌うかがいと、必要なものがあれば言いなさい、婚約者として自覚をきちんと持つように、と諭すようなことが書かれ、最後は必ず、殿下に誠心誠意仕えなさい、と結ばれている。
この離宮に召されてから一ヶ月以上が経っているが一度も実家には戻っていない。アーヴァイン家に残してきたレティスの身の回りの品は、婚約が結ばれてからすぐに父が送ってきた。レティスは送られてきたドレスや宝飾品を眺め、随分減っているなと思ったものだ。
――目ぼしいものはセイディが奪っていったのだろう。
レティスは簡単に返事を書くと、ミシェルにアーヴァイン家に送るように言付けた。
(……分かっていたけど……お父様にとって、私自身には興味がなくて……ただ、殿下の婚約者である私を気遣うというパフォーマンスに夢中になっているだけ……)
かつて父に愛されていた、という幻想はもう捨てた。父は、母のことはもしかしたら愛していたかもしれないが、レティスのことは愛していなかったと結論づけた。
その証拠が、この味気ない手紙だ。
きっと父は、結婚式には胸を張って出席するのだろう――“王子”の妃の父親として。
レティスは疼く胸の痛みをやり過ごそうと、目を瞑った。
(忘れよう……、うん、お父様にも、じゃがいもをかぶせて……)
空想の中でラッドリーにじゃがいもをかぶせると、ようやくレティスの胸の痛みは和らいだ。彼女は口元に小さく笑みを浮かべると、サンルームに向かうことにした。
廊下に出て、リーンハルトの部屋の扉を遠くに眺める。今までもちろん、一度も彼の部屋に入ったことはない。今も扉は固く閉じられたままだ。
(リーン様、何をしてらっしゃるかな……)
彼がいないとやはり寂しい。レティスは何度目かの言葉を胸の内で呟いたのだった。
(仕方ない。私一人でも楽しく過ごせるはず)
気持ちを入れ替えたレティスはサンルームへと足を向けた。
夕暮れ時、サンルームで刺繍をしているレティスに足音が聞こえ、程なくして慌ただしく扉が開いた。
「レティス、ごめんね!」
(――リーン様!?)
今日何度となく思い浮かべていた彼の顔を見ることが出来て、胸がとくんと高鳴る。
跳ねるような足取りで入ってきたリーンハルトの目の下には、あきらかな隈があり、顔色もあまりよくなかった。リーンハルトは執務室にこもった後――それが短時間でも長時間であっても――必ずこうしてレティスに謝罪してくれる。
レティスは座っていたソファから立ち上がると、彼を迎えた。
「リーン様、顔色があまりよろしくないです。ちゃんとご飯を食べられました?」
はっとしたかのようにリーンハルトが首を横に振る。
「……、た、たべてない……」
「やっぱり! 今にも倒れちゃいそうな感じですよ。――ごめんなさい、厨房に行って何か軽くつまめるものを持ってきていただけますか?」
すぐさま壁際に立っていたメイドの一人が身を翻してサンルームを出ていった。この離宮の使用人たちはリーンハルトによく仕えてくれている。
「あ、ありがと……」
「まずは座ってくださいな」
レティスの隣、一人分をあけてリーンハルトが腰かける。
「ごめんね、レティス。怒ってない?」
心配そうなリーンハルトが、レティスをうかがうように見る。彼の紫色の瞳は、不安げに揺れているし、きゅっと口元もすぼめられている。
(毎回、こうなのよね……私が怒ると思っているのかしら)
レティスは彼を安心させるように、微笑んだ。
「怒っていませんわ。でも、倒れられたら心配なので、食事と休息はちゃんととってほしいです」
「……うん、気をつける」
リーンハルトが安心したようにひとつ息をつくと、無意識にだろう、前髪をぐしゃぐしゃといじった。すると被っていた布がはらりと足元に落ちる。
夕暮れの光に照らされ、リーンハルトの肩まで伸ばされた銀髪がまばゆく輝き、レティスの視線を奪う。
(やっぱり……とってもとっても、綺麗……)
「……あっ、ご、ごめん!」
だが慌てたようにリーンハルトが布を拾い上げ、また巻こうとしたので、思わずレティスはその腕に手を置いて制した。
「このままで、大丈夫ですよ」
「えっ」
リーンハルトが絶句する。
彼は拾った布を握りしめ、おろおろと視線を彷徨わせた。
「最初の夜、リーン様は布を巻いていらっしゃいませんでした。私、その時に怖くないと申し上げましたはずです」
思い至ったのか、ようやくリーンハルトの瞳がいつものような落ち着きを取り戻す。
「そうだ……そうだったね……。本当だったら、布を巻くべきだったのに……。あの夜の僕は、ちょっといつもと勝手が違ったからはしゃいでたんだよね……あんな夜に君に会ってしまって、申し訳なかったな」
リーンハルトらしくない元気のない言葉に、胸が痛む。
「……でもあの夜にお会いできたから、私は今ここにいます。だから、申し訳ないなんて思ってほしくないです」
それを聞いたリーンハルトの表情が変わる。
今にも泣き出しそうだ、と思ったが、彼はなんとか堪えているようだった。
「本当に……? こんな髪、嫌でしょ? みんな嫌いだって……」
「不吉と噂されているからですか?」
「……うん。生まれる前に、悪いことをした人がこんな髪色で生まれるんでしょう? 王宮でも僕が生まれた瞬間から皆が扱いに困ったって聞いてる」
レティスは彼に向き直った。
普通に考えれば、王族の人間が不吉だと言われる髪色で生まれたら一大事だろう。リーンハルトの瞳の色もなかなかに珍しいが、こちらは白っぽい髪色ほどは忌み嫌われることはないはずだ。
「だから、小さい頃は髪を染めてたんだ、金色に」
「そうでしたか」
それは民衆の前に出ることもある王族として、当然の選択だったのだろう。
「でも肌が弱かったみたいで、染めるたびにかぶれちゃってて。痛いし、痒いし、染めるの大嫌いなんだ。でも染めなきゃいけないって言われるから、染め続けていたんだけど……」
「まぁ、それはお辛かったですね」
リーンハルトは全体的に色素が薄いから、肌が弱いというのも納得できる。王族でなかったら染めなくてもいいだろうに、と聞いていて胸が痛かった。
「うん。でもある時ちょっとしたことが分かって。それからもう必要がなくなって、もういいかなって……染めなくなった。その代わり、人に会うときには布を巻くことにしたんだ。会うことも減ったし」
「ちょっとしたこと……?」
リーンハルトの顔がみるみるしょげ返る。
「うん、ちょっとした……ううん、ちょっとしたことじゃない。だけど……今はまだ、話せない……もう少しして、僕に勇気が出たら聞いてくれる?」
おそるおそる尋ねられ、レティスは瞬きを繰り返す。
きっとそれは、おいそれとは話せない内容に違いない。
間違いなく、通りすがりの令嬢が聞いてはいけない範疇のことだろう。今日リーンハルトがここまで話してくれているのも、もしかしたらきっとレティスが彼の婚約者になったからかもしれない。――ということは。
「それはもしかして……“はずれ王子”と呼ばれていらっしゃることに関係しますか?」
「――うん」
あたりをつけて尋ねると、こくりと真剣な表情のままでリーンハルトが頷く。
(ああ、私に、秘密を話したいと思ってくださって……)
リーンハルトが自分を信頼しようとしてくれているのだ、とそれだけで胸がいっぱいになる。レティスはぎゅっと自分の手を握りしめると、彼の顔をのぞきこんだ。
「分かりました。私に話しても良いと思われたときに、教えてください」
レティスはそうゆっくりと呟き、それから姿勢を戻した。
「それとは別に、私はリーン様の髪の色を本当に綺麗だと思っていますから、私の前では隠される必要はありません」
信じられないとばかりにリーンハルトが口をぽかんと開いた。
「……いいの? 確かに、君はずっとそう言ってくれているけど――」
「私が、そうして、ほしいんです。だってすごく綺麗だから……それに知っておいてもらいたいのですが、私にとってリーン様に会えたことは不吉でもなんでもありません。むしろ……辛いことから抜け出せたくらいでした。だからリーン様の髪の毛が不吉の象徴のわけがないんです」
ぐっとリーンハルトが息を呑む。
しばらく沈黙が続いたが、やがて彼が掠れた声で、ありがとう、と呟く。
「いつかきっと君に話すから、どうかもう少しだけ時間をちょうだい」
真珠のように輝く髪と、美しい紫の瞳を見つめながら、レティスは微笑んだ。
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