第10話 「君が、そう思ってくれたなら嬉しい」
しばらくリーンハルトはあっけに取られたようにレティスを見つめるばかりだった。だがやがて彼の表情にゆるゆると笑みが浮かんでくる。
「僕は、たいしたことは言ってないよ――それでもそう言ってくれるの?」
そこには確かに喜びの響きが感じられ、先程までの悲痛さは消えているように思えたレティスはほっとした。
「はい、私にとってはそれだけが事実ですから」
はっきりと頷くと、リーンハルトの頬にさっと朱が走ったような気がした。
「そう言ってくれて、ありがとう」
彼はどこか遠くを見つめるような視線になる。
「だが……君を縛りつけてはいけないな――実は、婚約者のリストに君の家の名前があるって聞いて……レティス=アーヴァインか、と聞いただけでこうやってアーヴァイン家まで話が通ってしまったんだ。迷惑をかけるつもりではなかった……だから婚約は断ってもらって構わない。ベッケンバウアーに頼んで、君の家に責を負わせないようにするから」
独白めいた呟きに、レティスは目を瞠った。
(今まで婚約が成立しなかったのも……こうやってご自分で辞退されていたのかしら)
そしてそれは――はずれ王子、という二つ名に関わりがあることなのだろうか。それとも、関係なく?
「あの……、一つうかがってもよろしいでしょうか?」
「もちろん。一つじゃなくても、何でも聞いて。答えられることなら、何でも答えるよ」
レティスは唇を舐め、湿らせる。
「どうして私のことを覚えていてくださったんですか?」
その質問は予想外だったらしく、目に見えてリーンハルトがきょとんとした。
「どうしてって……だって君は僕を怖がらなかったし、それに君と話すのはとても楽しかったから」
――怖がらなかった
――とても楽しかったから
シンプルな言葉ゆえに、レティスの心にまっすぐ届く。
怖がる、というのはおそらくリーンハルトの髪の色のことだろう。高位貴族の育ちで、信心深い令嬢であればあるほど、白っぽい髪は畏れの対象かもしれない。けれどもう一つの楽しかった、は素直な彼の感想だった。
「じゃがいもの話をまともに聞いてくれたのは君が初めてだったよ。そんな君のことを忘れられるわけがない。だからまた会いたいと思ったんだ」
(ああ……貴方にとっても、あの夜は……忘れ難かったと思ってくださって……?)
レティスはきゅうっと胸が痛むような感覚に陥った。痛むといっても切り裂くような鋭い痛みではなく、甘酸っぱい痛みで。
(なんだろう……?)
今まで縁のない痛みだったが決して不快ではない。無意識にレティスは自分の胸のあたりをぎゅっとつかんだ。
「レティス、どうしたの?」
こてんと彼が首を傾げる。
どこか幼い仕草で、口ぶりとはそぐわない印象を与えるが、そんなリーンハルトの美しい紫の瞳を見つめながらレティスはゆっくりと心を決めた。
この婚約に自分の意思は関係しない。
だが、自分の言葉で伝えたい、と思った。
「私も、もう一度リーン様にお会いしたいと思っておりました」
途端、彼の紫色の瞳が丸くなる。
「本当に?」
「はい」
肯定すると、リーンハルトの顔にじわじわと笑みが広がっていく。
(あ……この笑顔は……さっきまでとは違う……!)
気づいたレティスの胸がふたたび甘く締め付けられ、そのまま衝動的に呟いた。
「私……僭越ながら私でよろしければ婚約をお受けさせていただいてもと考えています」
「え?」
リーンハルトが驚いたように彼女を見返した。
「本当に? 本当に僕みたいなはずれ王子が相手でもいいの……? しかも聞いているかわからないけど、婚約を受けたら、僕はほとんど公務に携わることがないから、この離宮に縛りつけられてしまうと思うよ。僕は療養中となっているから、必要な夜会にごくたまに参加するくらいで」
療養中とは、確かに父も言っていたと思い返す。だが目の前のリーンハルトが心身ともに健康そうなのに、一体どういうことなのだろう。
「はい」
「いいの……? それは……アーヴァイン家の意思ではなく、君の意思?」
慎重な口調で再度確認される。
父はアーヴァイン家の利益だけを考え、既に婚約承諾の意を宰相に伝えているだろうことをレティスは疑っていなかった。リーンハルトもそのことに気づいているのだろう。
「はい」
彼の瞳を見つめながらしっかりと頷くと、リーンハルトの顔が見る間にくしゃくしゃになる。様々な髪や瞳の色があふれているシュテット国においても、どこか人間離れした容姿を持つ彼は、今にも泣き出しそうだ。
「君がそう思ってくれたのなら、嬉しい」
リーンハルトがそう呟き、レティスの胸がひとつ高鳴った。
「……でも、僕、はずれ王子なんだ。いたずらに、はずれ王子って言われているわけじゃない。きっと……君も僕に落胆するだろう」
あまりにも悲痛な、どこか絶望を感じさせる声だった。
「君がそれを知ったときに、逃げられるように手はずを整えておいてあげる。僕はきっと君をがっかりさせるだろうから――それでも僕は君に側にいてもらいたい……それまででいいから」
「リーン様、それは……」
レティスは返事をしようとしたが、その瞬間サンルームの扉が開いてベッケンバウアーが慌ただしく入ってきたので果たせなかった。
「殿下、髪は――」
ベッケンバウアーはリーンハルトの頭にきちんと布が巻かれていることを確認した後、安堵した様子で頷いた。
「まさか殿下がこちらにいらっしゃるとは思いもよりませんでした。えっと……何をお話になられていたので?」
宰相が入ってくるやいなや、リーンハルトの顔に先程まで貼りつけられていた温度の感じられない笑みが浮かぶ。
「たいしたことじゃないよ」
「……本当に?」
「本当だよ」
心配げに宰相がちらりとレティスに視線を送ったので、彼女は頷いてみせた。
「だったらいいのですが……ではアーヴァイン侯爵もお待たせしていることですし、向こうの応接間に戻りましょうか」
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