第9話 「また会えたね」

 一週間後、ラッドリーと共に王宮の離宮へと参上することとなった。


 母の肖像画の一片は一番最初にトランクにしまい、それ以外は最小限のものにとどめた。


 あれからセイディはまったく顔を見せることもなく、どう過ごしているかは不明だった。もちろん、レティスから姉の機嫌をうかがうようなこともしない。


 姉と自分の関係なんて、そんなものだ。


 それを言えば、隣に座っている父にもいえるだろう。義母であるリザベッドも招待されたが、レティスの輿入れのために骨を折ることを義母が嫌がったらしく、表向きは義母の体調が芳しくないことにして、父だけとなった。


 その父は、“良い父親”の顔をしてレティスの隣に座っている。だが、父のことをレティスは良く知らない。レティスに残っている記憶は、幼い頃何度か抱き上げてもらったこと、母と楽しそうに笑い合う父の姿、母が亡くなったとき呆然としている父の横顔、ただそれだけだ。

 そこで彼女の、父との思い出は止まってしまっている。

 レティスの中では、父は若い頃のまま。

 だから今、隣りに座っている父は、見知らぬ誰かといってもいいくらいで。


(お母様が生きていらしたら……全然違ったのかしら……)


 そこで扉がノックされて何人かの男性が入ってきたので、彼女は物思いから覚めた。父は、共に立ち上がったレティスにそっと「宰相のベッケンバウアー侯爵だ」と囁く。


(宰相様が直々に……!?)


「アーヴァイン殿、この度は呼びつけて苦労をかけた。応えて頂けて心より感謝している」


 その中でも恰幅の良い、一際仕立ての良い服を身につけた中年の男性が口を開いたので、彼がベッケンバウアーだろう。父が平身低頭に挨拶をする。


「宰相殿、そのようなお言葉をかけて頂けるとは、身に余る光栄でございます。レティスと共に喜んで馳せ参じた次第であります」

「うむ――もうしばらくしたらリーンハルト殿下がやってくるから、顔合わせといこう。その前に、諸々の話をさせていただければと思ってね」


 ベッケンバウアーがちらりとレティスに視線を送った。

 彼女が腰を落としてカーテシーをすると、宰相の表情が少しだけ和らぐ。


「レティス嬢、差し支えなければ君のお父上と内密の話をさせてもらいたい」


 もちろん、レティスに否の答えは許されていない。だが宰相の口ぶりは丁寧で、優しかった。


「承知いたしました」

「うん――ジャスター、ここへ」


 しゃんとした背筋を持つ白髪の男性を、この離宮の執事だとベッケンバウアーが紹介する。そのジャスターが、廊下の突き当りにあるサンルームにしつらえてある白い丸テーブルに案内してくれた。


 花がいっぱい飾られたサンルームは、いかにも居心地が良さそうだ。ふかふかの絨毯が敷き詰められ、床に直接、ところどころに大きなクッションが置かれている。日当たりもとても良く、のんびりと休むにはうってつけだろう。

 天窓に繋がっている大きな窓の向こうには、中庭が広がっていて目を奪われた。


「すぐに紅茶をお持ち致します」

「ありがとうございます。あの、窓から庭を眺めてもよろしいででしょうか? ……とても美しいので」


 ジャスターは頷いた。 


「もちろん。サンルームから出られなければ、ご自由にどうぞ」


 深く礼をしたジャスターが辞し、扉の近くの壁際にはメイドが二人立っている。レティスは立ち上がると、ゆっくりと窓に向かって歩いていった。


(わあ、なんて綺麗なのだろう)


 窓の向こうに広がる中庭は、今まで見たことがないくらいの美しい庭園だった。それはそうだろう――離宮の庭といえど、シュテット国屈指の腕を持つ庭師が整えているのに違いない。アーヴァイン家も経済的に裕福だから、庭園はきちんと整えられていたけれど、もちろんこの庭園とは比べられない。


 低木から高木――様々な緑色に、花壇に植えられた美しい花々。

 少し視線を奥に向ければ、四阿が立っているのが見えるから、もしかしたら小川も流れているかもしれない。


(すごいわ……、ん……これ何かしら?)


 窓の手前に、立派な飾り棚が置いてある。その棚の上に置いてある陶器に入っているものにレティスは視線を奪われた。


「あっ……!」


 思わず声を出してしまい、慌てて自分の口元を手で覆った。


(これ、じゃがいも……?)


 どうしてこんなところに、じゃがいもが……?

 それもレティスの部屋にあったじゃがいもよりもずっと長く緑の芽が伸びているではないか。


(こんな偶然があるなんて……)


 誘われるように、じゃがいもにそっと手を伸ばしかけたその時。


「また会えたね」


 “彼”の声が背後で響き、レティスは唇を戦慄かせた。


(えっ……!?)


 ぱっと振り返った。


 一歩一歩小さく跳ねるように歩いて近寄ってきたのは、確かに“リーン”だった。ただ今日は、彼は頭に白い布を巻いていて、あの綺麗な髪はほとんど見ることができない。きっと太陽の光に透かしたら、月光とはまた違う美しさだろうに。

 それでも日中の眩しい光の中で見上げる彼の紫の瞳はまるで宝石のように輝いている。

 

「え……どうして、貴方がここに……?」

「ん?」

「リーンベルク様、ですよね……?」


それなりに高貴な人だとは思っていたが、もしかしたら王子の側近だったりするのだろうか、それにしては名前が似すぎていないか――。

 色々な疑惑が頭を過ぎり、混乱してしまう。


「ああ、そうか。あの夜は本名は一応言わないでってことだったからね」


 だが、あっさりとそんなことを言った彼がこてんと首を小さく傾げる。すると途端にあの夜の“リーン”の姿と重なる。


「僕はリーンハルト=シュテット=ハンスタイン。この離宮に住んでいる」


 はっと息を吸い込んだ。

 ミドルネームに国名が入っているのは、まごうことなく王族の証だ。


(リーンハルト、殿下……、ということは……私の婚約のお相手は……!)


 彼は口元に笑みを浮かべて、唖然としているレティスを見下ろす。目を見開いて固まったレティスに向かって、リーンハルトが手を差し伸べた。


「まずは僕とお茶をしよう――“普通”の顔合わせはそこから始まるんだろう?」


 ◆◆◆


 呆然としたまま、彼に従った。

 いつの間にか戻ってきていたジャスターが信じられない、と言わんばかりに一瞬瞠った。


「ジャスター、今からレティスとお茶をする。ベッケンバウアーに僕がここにいると伝えてくれるかな」

「……かしこまりました、殿下――君、もう一客お茶の準備を」


 執事が扉に立っている使用人の一人に声をかけると、リーンハルトがそれを止めた。


「僕の分はいらないよ。きっとすぐベッケンバウアーがやってくるだろうから」

「承知いたしました」


 一礼した執事が去ると、リーンハルトは自然な仕草でレティスに紅茶を飲むようにすすめてくれる。


「僕のことは気にせず、どうぞ」


 どうぞ、とは言われても、さすがに逡巡してしまう。彼女がためらっていると、リーンハルトが再度すすめてくる。


「本当にいいんだ」


 そこでようやくレティスはぎくしゃくと動き始める。


「……では、お言葉に甘えて」


 準備してもらって、手を付けないのも失礼だろうと、爽やかな紅茶を一口飲んだ。


「このサンルーム、実は僕の一番お気に入りの場所なんだ」


 リーンハルトがのんびりとした口調で言う。

 彼の耳には、彼の瞳と同じ紫の宝石のイヤリングがつけられていて、太陽の光を浴びてきらきらと輝く。その輝きに目を惹かれながら、レティスは紅茶のカップを皿に戻した。


「すごく素敵です。それにここから臨む中庭も素晴らしいですね」

「うん、中庭を探索するのもとっても楽しいよ。君が良かったら案内したいな」


 彼は床に置いてある、座り心地のよさそうなクッションを指さした。


「たまにあのクッションに座ってぼんやりしていると、ついつい昼寝しちゃうんだ」

「まぁ……!」


 それは間違いなく、気持ちが良さそうだ。レティスが目を丸くすると、リーンハルトが無邪気そうに笑う。


「僕は、はずれ王子だからさ」


 笑みとは不釣り合いの、その声は切ない響きを秘めている気がした。はっとしたレティスはリーンハルトを見つめる。


(はずれ王子……! そのあだ名をご存知なのね)


 人の噂とは残酷なものだ。

 リーンハルト自身の耳にも届いていてもおかしくない。 

 セイディが口汚く罵っていた言葉を思い出した。日がな一日ぼーっとしたり、知能が足りなくて会話にならなかったり、醜すぎて二目ふためと見られないと噂よ、と。

 だが姉が口にした内容と、目の前で真剣な表情を浮かべて座っている青年はやはりどうしても結びつかなかった。


「私……その……お名前のことを存じ上げなくて」


 レティスがそう言うと、リーンハルトが少しだけ身じろぐ。


「知らなかったんだ?」

「はい。えっと、リーンさ……殿下とお話ししてからー…」

「リーンと呼んでもらって構わないよ」

「ですが、それは……」

「いいよ」


 きっぱりと言い切られ、レティスは頷く。


「で、ではお言葉に甘えて。私……、リーン様とお話してからじゃがいもを手に入れたんです」

「そうなの?」


 途端、リーンハルトの表情が明るくなった。そうすると紫色の瞳が綺麗に輝き、レティスはその澄んだ瞳を見つめながら続ける。


「はい。それから……あまり好きではない人との会話でじゃがいもを思い浮かべるようになってから……すごく気持ちが楽になりました」

「それはよかった。人の悪意をまともに受け止めていたら、自分が病んでしまうもの」


 ほっとしたようにリーンハルトが微笑んだ。

 レティスは彼に届け、と思いながら言葉を続ける。


「そしてそれはリーン様の忠告のお陰です。だからリーン様が私のことを助けてくださいました」

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