第1話 「レティスの事情」
「やっだ、レティスったらこれから夜会なのに、またそんな地味なドレスを着たの?」
「セイディお姉様」
レティス=アーヴァイン侯爵令嬢は、母の違う姉を見つめた。十センチほどの身長差があり、レティスが見下ろす形になる。
「そういう目つきで睨むなって言ったでしょ、感じ悪いわよレティス」
セイディが美しく巻いた金色の髪を触りながら、刺々しく言った。
「睨んだつもりはないわ」
黙っていると姉の意地悪は加速する。だからレティスは事実のみ口にした。
「あらごめんなさい。生まれつきよねぇ――そんなところ貴女のお母様によく似ているもの」
毒の滴るような声で、セイディが笑った。
(……私はどちらかといえば、お父様に似ているのだけれど)
その反論は胸に秘め、レティスは自身のドレスを見下ろした。
ドレス自体は仕立ても悪くないし、ライトグリーンの色は肌にも合っていると思う。
ただセイディの言った通り、普通の女性よりはかなり背の高い自分はどれだけ食べても肉がつかない体質で、かなり痩せっぽっちだから見る人が見れば貧相かもしれない。
くすんだ金色の髪や、淡い翠の瞳も目立つものではない。母は女性らしい華やかな容姿だったからそれには及ばないが、自分も顔立ち自体は悪くない――はずだ。すべてがかろうじて平均点なのが自分。
それに比べて母違いの姉は、王国随一の美女だったと噂の美貌を受け継ぎ、整った顔立ちだ。くるくるに巻かれた鮮やかな金色の髪と、はっとするほどの深みのある蒼い、大きな瞳は老若男女問わず綺麗だと認めるはずである。レティスに比べるとずっと小柄で、胸も大きく、女性らしい身体つきの姉は、令息からの人気も高い。
父であるラッドリー=アーヴァイン侯爵は見目がよく、若い頃非常に浮名を流したと聞いている。アーヴァイン侯爵家自体が経済的に余裕もある、遠方の領地もしっかりとした、社交界でも中心にいるような家柄なのも後押ししていただろう。
ラッドリーが、とある侯爵家の次女であるセイディの母と婚約を結んだのは家同士のつながりのためだった。そのセイディの母は、知り合いの貴族女性の家で開かれたお茶会の帰り、馬車の事故で不幸にも命を落とした。セイディが三歳の頃だったという。政略結婚で、もともとあまり夫婦仲は良くなかったと聞いている。
その後ラッドリーが妻として迎えたのが、レティスの母であるジェランダ=ナジュド伯爵令嬢だった。セイディの母と結婚する前から恋人だったのではないか、身分違いで結婚できなかったのではないか、と心ない使用人たちが噂するほど、父は母をとても大切にしていた。
だが母は、レティスが五歳の頃に王国でかつてないないほどに流行した悪性の風邪にかかり命を落とした。その流行り風邪で何万人も亡くなったとも、王家の人間ですら儚くなったと聞いている。レティスは感染を防ぐために見舞いも厳しく制限されたから、死に目にもあわせてもらえなかった。今でもその頃のことを思い出すと、心を鷲掴みにされるかのような痛みを感じ、あまりの辛さで記憶が抜け落ちている部分も多い。
レティスは優しい母が大好きだったから。
立て続けに夫人が亡くなるという不幸に見舞われ、また跡継ぎがいなかったため、しばらくしてラッドリーは新しい妻を娶った。それが現侯爵夫人であるリザベッドである。幸運にもリザベッドは男児を産み、弟であるセルジャックがアーヴァイン侯爵家の正式な後継者となった。セルジャック誕生後、ラッドリーの関心は完全に今の妻とセルジャックだけに注がれている。
それがちょうど十年前。
セイディが十二歳、レティスが八歳の頃の話だ。
その頃からだ――セイディがレティスを苛めるようになったのは。
セルジャックに手出しをすると父に睨まれ、叱られる。だがレティスなら鬱憤をぶつけるのにちょうどよかったのだろう。貶められるようなことを言われ続け、それだけでなくセイディはレティスの持っているものをなんでも欲しがった。ドレスも、宝石も、本も、家庭教師も。同じものを欲しがり、飽きると捨てる。そもそも自身はレティスよりも常に良いものを手に入れているというのに。
それでもレティスが全く何も言い返さなかったわけではない。
セルジャックが生まれてしばらくして――レティスは母の肖像画が屋敷から消えていることに気づいた。
リザベッドが輿入れすると決まった時に、後妻の目を気にした父の指示によってジェランダの肖像画は廊下の壁から外され、小さな部屋に飾られた。そのこと自体に不満はなく、レティスは母の顔が見たいなと思うたびに、その部屋に足を運んでいた。
だがある冬の日に突然、ジェランダの肖像画だけが忽然と消えていたのである。
部屋中を必死になって探しているレティスの背後から、いつの間にかやってきていたセイディが声をかけた。
「あら、そんなに必死になって何を探しているの?」
ゆっくり振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべたセイディが立っていた。
「……お母様の、肖像画ないの。お姉様、知らない?」
低い声で尋ねると、セイディはきゃは、とわざとらしく笑いながら、片手を口元にあてた。
「どうして私が知っているって思うのぉ?」
レティスはかっとして、頭に血がのぼった。
その時点で、すでに散々意地悪をされていた彼女には、姉が元凶であるとはっきりと分かったからである。
「知っているなら、教えて。お母様の肖像画はあれ一枚しかないの。なくなったら……困るから」
「そっかぁ。なくなったら困るのねぇ」
にたりと姉の笑みが広がる。
「そんなに大切なものだったの」
今までに見たこともないくらい、喜びに満ちた表情だった。そこでレティスは、姉に自分を攻撃する武器を渡してしまったのだと気づいた。――気づいたが、後の祭りだった。
「そこまで言うなら教えてあげようかなぁ。うーん、たぶんだけど、ほら、あの肖像画ってちょっと辛気臭かったから目につかない場所に変えようと思ったメイドがぁ、額縁を割っちゃったんじゃないかなぁ」
「……え?」
「で、割れたときにぃ、中の絵も破れちゃってぇ……どうにもならないからって、せめて火の種にでもしようかなって思ったんじゃなぁい?」
(火の種……ですって……?)
ぱち、と部屋の暖炉の火がはぜた。
はっとしたレティスは脇目もふらずに暖炉に駆け寄ると、火かき棒を手に取り、暖炉をかき回した。
(……あ……!)
そこにはほとんど焼け落ちた母の肖像画の、肩の部分だけがかろうじて残っていた。毎日のように肖像画を見ていたから、ドレスの色を間違うわけがない。
「きゃっ!」
セイディが後ろで悲鳴をあげた。
レティスは火傷をすることを恐れずに手を伸ばすと肖像画の端をつかみ、火かき棒をゆっくりと握りしめながら、姉を振り返った。幸い、火傷を負うことはなかったが、体がぶるぶると震える。
まだ若干九歳だったレティスだが、こんなに誰かを憎いと思ったのは生まれて初めてだった。
「お姉さま、絶対に許さない」
低い声でそれだけ呟くと、一瞬だけ姉が怯んだ様子を見せた。けれどセイディはすぐに顎をつきだすと、まくしたてる。
「な、なによ、なによ、メイドがしたのを見ただけじゃない! 私は親切に教えてあげたってのにそんな態度をとるの?」
「……メイドが、肖像画を、火の種にするわけ、ないでしょ……!」
レティスがぐっと姉を睨みつけると、分が悪いと悟ったのかセイディが叫び出した。
「なによその反抗的な目は! さも私がしたと言わんばかりじゃないの、レティスのくせに。私がした、なんて証拠ないでしょう? 許さないなんて言えるはずないわ。見てなさいよ、お父様に言いつけてやるんだから」
セイディはだだっと部屋を走って出て行った。
姉がいなくなるとようやくこわばっていた体から力が抜け、ごとんと重い音を立てて火かき棒が足元に転がる。だがレティスは呆然とするあまりに火かき棒を落としたことすら気づいていなかった。
(お母様……)
ぎゅっと握りしめていた母の肖像画の破片と共にとぼとぼと自室まで戻り、ベッドで泣き明かしたのだった。
それから父に“ありもしない罪で姉をなじった妹”の態度を叱られ、三日間部屋から出てはいけないという罰を受けた。レティスは言い返すこともせずただ黙ってそれを受け入れた。
「あらぁ残念ねぇ、私これからお茶会に行ってくるの」
「今日は、オーブラス家の令息がいらっしゃるって聞いたわ。すごくかっこいいって噂なの」
「見てみて、このドレス。私によく似合ってるでしょ? 残念ねえ、貴女は家に一人でいなきゃいけないの」
着飾ったセイディが部屋にやってきてはそうやって自慢しても、レティスはただ黙ってやり過ごす。どれだけ煽っても反応がないことに焦れたセイディが出ていくまでレティスはじっと俯いていた。
それからもセイディは、レティスを苛め続けた。だから段々姉の前では感情をなるべく見せないようになった。そうしなければ最後、したり顔のセイディが掠め取っていくからだ。
そして周囲は皆、そんなセイディの振る舞いを見て見ぬふりをするから、レティスはただ一人で耐え忍ぶしかない。
自分だけ粗末な食事やドレスを与えられるわけではない。扱い自体はちゃんとした貴族令嬢としてのそれだ。本や教育や、生活に必要とするものは何でも与えられた。
けれど心はいつも満たされず、空虚である。父は新しい家族に夢中で、レティスたちには全く興味がない。
そんな風にセイディに虐められ続けたレティスは早く家を出たい、とそればかり考えるようになっている。だが姉の婚約が決まらないことには、妹のレティスの順番が回ってくるはずもない。
(早くお姉様の婚約、まとまらないかしら……)
姉はすでに二十二歳。
そろそろ婚約を結ばないと、この国では行き遅れと揶揄されてしまう年頃だ。
アーヴァイン家は名家と称されてもおかしくない家柄だし、セイディの外見は整っているから、話自体はひっきりなしに舞い込んでいる。だがセイディ様が前向きではないらしい、困ったものだ、セイディ様が婚約を結ばれないとレティス様も無理だろうに、とメイドたちがこっそり噂話に興じているのをたまたま耳に挟んだことがある。
(まさかお姉様……私より、少しでも良い相手を、と思ったりは、してないわよね……?)
その時一瞬だけ脳裏を掠めた疑念を、いまだ拭えずにいる。レティスの相手以上ではないと、セイディは満足しないのでは。となると、セイディの婚約をまとめるのは至難の業ではないだろうか。
「そのライトグリーンのドレス、前回も着ていたじゃないの」
「……そうね」
自身は濃いピンク色のドレスを着たセイディが、レティスの夜会用のドレスを揶揄する。
「もしかしてそのドレスが気に入っているの?」
一段低い姉の声に、嫌な予感しかしない。
一度気に入っていると認めれば、きっとこのライトグリーンのドレスはすぐに切り裂かれ捨てられてしまうだろう。
「侍従長が準備してくれただけ」
事実を端的に答えると、姉はじっとりとした視線を送ってきたが、すぐに考えを改めたらしく笑顔になった。
「そうよね、そのドレスそんなに似合っていないものね。形も普通、色も普通、本当に貴女にぴったり! そうやってせめて厚化粧しないと、見られたものじゃないわよね。アクセサリーは何をつけるの?」
「侍従長が準備したものをつけるわ」
にいっとセイディが笑った。
「そうなの? この前の夜会で貴女がつけていたネックレスは私がつけるから貴女は違うのをつけなさいよ」
「……わかったわ」
(始まった……。あのネックレスはこのドレスに合うから、侍従長が準備しているとわかっているだろうに……)
間違いなく、ただの意地悪だ。だがこうやって言い出すともう誰のことも聞かないから、レティスは頷いた。特にこだわりはないし、他のネックレスをつければいいだけのことだ。
「貴女なんて私の引き立て役なんだからね、そのこと忘れないでね」
まるで歌うかのように軽やかな調子だ。
「お姉様のおっしゃる通りね」
そう答えてやると、ようやく満足気になったセイディが部屋を出て行った。やっと一人になれた、と思ったレティスは小さく息を吐くと、虚空をみつめた。
今夜も長い一日になりそうだ。
(ああ、でも……クリスティアーレ侯爵家だったら……)
そこでレティスはふと顔をあげた。
(廊下に、私の好きな絵が飾られているはずね)
今夜の夜会の招待主であるクリスティアーレ侯爵は、好事家としても名が通っていて、大広間はもちろん、廊下に飾っている絵もそれこそ美術館かと思うばかりに名だたる作品が飾られているのである。その中でも廊下にある、柔らかなタッチで描かれた若い女性の後姿の絵がレティスは大のお気に入りだった。
この絵がお気に入りなことはセイディも知っているが、さすがに人の家の絵だから彼女にはどうしようもできない。
夜会でセイディの振舞いにうんざりしたら、廊下に出て一息つこうとレティスは決めた。
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