ピアノの音色は日常に響く

高柳孝吉

ピアノの音色は日常に響く

 ド。

押した、というより叩いた。ダーン!

 どうせ壊れたピアノなのだから。どうせ壊れたあたしなのだから。―もう一度叩く。


 このピアノは、もう十年前にうちに来て、五年前に壊れた。修理しなかったのは、新しいもっと高いグランドピアノをWeb系の会社を若くして経営している姉が買ったからだ。

 

 あたし達は八年前に母子家庭の長だった母を自殺で亡くし、大学卒業間際だった姉は何とかあたしを大学に行かそうとお金を稼ぐ方法を模索し、若くしてWeb系の会社を設立して今の時代色々言われる事もあるWeb、インターネットだが、彼女はそれを逆手に取って成功した。母の自殺という不幸を、時代の下手すると敵にもなりかねないWeb、ネットを通じて、そして見事それらは彼女に味方してくれた。唯、あたしを大学に行かせる事には成功しなかった。落ちたのではない、最初から受けなかったのだ。


 あたしはピアノを叩く。壊れたピアノなのに、実に普通の音がする。壊れたあたしが弾くと、上手く噛み合わさって普通の旋律を奏でる。あたしはいつまでも弾いた。


「なんで死んだの!?ねえ、なんでよ!!」

 通夜の席で泣きじゃくるあたしを、本人も泣きたいだろうに、姉は気丈にも目に涙を浮かべるだけで、必死で、只あたしの手を強く握りしめて隣に居てくれた。あたしの質問には応えず、只ぎゅっと手を握りしめてくれるだけだった。涙を溜めた瞳、しかしその眼差しには並々ならぬ決意する様なものが既に芽生えていたのに、あたしは気付かなかった。

「大丈夫よ、あなたはあたしが育てる」


 通夜の後、初めて会うような親戚達が集まり、あたし達の今後の身の振り方、お金の事、なんだか分からない大人の事情等について議論が交わされた、肝心のあたし達をほって、自分達だけで、勝手に。

 そんな中、姉は議論に口を挟みながら、難しい大人の話しが良く分からないあたしの代わりにたいそうな年齢の大人達を相手にあたしの為にも頑張ってくれて議論で闘い、その間も、あたしの手をやはり強く握りしめてくれていた。


 ―あたしは"あの日“から壊れ始めて行った。高校を辞め、かといって引きこもる事もなく只、一人街を彷徨い歩いた。時々男から声を掛けられる。―ガン無視。

「ちぇっ、なんだいあの女」

背中に男の汚い台詞を聞き流し、更に街を彷徨い歩く日々は続く。


 ある日。あたしは家に帰らなかった。夜通し街を彷徨い歩いた。変な酔っぱらいのオヤジにも声を掛けられた。


 あくる日家に帰ると、目を真っ赤に腫らした姉が、開口一番、

「どこほっつき歩いてたのよ!!」

 馬尾雑言を浴びせ掛けて来たのであたしは無視して自分の部屋に上がろうとすると、玄関のチャイムが鳴り、警察官が顔を覗かせた。姉は、深々と頭を下げていた。警察官が行ってしまうと姉はあたしに近づいて来た。あたしはぎょっとした。姉は手を上げて来た。あたしは目をつむったが、姉はぶつでも無く、そっと一つの菓子パンをあたしに手渡してくれた、目にあの通夜の晩のように涙を浮かべて。

「本当に良かった、無事で…」

 本当は姉はその時子供のように泣きじゃくりたかったのではないか。あたしがいない間泣いていたんじゃないか?それと、もしかしたら夜を徹してあたしをそれこそ自らもリスクを冒して探し周ったんじゃないか?恐らくその両方だろう、あんなに目を真っ赤に腫らして…。パンを手渡しながら触れた手に、今度はあたしの涙が、あの日以来溜まりに溜まっていた感情の全てが堰を切ったように溢れ出し、姉の手の上にこぼれ、姉は只黙ってあたしの手を握りしめてくれた。姉の手は、あの時と同じように暖かかった。しかし、あの時と比べて指が細くなったような気がした。その時、もの凄く重要な事に気付いた。―姉も、今迄辛かったのだ。どれだけ一人で辛かっただろう。―あたしだけじゃないんだ、辛かったのは。姉はどれだけ大変だっただろう。ー今度は、あたしが姉の手を握りしめた。母が亡くなった時も、どんな時でも涙を見せなかった姉が、初めて、泣いた。子供のように泣きじゃくって、あたしの胸に顔を埋めて、すがるように、子供のようにして、あたしと同じくいやそれ以上溜まりに溜まった、我慢し続けた感情が堰を切ったようにほとばしったのだろう、いつまでも泣き続けた。


 ド。壊れたピアノの鍵盤を叩く。そして旋律の調べを弾く。弾いた筈だった。ーおかしい。いつもの音色が出なくなった。

「変な音。下手くそ」

後ろを見ると、姉が笑っている。そして言った。

「当たり前じゃない、そのピアノ壊れてるんだから。あたしの買ったピアノで弾いてみたら?いい音出るわよ?」

 あたしは何もこの壊れたピアノとあたしの関係を知る筈の無い姉の言う事は、しかし正しいと分かっていた。そしてグランドピアノのある今ではあたしのテリトリーと化したリビングに向かって、姉の後ろをまるで小さい子供の頃のように付いて行き、ふと振り返って壊れたピアノをちょっと見て、

「早く来なさいよ、置いていくよ」

という姉に

「はいはい」

と生返事して壊れたピアノに頷き掛け、リビングへと向かった。


 壊れたピアノが、薄暗い部屋の中置いてある。遠くから美しいピアノの旋律が聞こえて来る。壊れたピアノは、ちょっと寂しそうなのと同時に、とても嬉しそうに佇んでいる…。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ピアノの音色は日常に響く 高柳孝吉 @1968125takeshi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ