第49話 天井を見上げた刃 4

 

 この場に、難病に人生を侵されて治療を待つ幼子などいない。

 疑問のみの顔色になるカリヤ―――言いようのない不安に、瞼を狭めた。

 男神の発言の、意図がつかめない。


「しかし今、現に―――これは、過去の映像ですが―――薬物を投与されているじゃないですか」


 女神協会の異世界転生課では、厳しく目を光らせる女教師といった様相である彼女であったが、オーラの如く纏うそれは、完全に消えている。

 今は幼子のような、自身のなさがある。


 そんなカリヤの思案内容。

 この乳児は親から投薬を受けている。

 カタスキーの口からするに、十七年の投薬はもはや確定事項と言っていい。

 だが、健康であるということは道理に合わない。

 ……薬物ではないのか?

 人間界の行いの、細部にまで詳しくないカリヤは不安がる。


「点滴を受けて―――いえ、点滴でもなんでも、人間の医学のことは門外漢よ―――それは申し訳ないですが、とにかく何か処置を受けているわよ?」


 もっとも、幼い子供が病気にかかりやすいことなどは常識の範疇である。

 カリヤはこの世界も異世界も見て、関わってきた。

 環境もさまざまな、あらゆる世界のなかで生まれてすぐに命を落とす者も、ざらである。

 『第五位』も、本当はそうなる運命だったのではないだろうか。

 カタスキーは。


「カリヤ、そうではない―――この乳児は、大きな病気にはかかっておらん、五体満足、栄養状態も良い―――この世界全体で考えるとかなり良好な水準だ。そして―――投薬を受けている。いわば、そう……追加でな」


「……追加で、というのは栄養を、追加しているとでも言うのかしら」


 意見を発したカリヤだが、正解ではないだろうという予感はある。

 階下ではまだ、その作業が続いていた―――続ける者がいる。



 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「アン■■ン」


「サ■■■ロール―――」


 この時、霧崎わかちの視界は冴えていた。

 乳児期の視神経は未発達である。

 最初から、いわゆる視力1.0などの水準にあるわけではない。

 にもかかわらず、見上げている大きな人間の唇の動きが見て取れた。

 手に取るように分かった。


 そして言葉の意味は分からない。

 唇の動きが止まっている。

 少なくとも、止まって見える――開いたり閉じたりが、写真を並べているように見て取れる。動く絵画―――。

 世界のすべてが生物のようである。


 大きな人間は私を見て、興奮しているようだが、何故かまではわからない―――。

 私のこの高揚感―――何かの影響による高揚感、目の端のあたりの血流の強さは一体。




 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「身体能力の強化……!」


 男神は、乳児を見るというよりは虫眼鏡状の神具を通した視界に向かって、言った。


「若き霧崎わかちに施されている処置―――この性質は一貫して『ドラッグ』ではなく、『ドーピング』のたぐい、じゃな……」


 神具のレンズに映し出される文字から状況を分析するカタスキー。

 対象の状況を、どこまでかは定かではない、しかし読み取れるようだ。

 ゆえに、解説をしているというよりは、動揺が声色に出ている。


「……」


 なにが起きているか、いやされているかを知ったカリヤは改めてその乳児を見る。

 両親の楽しそうな会話が背景に響く―――。

 身体にどこにも悪いところがない、健康そのものの我が子に―――それでいて多くの投薬を行なわれた。

 カタスキーの解説は続く、


「これが転生トラック撃破につながるということじゃろう―――これを超える要素が、あるならば別じゃが、な」


「こんなことが……!」


 神具を用いたわけでもないのにあんな芸当が出来るなんて、と水晶で見たときは驚いたカリヤではあったが、原因、元凶は確認できた。


「無論、リスクも高い……死ぬじゃろう、こんなことを続けていれば。転生抵抗度が高くなる前に、転生してしまうわ」


 まともな環境ではない。

 それでも高校の制服に袖を通すまで生き延びたのは、この両親が注意深く我が子を育て上げたからであろう。

 世界は広い―――彼女のように幼いころから何らかの処置が必要な者は、いる。

 ただそんな日々の中、生きていたのは―――神による異世界転生に出会うまで大きく育ったのが、彼女だけだったということだ。

 

 まだ、これが身体能力の原因の全てと決まったわけではないが―――乳児期からの日々とは、恐れ入る。

 しばし、沈黙の神。

 タネが理解れば、目を細めてしまう。

 こんな日常は送りたくない―――自分が人間だったならば、と考えるカタスキー。


 しばし沈黙のふたり―――敵情視察のつもりだったが、この乳児が敵と言えるか?


「厄介なものを―――まあ育てたものじゃな」


 なじるような言い方になってしまうカタスキー。

 蓄えた髭が、溜め息で揺れそうなのがカリヤの視界に入った。

 両親に娘を想う発想は無いようである。

 ……いや、赤子を殺す気は無いのだろう、明確な毒薬はなく、命を落とすことはない。


 だが幼い人間に対しての仕打ちではない。 

 そして天界こっちはこっちで、女神協会が大きな妨害を喰らっているーーー全方位に迷惑である。

 ちらとカリヤを見れば、押し黙っている。

 可哀想だ、と思うのだろうか―――この女神も。いまならば転生抵抗者に、憐れみの目を向けるのやもしれん―――カタスキーは思って、呟く。


「愚かじゃな、人間」


「ええ、そう思いますわ」


 神と人間は違う―――それでもまったく同情心がないということは無い。

 しかし、同情心というのは違う生物にまではなかなか及ばないものである。

 カリヤという女神は何を考える?


「人間というのは愚かなものですわ」


 そう呟くカリヤ。ケーオを撃退した霧崎わかちに対して、私怨はあるのだろう―――基本的に見下す姿勢のようである。と、カタスキーは考えている。そして、彼が思うに、それだけではない。

 百年どころではない長い付き合いとなっている、神と神ではあるが。

 ただ、この冠位長の想うところ、当然そのすべてまではわからないのだった。


「ただ―――それは人間に問題があるのでしょうか」


「むう……?」


 なにを言っている。

 いま神具を通して、人間の行いを観察していたではないか……?


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