第2話

 けたたましいベルの音が耳元で聞こえ、私は飛び起きた。

 はっきりしない頭を二度、三度と振り、大きく伸びをする。ぼんやりしていた頭がクリアになったとき、目の前の光景に息を呑んだ。

 見慣れた天井はそこにはなく、澄んだピンク色の空が広がっていた。

 右から左へと流れていく雲は淡いクリーム色で、真珠のような光沢を放っている。

 クッキーのベッドにゼリーのマットレス、綿菓子の掛布団に、枕はマシュマロ。再び枕もとで鳴り出した目覚まし時計だけが、食べられなさそうな見た目をしている。

 時計を手に取り、時刻を確認する。

 短針は七、長針は十二の位置にあるが、数字がある部分には花の絵が描かれていた。


(これは夢ね)


 そう即座に判断できるほど、夢らしい夢に苦笑する。これほどファンシーな夢の世界に来たことなんて、今まで一度もなかった。


「やあやあ少女、いつまでベッドの上でのんびりしてるんだい?」


 突然背後から声をかけられ、肩がビクリと上下する。振り返って見ると、青いベストに真っ赤な蝶ネクタイを締めた白兎が、怪訝な顔でこちらを見ていた。


「もうオソヨウの時間なのに、まだ寝るのかい? もしかして、今日は寝坊してしまったから、明日まで寝て、オハヨウにする気なのかい?」


 鼻にかかる嫌味っぽい声に、しかめ面になる。

 白兎の口調は、数学の笹原先生にそっくりだった。

 単純な計算ミスですら、なぜこんなに簡単な問題が解けないのかと、上から目線で大げさに嘆く。あのねっとりとした言いかたそのものだった。


「なによ、まだ七時でしょう? そこまで遅い時間じゃないわ」

「ふむ、確かに七時はそれほど寝坊の時間ではないかもしれないね。でも残念ながら、今は牡丹時だ。牡丹時はオソヨウの時間なんだよ」

「牡丹時? なにそれ?」


 素っ頓狂な声に、白兎がヤレヤレと首を振り、目覚まし時計を指さす。


「君の時計のどこに、七なんて書いてあるんだい? よく見たまえ、今は牡丹だろう?」

「……これ、牡丹なの?」


 ピンク色の豪華な花の絵を指先でつつく。牡丹はよく耳にする花の名前だが、実際に目にしたことはなかった。


「ほらほら、早くしないと百合時間たって、タンポポ時になるよ。アリスとのお茶会はコスモス時の予定だろう? まだ時間があるとはいえ、ここから広間までは最低でもスミレ時間はかかるし、君は支度に手間取るだろうから、百合時間は見ていたほうが良い。それに、アリスはああ見えて時間に厳しいから、薔薇分前にはついていたほうが良い。そう考えると、全然時間がないだろう?」


 まくしたてるように言われるが、時間がすべて花の名前で、全く感覚がつかめない。


「えぇっと……結局、アリスとのお茶会は今から何時間後にあるの?」

「今をタンポポ時とすると、ナツメ時間後だよ。アリスとのお茶会は、コスモス時だって言ってるじゃないか」

「そんなこと言われても!」


 数字じゃないと分からない! そう文句を言おうとするが、白兎がゼリーのマットレスを引っ張るほうが早かった。

 ゼリーの上で、体が滑る。ベッドから落ちた先にはグミの階段が続いていて、体がぶつかるたびにポヨンと跳ねる。

 トランポリンのように跳ねて回転して、自分の頭がどちらを向いているのかわからなくなったころに、長かった階段が終わり、クッキーの椅子に着地した。

 サクっと小気味よい音がお尻の下から聞こえてくる。片足が折れてしまった椅子は斜めに傾き、上手く受け身が取れずに思い切りお尻を地面に打ち付けてしまう。


「もうっ!」


 痛むお尻をさすり、苛立ちまぎれに椅子を蹴れば、サクリと美味しそうな音をたてて崩れていく。


「なんで椅子がクッキーなのよ!」

「別に良いじゃないか。クッキーでできたものは、椅子と認められないってわけじゃないんだから」


 頭上から降ってくるのんびりとした声に顔を上げれば、真っ白な猫が細い枝に座っていた。

 ふさふさとした長い毛が風に揺れ、黄金色の瞳が意地悪そうに細められる。

 白兎に、猫に、不思議な世界。既視感を覚える展開に、思わず呟く。


「チェシャ猫?」

「僕のどこを見たらそう思うのか分からないね。この美しい純白の長毛が見えないのかな?」


 手触りの良さそうな毛に、どこかツンとすました顔。彼は、ペルシャ猫だった。


「そもそも、君はいつから不思議の国のアリスの主人公になったんだい?」

「そうよ、アリス! 彼女のお茶会があるらしいんだけど、どこに行けば良いか分からなくて」


 いつの間にか、あの嫌味な白兎はいなくなっていた。


「お茶会って言っても、アリスは四六時中開いているからね。君は何時のお茶会に呼ばれたんだい?」


 白兎が時間を言っていたが、次々と出てくる花の名前に頭がこんがらがったせいで、正確に思い出すことができない。


「ナツメ? ううん、百合だったかな? でも、タンポポも言ってた気がするし……」

「ナツメ時ならアリスの自宅、百合時だと右のキャンディーの花畑、タンポポ時なら左のキャンディーの花畑だね」


 全部違う。白兎は広間でお茶会があると言っていたはずだ。


「広間でやるお茶会は、何時?」

「コスモス時だね。君、もう夕顔時も過ぎてヒナギク時になりそうなのに、こんなところでノンビリしてる暇はないんじゃない? 蓮華時薔薇分くらいには着いておきたいなら、急がないと」

「そんなに急かされても、広間がどこにあるのか分からないんだってば!」


 仕方がないなと言うように大きなため息をつくと、ペルシャ猫はポンと枝を蹴って宙に飛び出した。

 クルクルと綺麗な孤を描いて回り、音もなく肩に飛び乗ってくる。軽やかな空気だけが耳元をくすぐり、髪が揺れる。


「ここから広間まで行くには、アイスの川を渡ってプリンの山を登り、チョコレートの森を抜けるしかないんだけど、迷ってると遅刻しちゃう時間だ。特別に僕が案内してあげるよ」


 ペルシャ猫が欠伸を一つして、肩の上で丸くなる。不思議と重さは感じないが、ほんのりとした温かさはある。


「ありがとう?」

「なんで疑問符がついてるのかが疑問なんだけど、まあ良いや。とりあえず右手にしばらく歩いて」


 言われたとおりに歩き出す。空には四角いビスケットの太陽が浮かび、透き通った色の鳥が優雅に飛んでいる。

 硬そうな見た目なのに、どうやって羽を動かしているのだろうかと目を凝らす。羽の付け根部分が、トロリと白く濁りながら溶けていた。


「飴細工の鳥がそんなに珍しい? あまり上ばかり見ていると、足元がおろそかになるよ」


 ペルシャ猫の注意に、視線を前に向ける。鳥は気になるが、今は急いで広間に行かなくてはならない。


「飴が鳥になるなんて、変な世界」

「なぜ? 飴が鳥になっては駄目だなんて、誰が決めたんだい?」

「でも、飴だよ?」

「君は差別主義者なのかい?」

「違うわよ! ただ、飴は飴であって、鳥ではないでしょう? これはただの常識よ」

「その常識を作ったのは、誰?」

「誰って言われても……」


 常識を作ったのが誰なのかなんて、考えたこともなかった。常識は常識、それ以上でも以下でもない。


「君の言う常識を常識としているのは、世界でたった一人、君だけじゃないのかい?」

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