第13話 とちり席
「どうしよう天翔くん、私は演劇の事なんて全然分からないのに!」
教頭の強い要望で演劇部の顧問に就任する事になった美月は再び天翔と2人になると、その瞬間から天翔の大きな胸に泣き付いた。
「演劇部に行くのは明日からだろ? 取り敢えず付け焼き刃でも1回は本物の舞台芸術をしっかり観てみよう!」
「舞台芸術?」
「詳しい人を知っているから、今日これからチケットを融通出来ないか聞いてみるよ」
天翔は制服ブレザーの内ポケットからスマホを取り出すと何やら打ち始めた。
すると程無くして返信が来た。スマホの画面を見つめて天翔が考え込んでいる。
「劇団旬彩と帝都劇場、どっちが良い?」
「分からないから任せるわ」
「それじゃ、教頭の趣味からして帝都劇場かな?」
皇居の近くに在る帝都劇場では丁度、尼崎歌劇団のOGが主演のミュージカルを上演している。
天翔は少し考えながら再びスマホに文字を打ち込んだ。すると、やはり今度もすぐに返信が入る。
「行こう!」
「ちょっと待って。天翔くん、今の誰にお願いしたの?」
「いろんなお世話をお願いしているお姉様!」
「お姉様?」
「早く行こう!」
天翔はそれだけ言うと美月を急がせた。移動時間を考えれば
そして美月が支度を整える間に天翔はスマホのアプリでタクシーを呼んでおく。僅かでも時間短縮する為だ。
「ちょっと天翔くん、タクシーなんて」
「時間が無いんだ。乗って!」
美月が校門近くに到着すると同時に2人はタクシーに飛び乗った。
公共交通機関は使わない。学校近辺の駅を2人で利用すると誰の目が有るか分からないからだ。
「でも私、本当に分からないわよ。天翔くんは詳しいの?」
「親父が好きで色々と絡んでいるんだ。お陰で色んな公演を見に行ったからそれなりに」
言いながら突然、天翔美月を抱き締めるかの様に腕を回す。
「!」
あまりにも突然の事に美月は心臓が止まるかと思う程の衝撃を受けた。
一方の天翔は髪を後ろで1本に纏めている髪留めを外す。
すると美月の長くしなやかな髪が拘束を解かれ、パラッとバラける。
「あっ!」
美月はそんな事よりも、天翔との距離の近さを意識すると今度は思わず声を漏らしてしまった。胸の鼓動も激しくなっている。
「もういいだろう」
耳元でそっと囁かれると、今度は無抵抗のまま眼鏡を外される。咄嗟の事に精神が昂り過ぎた美月は自分の意志で身体を動かせなかった。
胸の鼓動に身体中の全エネルギーを費やしてしまったのか、腕が動かずにいつもの固いガードも出来ない。
昔からいざという時には全身が硬直してしまう。
『えっ? キスするの? 運転手さんもミラーできっと見ているのに?』
そう考えると更に鼓動は速く激しくなる。24年の人生でまだキスをした事が無い。
それをこんなタクシーの中でファーストキスをするのかと思うと恥ずかしさしか無いのだが、今の美月にはどうする事も出来なかった。が、
「ヨシ、これで本物の美月になった」
美月の思いなど知る由もなく、用が済んだとばかりに天翔は姿勢を正して再び美月との距離を維持した。
「そ、そうね」
あのままならキスを許してしまったかも知れない。それがタクシーの車中で運転手に見られていようと。
恋とは他人の視線など気にならなくなるエネルギーを秘めている物だと認識した美月ではあったが、この胸の高鳴りをどうしてくれようか。
『帝都劇場って山口県とか青森県に在ればいいのに!』
この時間がもっと続いて欲しいとも思う。
が、何時までもこうしてはいられない。1人でドキドキしていた事に恥ずかしさをも覚えつつ、冷静な年上の彼女としての姿を取り繕う。
「とちり」
「えっ?」
天翔が突然呟く。
自分は完璧な年上の彼女として振る舞っている筈だと思っている美月は天翔の「とちり」と言う思ってもいなかった言葉に瞬間的にハッとなる。
『えっ、私が何かを間違えた?』
「センターのとちり席。その列の真ん中の席が、迫力も有って舞台を見渡せるバランスの良い席って言われているんだ」
勿論、個人によって好みは分かれる。
最前列で迫力を間近に感じたい観客も居れば、2階席で高い所から舞台の奥の演出まで観て楽しみたい観客も居る。
「とちりって?」
「いろはの順番で最前列をい、とした場合」
「いろはにほへとちりぬるを」
指折り数える美月は途中で「あっ!」と気が付いた。
「7、8、9!」
「そう言う事。7から9列目の事だよ」
天翔は嬉しそうに答える美月に目を細める。
美月の輝く笑顔を見られた事は天翔には何よりのご褒美だった。
「ねぇ、他にも知っておいた方が良い事は?」
「そうだな。劇場のトイレ、女子トイレは激混みだから、入る前に他所で済ませる方が利口だ。そうだ、劇場と繋がっている地下街のトイレを探そう!」
「……バカ!」
美月は、「さっきのときめきを返せ!」と抗議したかった。
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