第8話 このまま
「私たち、別れ…」
嗚咽しながら美月が声を絞り出そうとしている。
何がそうさせているのか。美月の生真面目さか、教師としての使命感なのか、それとも年長者としての自覚なのか。
何れにしても美月の涙を止められない無力感に天翔は打ちひしがれていた。
「別れ…」
その先が出ない。いや出したくないのか、先ほどから何度も同じ所で言葉が詰まる。
「別れ、別れ、………別れたくないよぉぉぉぉ!」
号泣しながら自身の胸に飛び込んで来た美月の肩をそっと抱く事しか天翔は出来なかった。
「美月、好きだぁぁ!」
いつの間にか美月の背に腕を回して抱きながら天翔も号泣していた。
「大好き大好きだ!」
「天翔くん!」
「誰が別れるか!」
「う…ん…」
思わず自身の胸に顔を埋めている美月を抱き締める腕に力が入る。
暫しの間、抱き締め続けてから切り出す。
「美月が好きなんだよぉ!」
「………」
「ずっとこうして抱き締めていたい!」
「………」
「放してたまるか!」
「………」
「……ん?」
「………」
「美月?」
ここでようやく美月の反応が無い事に天翔は気が付く。
美月はさっきから自分の胸に顔を埋めたままだが、天翔の背中に回していた腕に力が無くなっている。
「美月!」
もしやと思い腕を解き美月を開放してみると、美月は顔面蒼白のまま肩で息をし始めた。
「ハァハァハァ…」
「大丈夫か?」
「ハァハァ、自分の…彼氏の…ハァハァ…胸で…窒息…する、ハァハァ、所だったわ」
その後、美月の呼吸が整うまで暫しの時を要した。
○▲△
「ごめん。大丈夫か?」
「もう大丈夫よ。気にしないでね」
言いながらドリンクバーで入れて来たソフトドリンクを飲む。
呼吸もだが、精神的にもすっかり落ち着いた様子だ。
「でもね、天翔くんと別れたくないって気持ちは変わらないの!」
「俺だって美月と別れたくない!」
「24歳で初めて出来た彼氏なのよ!」
「もう歳なんて関係ないだろ!」
「そう!でも私たち、先生と生徒なの!」
叫び合った所で結局はここに行き着く。
「これ」
突然、表情を引き締めて天翔は生徒手帳を開いて美月に差し出す。そこにはビッシリと校則が書いてある。
「校則なんてまともに読んだ事は無いから多分なんだけど…」
「多分?」
「教師と付き合ってはいけない、なんて書いてないと思うんだよな!」
確かに校則には何処にもその記載は無い。
「でも教師への指導では、生徒と個人的な交際は慎む様にって有ったの」
「そんな物は法律でも条例でもない!」
「それはそうだけど」
「恋愛の自由は確かな、そんな指導やガイドラインよりも遥かに強い最強の法律、日本国憲法でも認められている! と思う! 22条くらいで!」
日本国憲法第22条は居住転移の自由、職業選択の自由である。
婚姻の自由は第24条に、家庭生活に於ける個人の尊厳と本質的男女平等。婚姻は、両性の同意に基づいてのみ成立し、とある。
恋愛の自由と言うよりも、好きでもない相手と結婚しなくてもよいと記してある。個人によって解釈の違いは有るだろうが、これを恋愛の自由と捉える向きもある。
もっとも法律云々よりも、生身の人間なのだ。木の俣から生まれた訳ではない、感情の有る人間だ。
目に見えない障害物などには、愛しあう男女を止める術など有るはずも無かった。
○▲△
「ねぇ天翔くん、さっき落ち着く時に廊下から微かに聞こえるBGMで聞いた失恋ソングなんだけど、歌詞ではあんなに相手を愛しているのに何故別れるのかしら?」
確かに失恋ソングの歌詞には、愛しているのに愛が終わる場合も有る。この様な歌詞には、実際に失恋して落ち込んでいる人を慰める効果が有ると言われている。
昭和の頃には失恋をして自殺を考えた女性が自殺の名所に向かう途中で偶然流れてきた失恋ソングを聞いて思い留まった事も有ったそうだ。
美月は号泣した後で失恋ソングを聞きながら落ち着く時間が有った為、頭も心もある程度はスッキリしたのだ。
「美月?」
「歌詞に自分をなぞってみたけれど、やっぱり天翔くんが好きなの! このまま指導に従って別れたらどうなるのかって思ったけど、天翔くんは8歳も上の
「それじゃ」
「別れるのやめよう!」
美月が言い終わる前に再び天翔は美月を抱き締める。
今度は力をを加減して。
「だけど本当に私でいいの?」
「どういう意味だ?」
「8歳も歳上だよ」
「男女の平均寿命を考えればちょうどいい!」
2人が日本人の平均寿命に達するまで60年以上ある。付き合う云々よりも遥か先の話だ。
「天翔くんが大学を卒業する頃には、私は三十路だよ」
「関係ない。美月がいい。愛してる」
天翔は美月の身体を自分の胸から離して、顔が見られるまで距離を取った。
「美月」
そっと瞳を閉じて自身の唇を美月のそれへと近付けたその時だった!
「それはダメ!」
美月は両手で天翔の顔をガードし、乙女の唇を死守した!
「美月?」
「調子に乗らないの!」
「こういう時はキスするだろう?」
「しないわよ!」
「それじゃ、いつするんだ?」
「いつの間にか結婚を前提にした話になっているけど、私たちまだ婚約もしていないのよ! 婚約していない恋人同士ならキスは年に1回よ!」
「年に1回って、七夕か!」
「クリスマスよ!」
実際の所、美月のガードが固くて天翔は未だにキスすら出来ないでいる。
先のクリスマスも、付き合って間もない事を理由にキスには至らなかった。
実際の所、美月がこれまで男性との交際経験はおろか、会話もほぼ皆無であった理由は、このガードの固さにある。
そう言う意味では、グイグイ来る訳ではない天翔はちょうどいい交際相手と言えた。
「折角だから歌っていくか?」
「うん!」
美月は昔のアイドルグループの、「これしか思い付かなかった」と、年下の彼を好きな女の子の歌を、天翔はもっと昔に流行った年上の彼女に夢中だという歌を歌った。
こうしていると普通の恋人同士にしか見えない。
期せずして別れ話の場が、2人にとって初めてのカラオケデートとなった。
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