第7話 別れましょ
時計の針は午後7時を指している。
天翔は週に3日ほど、渋谷センター街に在るカラオケ店でバイトをしている。
蒼井天翔、その正体は世界企業の御曹子だ。当然ながら金に困っている訳ではないのだが、自分を御曹子として扱わない所に身を置いて社会勉強のつもりでバイトをしている。
もう一つ理由としては、渋谷の街に身を置く事で自分なりのリサーチをしていた。
会社のスタッフに調べさせるのではなく、自身で世の中の動向を肌で感じたかった。それに加えて、大学生やミュージシャン、地下アイドルや劇団員と言った普段なら接点の無い人間とのバイト仲間としての交流が楽しみだった。
今日は午後の3時から6時までバイトしていたのが、色々と有ったので動いている方が気が紛れて良かった。
改めて学校の最寄り駅に戻って美月を待ちつつ、美月が言いそうな事を脳内シミュレーションしてみる。
しかし美月の深刻そうな表情からして良い事は全く浮かんでこない。
お互いの年齢すら教えずに付き合うという歪んだ交際が破綻しようとしている事を肌で感じていた。
不安しか浮かんでこない時は時間が経過が遅い。そこでポジティブな事を考えてみた。
「私は今年で25歳、天翔くんは今年で17歳でしょ。8歳差よ! 私ね、8歳下の彼氏が欲しいってずっと思っていたの!」
満面の笑みで瞳を輝かせる美月は誰がどう見てもときめく乙女にしか見えない。しかし悲しいかな、この美月は天翔の頭の中にしか存在しない。
「ある訳無いだろ!」
自らの妄想にツッコミを入れてみた。思わず声に出してしまったので否が応でも周囲の注目を集めてしまう。
「天翔くん?」
そんな恥ずかしい天翔に美月が恐る恐る声を掛けて来た。
「美月」
「こら、御神本先生でしょ!」
言い終わると戯けて可愛らしく舌をチョロっと出した美月はすぐに表情を曇らせる。
「何処か落ち着いて話せる所は無いかな?」
「落ち着けるかどうかはともかく、人の目を気にしなくて済む所ならバイトしているカラオケ店の系列店ならすぐそこに」
定番としては公園だろうが、夜の公園って意外と声が響く。それにここは高校の最寄り駅だ。誰の目が有るのか分かった物ではない。
「それじゃ、そこに」
2人は赤い看板のカラオケ店へと吸い込まれて行った。
○▲△
「渋谷センター街店の従業員です。従業員番号は…」
「はいどうぞ!」
従業員の認証は静脈認証で行われる。従業員番号を告げて登録してある指を機械に入れればオンラインで本人確認がされる仕組みだ。
確認した女性スタッフに従業員割引を受け付けてもらい、用意された部屋に入室する。
それと同時に天翔は機械を操作して音を落とした。これでBGMを気にする事無く、2人だけで話せる空間が出来上がった。
学生時代にアルバイトの経験が無く、カラオケ店にも大学時代の女友達と数える程しか行った事がない美月は天翔の手際に目をパチクリさせている。
「思えば、天翔くんって私の知らないことばかりね。今のもそう」
「美月だって俺の知らない事ばかりだ」
2人だけの空間になると堂々と呼び方を改めるが、それだけで会話は止まってしまい折角作った2人だけの空間に沈黙が訪れる。
「あのさ」
「今日はありがとう。2回も助けてもらって」
「あれくらい当然だ。美月を守るのは」
「そう」
それっきり会話は途切れる。
それからどれ位の時間が流れたのか見当も付かない。
空気が重く、矢鱈と酷く長く感じる。
やがて吹っ切れた様に美月が沈黙を破った。
「私ね、天翔くんを20歳くらいかなって思っていたの。それでも私が随分年上だけどね」
「俺も美月を20歳くらいだと思っていた。まぁ、どう転んでも年下だけどな」
これだけ言って再び沈黙が訪れる。
次第に天翔を見つめる美月の瞳が潤いを増してきた。
「天翔くんが8歳も歳下でショックは受けたわ。でも、私は歳なんて関係ない。私は天翔くんか好き。好きなのに…」
「美月、俺だって美月が好きだ!大好きだ!」
「でも私たち、先生と生徒なんだよ!…そうしたら、私たちが……」
「そんなの関係無い!」
「無理よ。私たち……ウッうぅ」
美月は涙声だ。伊達メガネを外してハンカチを目に当てた。
泣いてこそいないが天翔の声にも力が入っている。
「美月!」
「先生と生徒なの。ねぇ、私たち」
「言ったろう、俺が美月の彼氏であることに変わりないって」
「でも」
「そして美月も言った。俺の彼女であることに変わりないって!」
「そうだけど」
カラオケ店の利点として、他人に話を聞かれる心配が無い事が挙げられる。この状態の美月の声が公園なんかですれば間違い無く、近くに居る人間の注目を集めてしまう。
「私たち、別れ…うぅ」
追い打ちを掛ける様に、微かに聞こえる廊下のBGMは失恋ソングだった。
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