第152話 師匠

 152 師匠


 ぐずぐずの情けない僕をフェルは優しく抱きしめてくれてその日は眠った。

 うわごとのように言った僕の思いとかその全てを呑み込んで僕はフェルの胸の中で泣き疲れて眠ってしまっていた。


 目が覚めてフェルから体を離す。

 まだ眠っているフェルのおでこに優しくキスをする。精一杯感謝の気持ちを込めたつもりだった。そしてまだ寝ているフェルをできる限り優しく抱きしめる。


 数秒経ってフェルがモゾモゾと動き出す。


 恥ずかしい。寝てると思ってたけどフェルも起きてたみたいだ。これから気をつけよう。


 おはよう。でもその言葉の前に言わなきゃいけない言葉があると思った。


「昨日はありがとう、フェル」


 フェルは何も言わずに僕の胸に顔を埋めた。


 今日もフェルは家にいるそうだ。

 脱衣所のカーテンを仕上げてしまいたいらしい。

 行ってらっしゃいとフェルに笑顔で言われて気分よくお店に向かう。


 昼休みに師匠から声をかけられた。


「ケイ、次のお前の休みの日、午前中時間はあるか?」


「特に予定は入れてませんが……何かあるんですか?」


「予定がないなら朝7時に店に来い。仕入れに連れて行ってやる」


「はい!必ず行きます!よろしくお願いします」


「うるせえ。休みの日にわざわざ呼び出してんだ。礼なんていらん」


「はい!」


 2階に上がる師匠の背中に向かってお辞儀をした。


 お風呂上がりにフェルにそのことを報告する。仕入れを体験させてくれるなんてすごいことだ。前から小熊亭で扱う食材の質が良いのは感じていたんだけどどうやって仕入れているのかはわからなかった。

 仲買人の腕が良いのか、取引してるお店が良いのか。

 師匠がいつも遅めに来てるのは多分毎朝仕入れをしてたからなんだ。


「なんだか嬉しそうだな。見ていて私も嬉しいぞ」


 髪を乾かされているフェルが笑顔で僕にそう言った。


 木曜日。朝は早めに起きて急いで朝食の準備をする。お昼までには家に戻ってくるつもりだ。

 まだ少し眠たそうなフェルと朝ごはんを食べる。お味噌汁が美味しい。出汁を使った肉じゃがもいい感じに味が染みている。


「早く行かないと遅れるぞ」


 後片付けをしようとしていたらフェルにそう言われた。時計を見ると6時半を過ぎている。

 続きをフェルにお願いして急いで支度して家を出た。


 小熊亭の前で師匠を待つ。

 10分くらい待っていたら師匠が来た。

 眠いのかいつもより顔が怖い。もうだいぶ慣れたから気にはならないのだけど。

 

 南地区の市場に向かって師匠の後を追いかけるように歩いた。

 

 まず師匠が向かったのは肉屋さんだ。


「あらクライブいらっしゃい」


 師匠に案内されたのはいつも僕が買っているお肉屋さんだった。


「エマ、ロバートはいるか?」


「中にいるわよ。そっちの男の子は……たしかいつも朝、買い物に来てた子よね。最近はあまり来てなかったけど、いつもありがとうね」


「ここの腸詰とベーコンが美味しいからほとんど毎日買いに来てたんです。引っ越して市場が遠くなっちゃったから最近は買いに来れていないんですけど」


「なんだ?お前もここに来てたのか。うちで使う肉はこのロバートの店で仕入れてる。中に入るぞ」


 師匠はそう言って店の中に入っていく。


「ロバート、うちの従業員のケイだ。今日は仕入れに同行させている」


「ケイくんか。よく来てくれたねって、いつも腸詰とベーコンを買っていく子じゃないか。骨とか端肉とか欲しいって言ったりして。そうか、クライブのとこの子だったか。買ったお肉でハンバーグを作る練習でもしてたのかい?」


 師匠の前で見抜かれてしまうと流石に恥ずかしい。ロバートさんは優しい感じで僕に話しかけてくれた。


「僕でもエマにでも良いからね。ハンバーグの練習がしたいんだったらそう言ってくれ。必要な分用意してあげるから」


 ロバートさんにお礼を言う。

 話している間、師匠は店の奥にぶら下がっているオーク肉を選んでいた。


「ロバート、今日はこれとそこのやつだ。いつものように届けてくれ。ケイ、この2つの違いがわかるか?オーク肉は冒険者が持ってくる。家畜として育てられた豚より安くて肉質がいい。だが血抜きの仕方で肉の質が変わる。質が安定しないから安いんだ。いい肉はこの辺りの色で見極める。血合いの色だな。ここが濁っているものは血抜きするまで時間がかかっているってことだ。この部分を切り取ってしまっている肉屋にも気をつけろ。たいていそういう店の肉は質が悪い」


 師匠から言われたことをメモにとる。

 他にも鮮度の見分け方など教えてもらった。家畜と違い魔物肉にはばらつきが多いのだそうだ。言われてみると確かに自分で狩ったホーンラビットの肉より店で買ったホーンラビットの肉の方が若干味が落ちている気がしていた。なるほど、言われてみれば確かに、その場で血抜きしたものよりあとで血抜きしたものの方が臭みが強くなってしまう。


 そのあと師匠は行きつけの店を巡って僕のことを紹介して回った。

 何軒かは買いに来たことがあったお店だったけど知らない店も多かった。

 野菜売りのゴードンさんのことを師匠に話したら、確かにあそこの野菜はいいが、店で使う分を大量に買うのには向いてないのだと師匠は言う。


 いつも野菜を仕入れているという大きめの八百屋でふいに師匠が僕に聞いて来た。


「お前、なんか最近悩んでるんじゃねーか?」


 そう言われてドキッとしてしまう。


「おおかた原価のことだろう。店で作るスープも最近無難なものばかりだからな。必ずしもそれが悪いってことじゃねえ。レシピに忠実に作るってのは大事なことだ」


 そうなのだ。でもそれだけでいいのか最近迷ってる。


「レシピを忠実に再現することならお前はもうできてる。ことさら俺が何か言うことはない。だがその反面つまんねーなとも思ってる」


「でも、僕最初の頃に勝手にレシピをいじっていろいろ工夫したのは間違ってたって思ってるんです」


「確かにな。俺もあれが続くようなら何か言おうと思っていた。だがあの時サンドラの真似をしてニンジンの葉を入れただろう。その方が美味くなる。そう確信したからお前は入れたはずだ。あれは扱いが難しい。入れる時分をきちんと見分けなければ味がまとまらない。そしてお前はそれがちゃんと出来ていた」


 師匠は野菜を選別しながら僕に話をする。


「うちの店のレシピは俺や前に店で働いた奴らが工夫に工夫を重ねて出来上がったものだ。確かに整ってはいるがあれが全てじゃねえ。いいか?料理ってのは人間が作ってんだ。完璧なもんなんてはじめからあるわけねえ。全てのレシピは未完成だ。その先が必ずある。わかるか?」


 師匠が僕の方に振り向いて言う。

 僕は黙って頷いた。


「お前が気にしてるのは原価のことだろう。醤油の原価を調べてビビっちまったか?だからって醤油を使わずにお前の作りたい料理はできないのだろ?それはお前が作る賄いを食ってりゃわかる」


 師匠は野菜を選び終わって店の主人に配達するように手配をした。


「俺が原価を書けって言ったのは原価を下げろってことじゃねえんだ。お前が作ってるものがどういうものかきちんと知っておけってことだ。ランチのスープが多少原価が高くても店が潰れるわけじゃねえ。そしたら他で何かその分を補填すればいいだけの話だ。その気になれば俺の店でも王城の伝統のスープだってランチで出せるんだ。余った出汁ガラをお前が作った炒飯みたいに何かの料理に使えばいい。めんどくせーからやらねーけどな。だがそうやって工夫していけば全体で原価はどうなる?」


 師匠は僕が気にしていた細かいことよりも、もっと広く物事を考えろと言っている。

 黙って師匠の言葉を聞いた。


「作りたい料理が売りたい値段に見合わないことなんてそんなものは常にあることだ。だからって諦めるような奴は料理人でもなんでもない。金儲けしたいなら別の仕事をした方がいいんだ。だから俺たちは工夫する。少しでも美味い料理を客に食べさせるためにな。お前、休みの日に炊き出しもやってるらしいな。だったら俺の言ってることもわかるはずだ」

 

 言葉が、うまく出てこない。僕は師匠に頷いた。


「お前が店に来る客のために少しでも美味いものを食わせたい。そう思う限り俺やサンドラは何も言わん。多少原価がかかったとしてもそれはどこかで帳尻を合わせりゃいいだけの話だ。そんなことで店に迷惑をかけるとかそんな小さなことを気にする必要はない。サンドラもそうだが、ケイ。お前もいつか独立するのだろう?独立する時に俺の店の真似事しかできないようじゃ駄目だ。お前はお前の料理を作れるようになれ。店のレシピに忠実に従う必要はもうない。客のために考えた美味いものなら自信を持って作ればいい」

 

 ぽつん、ぽつんと涙がこぼれた。ずっと悩んでいたことが少しずつ心の中でほどけていく。


「お前はまだ16だ。無理して大人の顔色ばかり気にする必要なんてない。ロイとは逆でお前は手がかからないからな、俺たちは楽だが本当はそうじゃねえ。もっと大人に甘えていいんだ。お前のやってることが間違っていたら俺たち大人が正せばいいだけの話だからな。もう少し自由にやりたいようにやっていいんだぜ」


 そう言う師匠の声はいつもと違って優しかった。田舎でずっとじいちゃんに守られるように暮らしていたから、ずっと大人が怖かった。

 正直に言うと王都に来てからもずっと無理してた。

 

 昨日大泣きしたのもそうだ。

 一生懸命気を遣ってたつもりなのに、僕の周りの大人は僕が思っていたよりもずっと優しかった。


 受けた恩はすぐ返さなきゃいけないような気がして、そうすればみんな倍にして返してきて、だんだんそれが返しきれなくなって。


 誰かに甘えるなんてそんなこと考えたこともなかった。


「クライブ!またあんた新人を怖がらせてんのかい?この子泣いてるじゃないか!かわいそうに大丈夫かい?」


「違う。俺はただコイツに……」


 どんどん市場のお店の人たちが集まってくる。これ食べて元気だしなって八百屋の店主が言ってリンゴをくれた。


「いくぞ、ケイ。お前が泣くから目立っちまったじゃねーか。最後は調味料の店だ」


 涙を拭いて師匠の後を追いかける。

 集まってくれた市場の人たちに振り返って何度もお辞儀をした。


 調味料は炊き出しの時にお世話になってる店だった。


「お前けっこう市場では顔が広いんだな」


「炊き出しでお世話になってるお店です。いつもお米を買ってるお店の人の親戚なんです。毎回安くしてくれてとても助かってます」


「クライブ?ケイくんが働き出した店ってお前のところだったのか。早く言ってくれればいいのに。ケイくん辛い目にはあってないか?クライブは顔は怖いが意外といい奴だからね。冷たくされても気にしてちゃダメだよ」


「うるせえ、いつもの調味料だが、胡椒と塩は少し量を増やしてくれ。ケイ、何か必要なものはあるか?」


 そう言われてごま油を指差す。店では使っていないのだ。


「その油もくれ、樽ひとつ分あればいい。いつものように頼むぜ」


「クライブがケイくんをちゃんと面倒見てるんなら少し安くしてやるよ。代金はいつも通りでいいんだよな?」


「ああ、それで頼む。親戚の米屋ってあの入り口のとこの店か?」


「そうさ。ケイくんの炊き出しを兄貴のところと一緒に応援しててな、最近は教会に寄付するのを俺も兄貴もやめたんだよ。代わりにケイくんに安く店のものを売ってるんだ。クライブ、ケイくんの炊き出しの料理を食べたかい?すごく美味しいんだぜ」

 

「日曜だろ?店があるから食いにいけねーよ。だがこいつの作るものは確かに美味い。お前が言うのもわかる気はするぜ」


 いつか炊き出しの料理を師匠に食べてもらおう。誰かに頼んだら届けてくれるかな?


 そのあといつもお米を買う店を案内して、店主に師匠のことを紹介する。

 師匠はお米の発注とその時期を店主と打ち合わせた。

 賄いに使う分のお米を10キロ買って帰る。

 それを店に届けてみんなに挨拶をして家に帰った。


 帰り道、僕は王都の街にやっと馴染めた感じがした。

 緊張というか、今まで抱えていたものが軽くなった、そんな気分だった。


 前よりも身近に感じられる王都の大通りをフェルが待ってる家に向かって急ぎ歩く。

 早くフェルの顔が見たかった。

 














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