第2話

 夏を名前に宿した二人が日の当たる場所から降りたのは、風が冷たくなり始めたころだった。

 長期の休みが終わり久々の授業にも慣れてきたころ、二人の不仲説が流れだした。

 噂の出所は不明だったが、確かに最近二人で一緒にいるところを見ていない。

 鍵山さんの試合に苅田さんの姿はなく、双方と仲の良い友人たちの表情も浮かない。いつもは二人の間を行ったり来たりしている子は、苅田さんについたきり鍵山さんと話している様子はない。

 普段とは違う雰囲気を感じつつも、二人は相変わらず綺麗で、艶やかな黒髪には天使の輪が輝いている。


 それでも私は期待していた。

 きっと彼女たちなら、私の望む姿を見せてくれるだろうと。

 いつその瞬間が訪れても良いようにと気を付けて見ていたつもりだったが、残念なことにその場に居合わせることは出来なかった。

 風の噂に聞くと、体育の時間に鍵山さんが転倒して足をくじき、それを見ていた苅田さんが鼻で笑ったらしい。


「運動しかできない馬鹿なのに、運動すらできなくなったら、夏織の価値って皆無にならない?」


 そう言われた鍵山さんは苅田さんに殴りかかり、クラスメイトと教師が仲裁に入って何とか止めたらしい。

 鍵山さんの足は全治一ヵ月。

 思い切り殴られた苅田さんの顔は腫れあがり、一週間は腫れが引かなかったという。

 暴力を振るわれたのに鍵山さんに対して何の処罰もしていないのは何事かと、苅田さんの両親が学校に乗り込んできて揉めたらしい。

 その結果、そもそもの発端となった鍵山さんの怪我は苅田さんが足を引っかけてわざと転ばせたからだと判明した。

 たまたま後ろを走っていた二人の友人がその瞬間をずっと見ていたと証言した。

 別のクラスだった私は、流れてくる噂を聞くことしかできなかったが、冬の到来を待たずして鍵山さんは登校してこなくなった。

 その結果、苅田さんは腫れもののように扱われていたが、それでもその髪にはまだ天使の輪が見えた。彼女は一人でも、十分魅力的な天使だった。


 年の瀬に行われたテストで、一位の座から落ちるその時までは。

 その日、廊下に張り出されたテスト結果の前は、押し殺したような驚きの声で満ちていた。今まで一度も一番上から落ちたことのない名前が、そのときはどこにもなかった。

 二位にも、三位にも、見慣れた名前は書かれていなかった。上から順番に名前を辿り、やっと見つけたのは、半分に差し掛かろうとしているときだった。

 中の中。ごく普通の順位だったが、すぐ真上には見慣れた名前があった。

 苅田さんの名前の真上に、私の名前がある。

 ゾワリと、快感が全身を駆け巡る。全身の毛穴が開くような、産毛が逆立つような高揚感。新奈ちゃんのときよりも、よっぽど強く感じる興奮。

 夏までは、みんなの憧れだった子たち。今はもう、哀れみの視線しか向けられない。

 薄く開いた窓から吹く風は冷たく、とうの昔に夏が終わったことが分かる。彼女の真っ黒な髪に、もう天使の輪は見えない。


「美夏ちゃん、一位じゃなくなったなんて可哀想」


 嘲笑を含んだ声は、すぐ隣から聞こえた。独り言にも似た声量は、おそらく私にしか聞こえていなかったのだろう。誰も振り返ることもない中で、私は聞きなれた声に視線を向けた。


「新奈ちゃん」

「久しぶりだね、亜子ちゃん。もしかして、今の聞こえちゃった?」


 大きな瞳に、緩やかな癖のついた黒髪。透き通るように白い肌の中で、頬と唇だけが鮮やかに色づいている。

 華奢な手足はスラリと長く、キュっとくびれた腰は折れそうなほどに細い。豊満な胸元が、窮屈そうにセーラー服の中で身を寄せ合っていた。


「ずっと一位だったのに、残念だよね、苅田さん」

「そうだね。なんだか授業中も心ここにあらずって感じだったから、仕方ないのかな。夏織ちゃんのこともあったからね」

「鍵山さんも心配だよね。ずっと学校に来てないんでしょ?」

「夏織ちゃん、転校して行っちゃったんだよね」


 寂しいよね。そう呟く彼女の横顔は、相変わらず可愛らしい。けれどその瞳には、小学校の時とは違う鋭さが宿っていた。


「亜子ちゃんはさ、夏織ちゃんと美夏ちゃんの喧嘩の原因って知ってる?」

「苅田さんが鍵山さんにわざと怪我をさせて、怒った鍵山さんが手を出しちゃったからでしょう?」

「それはそうなんだけど、夏休み前後で少し空気が変わったの、亜子ちゃんなら気づいてたよね?」


 大きな二重の瞳が、私を見上げる。潤んだように揺れる黒目に、何の変哲もない私の顔が映っていた。


「どうしてそう思うの?」

「だって亜子ちゃん、いつも見てるから。小学校の時は、新奈のことを見てたでしょ? 中学に入ったら、美夏ちゃんと夏織ちゃんを見てた。気になって、新奈はずっと亜子ちゃんのことを見てたんだよ」


 力強い眼差しに耐えられずに、視線を少しだけそらす。視覚情報がなくなったことにより、声が鮮明に聞こえてくる。

 新奈ちゃんの声は鈴の音のように可愛らしく、耳障りが良かった。


「夏織ちゃんはね、好きな人がいたんだ。亜子ちゃんは、サッカー部の先輩のことは知ってるかな? 凄く格好良い人」


 確か、そんな人がいると言うことは聞いたことがある。クラスの女の子たちが校庭を見ながら騒いでいた時に、サッカー部の何とか先輩と言っていた気がする。


「えっと……小森先輩、だっけ?」

「そう。夏織ちゃんと美夏ちゃんの小学校の先輩でね、小学校三年生くらいからずーっと好きだったんだって。これだけ長期間、一途に一人を思い続けられるのって、素敵だと思わない?」


 新奈ちゃんが可愛らしい笑顔を浮かべて小首をかしげるけれども、目は全く笑っていなかった。


「でもね、夏織ちゃんが先輩のことを好きなのを知っていながら、美夏ちゃんがちょっかいをかけたんだって。最初は先輩も適当にあしらってたみたいなんだけど、美夏ちゃんは可愛いし頭も良いでしょう? どうやら先輩はまんまと美夏ちゃんの計画にはまっちゃったみたいで、一度だけ……しちゃったんだって」


 あくまでも噂だけどねと、新奈ちゃんが念を押す。


「……しちゃったって、もしかして……」

「そう、そのもしかしてだよ。先輩はそもそも美夏ちゃんにも夏織ちゃんにも興味がなかったみたいで、その後の進展はないみたいなんだけど、それを知った夏織ちゃんは当然怒るよね」

「だから、あんな風になったってこと?」

「まあ、美夏ちゃんは噂を否定してたから、本当のところどうなのかは分からないんだけどね」


 ニヤリと細められた目に、猛禽類のどう猛さを見る。歪められた唇は毒々しいほどに赤く見え、八重歯がやたらと尖って見えた。


「それで、新奈ちゃんはなにをしたの?」


 気づいたら、そんな言葉が口から飛び出していた。彼女が何かをしたという確証はないながらも、彼女なら何かしたんだろうと言う確信があった。


「新奈は別に、たいしたことはしてないんだよ。小森先輩と遊んでたときに、美夏って名乗っただけ。小森先輩って、サッカーしてるときは爽やかに見えるけど、意外とヤンチャなんだよね。山の方に、数年前に潰れて廃墟になったカラオケ店があるじゃない? 夜にそこで仲間たちと集まってることが多いんだよ」


 夜中で薄暗く、化粧もしていたため、小森先輩は新奈ちゃんの顔がよく分からなかったのだろう。けれど新入生の挨拶をし、廊下に張り出されたテスト結果で常に一位の座にいる下級生の名前は憶えていたようだった。

 生々しい一晩の様子を詳細に語られ、顔が赤くなる。いつか好きな人とそう言うことをしてみたいとは思う。けれどそれは、いつかであって今ではない。

 ひとしきり語って満足したのか、新奈ちゃんが深いため息をついた。勝ち誇ったような顔をしているのは、おそらく女としてのマウントを取れたからだろう。


「新奈はね、可愛い子が大嫌いなんだ。だからみーんな不幸になってほしいの。新奈を楽しませるためにも、惨めで無様な姿を見せてほしいの」


 いつの間にか、あれだけいた生徒はどこかに行ってしまっており、広い廊下に新奈ちゃんと二人で取り残されていた。

 大きな声を出しているわけでもないのに、新奈ちゃんの声がよく響いている。


「新奈ね、亜子ちゃんとなら友達になれると思うんだ。亜子ちゃんは、新奈と同じ趣味があると思うの」


 可憐に微笑む新奈ちゃんを前に、幼いころに祖母から聞いた話を思い出す。

 悪魔というのは、決して醜悪な姿をしているわけではない。人を惑わし、道を外れさせるためにも、一目で危険だと分かる姿をしているわけがないのだ。

 悪魔は、天使の姿をして近付いてくる。目に前に立つ人が本当に天使なのか、それとも偽りの皮をかぶった悪魔なのか、きちんと見極めなければならない。そうでないと、いつか痛い目を見る。

 新奈ちゃんは、祖母が警告した悪魔そのものだった。


「ねえ、お友達にならない?」


 差し出された手は華奢で、綺麗に手入れされた爪は艶やかに光を反射していた。

 手を取るか取らないか。そんな二択は、最初から頭になかった。


「いいよ……」

「亜子ちゃんなら、きっとそう言うと思ったんだ。これからは、新奈のことは新奈って呼んでね。新奈も、亜子って呼ぶから」


 悪魔の囁きから身を守る方法など、人でない限りは知っていたところで無意味だ。

 祖母は、天使の皮をかぶった悪魔に注意しろと言い続けていた。でも私は、人間の皮をかぶった悪魔の方が厄介だと思う。例えば、私のような。

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