堕天を望む
佐倉有栖
第1話
天使が堕ちる。
その快感に目覚めたのは、小学生六年生の時だった。
学校で一番可愛くて、芸能人みたいと言われていた新奈ちゃん。明るくていつもニコニコとしていた彼女のことを、私の母はいつも「天使みたいな子」と言っていた。
そんな彼女が、クラスで一生懸命作った壁新聞を破いてしまった。
もちろん故意ではなく、偶然だった。少しだけ出っ張っていた机の脚に躓いて、転んだ先にたまたま出来上がったばかりの壁新聞が置かれていた。
新奈ちゃんが転ぶ鈍い音、紙が裂ける音。見ていた子たちの悲鳴が重なる。その声は、決して新奈ちゃんを心配していたわけではなかった。
「新奈ちゃん酷い! せっかく頑張って作ったのに!」
目にいっぱい涙をためて怒鳴った子は、ちょうど新奈ちゃんが破いてしまった部分を担当していた。
「そうだよ! 加奈子ちゃんが頑張って作ったのに、なんで破くの⁉」
「新奈ちゃん酷いよ!」
「また作り直しかよ! 帰ってゲームしたかったのに!」
口々に責め立てる子たちの中、新奈ちゃんと仲の良い数人が反論する。
「新奈だって、転びたくて転んだわけじゃないのに、そんな言い方どうかと思う!」
「そうだよ! ほら新奈、膝から血が出てるよ。保健室行こう?」
出血。その言葉に、責めていた子たちもさすがに押し黙る。
みんな、新奈ちゃんが悪いわけではないのは知っていた。でも、何日もかけて一生懸命作り上げた壁新聞を台無しにされたという感情のやり場が必要だった。
「……みんな、ごめんね……」
泣きながら新奈ちゃんが頭を下げる。細い肩が震え、友人たちに支えられて教室を後にする。
重たい沈黙の中、クラス委員の男の子が冷静に指示を飛ばしていく。
ぼんやりとその声を聞きながら、私は全身を包み込む快感に酔いしれていた。
あんなに可愛くて、みんなから好かれていた新奈ちゃんが、ほんの些細な失敗で責められ、顔を歪ませていた。
くしゃくしゃになった、あの醜い顔。
いつもみんなから一目置かれて、誰もが好意の視線を向けていたあの新奈ちゃんが、クラス中から非難の視線を向けられていた。
新奈ちゃんは、天使なんかじゃなかった。
ゾクゾクと背筋を上る感覚に、私は口元が緩むのが抑えられなかった。
それから私は、あの時の快感が忘れられずに、可愛い子を見つけては観察するようになっていた。
公園でよく見かける、ショートカットの可愛い子。子役もしている、パッチリした大きな目の下級生。休日のスーパーでよくすれ違う、色白な美少女。
けれどみんな、遠くから見つめることしかできない。よく知らない子に声をかけられるほどの社交性はない。
悶々とした日々を過ごしているうちに、小学校の卒業式があり、中学校に入学した。
家から一番近い学校を選んだため、同じ小学校の子がたくさんいる。新奈ちゃんもそのうちの一人だった。
相変わらず並みの女の子よりは可愛かったけれども、上には上がいた。
同級生の鍵山夏織さん。バレー部に所属する彼女は、とても整った顔立ちの美人だった。
鍵山さんの幼馴染の苅田美夏さんは、新入生総代も務めた秀才で、しかも顔は新奈ちゃんに引けを取らないくらい可愛い。
運動神経は抜群だけれども、成績は振るわない鍵山“夏”織さんと、成績は優秀だけれども運動神経は皆無な苅田美“夏”さん。同じ季節を名前に宿しながらも、得手不得手が正反対の二人だったが、仲は良かった。
どうにか二人に近づきたいと思うのだが、特にこれと言った特技もなく、運動神経も普通で成績も中の中、顔に至っては中の下レベルの私が彼女たちの仲間に入れてもらえることはなかった。
ただ遠巻きに、二人の様子を見るだけ。
鍵山さんは一年生でレギュラーの座を射止め、エースとして毎試合得点を重ねていた。彼女のスパイクが相手コートに刺さるたびに、歓声が沸く。仲間たちの祝福を受ける時の、晴れやかな笑顔。
チリリと、胸の奥に鈍い痛みが走る。
苅田さんは入学してからずっと、成績一位の座に君臨し続けていた。テストの度に貼り出される順位表の一番上には、必ず彼女の名前があった。総合点も高く、満点と言うときも一度だけあった。
「また苅田さんが一位か。やっぱりすごいよね」
「家ではテスト勉強そんなにしないって言ってたよ。毎日授業をきちんと受けて、予習復習をしっかりすれば、ノートを見返すだけでなんとかなるんだって」
遠巻きにひそひそと話す輪の中央では、仲の良い友達に祝福されて微笑む彼女の姿があった。
平凡な者たちが向ける、羨みの眼差し。特別な才能を持った子たちの、晴れやかな顔。
心臓がギュッと掴まれたように傷み、胃のあたりからムカムカとした酸っぱいものがせりあがってくる。
「美夏! また一位だったんだって? すごいじゃん!」
生徒たちをかき分けて、鍵山さんが手を振りながら近づいてくる。
「ありがとう! 夏織も、朝練の模擬試合で大活躍したんだって? マナちゃんが言ってたよ」
「たまたま調子が良くてさ。まあ、テストは散々だったけどね」
「でも、赤点はなかったんでしょ?」
「テスト対策のために雇った家庭教師が良かったからかな」
「あれ、雇われてたんだ?」
苅田さんがお腹を抱えて笑い出し、鍵山さんもつられて声を上げて笑う。
箸が転んでもおかしい年頃というにはまだ少し早いけれども、それでも思春期の彼女たちは輝いていて、無垢な笑顔はずっと見ていられるほどに美しい。
窓から差し込む光が、彼女たちの艶やかな黒髪に天使の輪を描く。はしゃぐ二人の胸元で赤いリボンが踊り、ひざ丈のスカートがふわりと広がる。開け放たれた窓からは強い風が吹き、セーラー服の襟が大きく揺れる。
純白の羽が見える。彼女たちの背に、はっきりと。
唇を噛み、こぶしを握る。
光の当たる場所もあれば、当たらない場所もある。いつも羨望の眼差しを向けられるのは、彼女たちのような明るい場所にいる天使たちばかり。
堕ちてしまえば良いのに。
新奈ちゃんのように、天使の仮面なんてはがれてしまえば良いのに。
親指の爪を噛む。気に入らないことがあると無意識で出てしまう癖だった。
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