榊原順一郎の場合4 ~己の黒、侵食される日常~
夢から目が覚めるといつもとは異なり、そこには若い男性職員の姿があった。自身の作品をこよなく愛してくれている吉川という青年だ。これもまた普段と違うのはひどく重苦しい呼吸。
自分は死にかけていたのだ、そう理解するまでにさほど時間はかからなかった。
そして彼は無意識のうちに告げていたのだ。
「なぜこのまま死なせてくれなかったんだ」
と。
自分でも分かっていた。仮に命が尽きたところで、その尽きた先でも同じ夢を見続けるということを。己は永久に「奴」の、脇田の目から、脇田の言葉から逃れることはできない。
「ありがとう」
あの言葉から。
「ありがとう、榊原」
その後には何が続いていたんだ、脇田。ありがとう、俺の作品を世に出してくれて、か。それとも、ありがとう、俺の代わりに死ぬまで苦しんでくれて、か。
病室の窓から真っ白な雲が移動するのを見つめながら、あの雲の上に乗って自分もどこか遠くへ流されてしまいたい、そう思った。脇田の目から、自分の目からも見つからないどこか遠くへ。
退院して「陽だまり」に戻ってから、榊原は己が決して犯してはならない過ちをしてしまったことに気付いた。自身の内面ばかりに気を取られて、自分の発した言葉が未来ある男子を恐ろしく傷つけてしまったということに。
謝りたかった。
しかし当の相手はそれさえも許してはくれないようだった。
「素直に謝罪されてはどうですか」
かつて『赤い鳥』原田に似ていると感じた篠塚に言われても榊原はその術が分からなかった。
「先生はなぜあのような作品をお書きになられたのですか」
私が知りたい。脇田はなぜあの作品を書き得たのか。
自分は過去の過ちだけでなく、これから先のある青年の未来をも黒く塗りつぶそうとしている。他者の生き様まで変えてしまうことだけは防がなければならない。自分のために、彼らに苦しみを与えることだけはあってはならない。
『赤い鳥』に出逢いさえしなければ己はもっと別の生き方をしていたのだろうか。今なら脇田が駄作だと言った意味が少しは分かるかもしれない。
「ありがとう」
という台詞で苦しめられた榊原は、その対極に
「ありがとう」
という台詞で人を笑顔にする少女を見つけた。一ノ瀬と名乗る介護士はいつもその言葉で周囲を元気にしている。
榊原は彼女の感謝の言葉を聞いて、脇田の「ありがとう」から解放されるような気がした。意を決して青年に対峙する気持ちが生まれたのも彼女のお陰であった。
河野と和解できたその日、榊原は夢を見た。
脇田がいつものように机の前でこちらに笑顔を向けている。
「ありがとう、榊原」
「脇田……」
「俺は永くない。お前の夢に俺を乗せてくれてありがとう。お前なら大丈夫だ」
そこで目が覚めた。
新しい作品を書こう、そう決心してパソコンに向かう。
今までとは違い、書かなければならない、超えなければならない、そういった雑念は不思議と取り払われていた。そしてふと自分の未完の作品を手に取った青年のことが頭を過った。
彼は作家を志していた。自分とは作風が全く異なるだろうが、同じように文筆家を目指している。
榊原は急に不安な心持になった。
彼に自分と同じ過ちをさせることはないだろうか。一生涯悔いて生きさせることになりはしまいか。
今の作品が『赤い鳥』ほどの力を持っているわけではないが、まだ発表されていない作品を読ませてしまった。彼が己のようなことをする人物とは思えなかったが、出来る限りその不安を払拭しておきたかった。
榊原はここ最近まで世話になっていた担当編集者へ電話を入れると新作を発表したいと告げた。
「そうだな、最近話題の詐欺グループなんて題材にはタイムリーでいいかもしれないね。文学作品から時勢にアプローチするのもなかなか悪くない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます