榊原順一郎の場合3 ~許しがたい過去~

 榊原はよく夢を見た。それはいつも同じ夢であった。

「榊原」

 自分を呼ぶ声がする。

 はっとして目を開けるとそこは古ぼけた宿舎で自分の顔を覗く奴の顔がある。

「脇田」

 応じて机から体を引き剥がすと相手はこちらに向かって快活な笑い声を立てた。

「話している途中に寝るやつがあるか」

「悪い。どうやら根を詰めすぎていたみたいだ」

「最近書いているという作品か」

「ああ」

 脇田は線の細い男であった。非常に貧弱な体型で一緒に銭湯など行けば肋が浮き出て見えるほどに痩せこけていた。特段鍛えるわけでもないのに骨組みががっしりとし、筋肉質な己と並ぶとそれは殊更に強調されて映るようだった。体格に合わせたような神経質そうな目は、物事を独自のフレームで切り取り鋭い切り口で評価した。しかし一見とりつく島もないようなこの男は、社交性の面では思わぬ一面を発揮した。脇田はたいてい初めて会った人間とも心安く話し、次に会う約束をも取り付けることがあった。一方の自分は人好きする見た目とは異なり、付き合いはさほど得意ではなかった。よくもまあこれほど違う人種と馬が合ったものだと思う。それほどに二人は対極の人間であった。

 にもかかわらず親友を尋ねられれば双方に互いの名を口にするほどの仲でもあった。

 時勢の社会問題や学術に関することまで様々に議論をしたものだ。殊更に彼らの話題にのぼったのは文芸作品の評論であった。榊原は職業作家になりたかったし、脇田も同じだった。彼らは時に自分達の創造した作品について語り合うこともあった。

 あの日は二人同室の寄宿舎で脇田はまだ帰宅していなかった。そして机の上には書き上げたばかりとみられる原稿がおいてあったのである。

 脇田はここ最近筆をとっていた。端で見ているものが心配になるほどな熱心さで食べることを忘れたかのように執筆していた。恐ろしいくらいに筆が進むのだと、彼は言った。

 榊原は吸い寄せられるようにその原稿を手に取ると目を通し始めた。

 そして驚愕した。

 紙面の中で動き出す登場人物たちの生き様に、台詞に、脳内が侵食され 、初めて脇田という男に対して、憧れでなく、妬みを感じた。

「読んだのか」

 背後から声がして振り替えると脇田であった。

「ああ、読んだ」

 何も悪いことをしているわけでもないのにひどく心臓が早鐘を打ち、喉はからからであった。

「持ち込まないのか」

「出版社にか?」

「ああ。あるいは投稿」

「する気はない」

「どうして」

「それは駄作だ」

 これを駄作だと言い切る友の言葉が理解できない。

「脇田これは世に出すべき作品だ。少なくとも僕はそう思う。確かに幾らかの非難の眼差しにはあうだろうが、それでもこれが世に出てほしいと僕は思う」

「ありがとう。ただそれは俺の書いたものじゃないんだ」

「君が書いたものじゃないとしたら、誰が書いたんだ」

「いや書いたのは俺だが」

 何を言っているのかさっぱり訳が分からなくて榊原は眉間に皺を寄せたまま黙りこんだ。

「確かに書いたのは俺だが、これは何か神憑り的に降りてきた作品だ。俺が普段書くようなものじゃない。自分の力で書いたものでない作品に自分の人生を左右されるのは癪だよ」

 脇田は夕陽の映り込んだ窓に目を向けて静かに呼吸していた。何を考えているのかその後ろ姿からは想像できない。

「なあ脇田。この作品を練習台として、僕に写し書きさせてくれないか」

「ああ、構わない。好きに使ってくれ」

 文筆の練習として他者の作品を写し書くという作業も時として行っていた。いざ己の手で書いてみるとただ読むだけでは分からない作品の流れを掴むことができる。この作品においては文の区切れの感覚やテンポまでも全て余すところなく把握したい、そんな感情に囚われていた。

 榊原は自身の作品を制作するときと同じ熱心さでペンを滑らせた。そして全てを書き写したとき、こともあろうか、その作品に自身のペンネームを付けて投稿してしまったのである。悪意はなかった。ただただこの作品が世の中にどのような評価を付けられるのか純粋に見てみたかったのである。榊原はこの行為自体は間違っていなかったと今でも思っている。ある一点を除いては。そう、なぜあの時作者の名を書き換えてしまったのか。未だに自分でもよく分からない。

 榊原の予想通り、『赤い鳥』は世の中の知るところとなった。いやそれ以上に独り歩きをし始めた。自分の作品ではない、そう発言する機会はいくらでもあったが、それを言う勇気だけはなかった。

 彼は自分の作り出した『脇田壮二郎』という存在に悩まされることとなった。『赤い鳥』を越える、いやせめてそれに並ぶ作品を書こうとすればするほど筆は鈍った。

 脇田はそのうち線の細い男特有の肺の病にかかって国立の病院に閉じ込められることとなった。

 こんな己を見て真の作者である脇田はどう思っているのだろう、そう思うと恐ろしくて見舞いなど行けたものではなかった。かの親友が入院してから随分と経ってから榊原はようやく重い腰を上げて病院に向かった。

 脇田は己を見ると、ただ一言

「榊原、ありがとう」

 そう言った。

 自身を見舞ってくれたことへの感謝の意なのか、おそらくそうであろうが、榊原にはそうは聞こえなかった。脇田は分かっていたのだ。自分の能力に見合った作品でなければ、後々その幻影が己の首を絞めることになる事実を。それを身を持って体現した己に対しておそらくは心の内で嘲笑しているのだろう。

 榊原はその日を最後に脇田と会うことはなかった。

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