エピローグ  榊原順一郎の場合~名付けに縁遠い孤独な己と、去った愛犬~

 順一郎という名前がどういう由来で付けられたものなのか、榊原はとんと知らない。今の学校では授業の一環で、自分の名前がどのような理由で選ばれたのか両親から聞き取る宿題が出るそうだが、榊原の時代にはそのような学習はなかったから、取り立てて尋ねることもしなかったし、教えてもらうこともなかった。

 自身に子どものいなかった榊原は、名付けるという行為からも縁遠かった。彼が唯一真剣に悩んで付けた名前は「脇田壮二郎」に他ならない。すくすくと元気に育つ意味合いの「壮」の字に、自身の文才が成長することを合わせて願った。才能という言葉と成長という言葉はまるで相反するようであるが、彼は自身にその能力が芽生えれば良いと真剣に、そして本気で思い悩んでいた。「脇田」は、奴の名字だ。

 己に付ける名以外で本気で悩んだのは、「伊達隆臣」その人を名付けるときであったように思う。歴史上の人物として一番好きな伊達政宗から氏をもらい、下の名前は勢いよく成長できる意味合いとともに人の話に真剣に耳を傾ける正しい生き方をしたい、そういう願いをこめて付けた。それ以外、彼は自身の小説の登場人物達に取り立てて意味のある名を付けたことはなかった。それは音の響きであったり、画面上に出てくる人気の俳優と同一のものであったりした。そういう意味では隆臣は彼にとって特別な存在であった。

 隆臣は他の作品と同様、一主人公に過ぎなかった。ただし彼が作風を大きく方向転換した初の作品という意味においては特別な存在であったし、また榊原の生み出すキャラクターの中で一際大衆の人気を集めたという意味においても彼は別格の存在であった。

 しかし自身の手の内から生まれた主人公が世の人に愛されるのは至上の喜びであったし、それを強く望んでいたにもかかわらず、己の想定以上に膨れ上がった期待は榊原を苦しめる。書くという行為を愛し、また逆に呪ってもいた男にとって、不特定多数にその行為を求められることは脳内を揺さぶられることに他ならなかった。それゆえ榊原は一度隆臣を自分の手で殺そうとしたことがある。ただその構想を自分のファンに話したところ涙を浮かべられたので実現には至らなかったのだ。彼女の瞳からあのような綺麗な涙が溢れ落ちるとは予想だにしていなかった。

 そんなわけで書き残された原稿は定形外サイズの封筒に大事に入れられたまま、引き出しの中にしまいこまれていた。それを未練がましくここまで持ってきてしまったのは、榊原の元来からのものを捨てられない性質も多少関係していたかもしれない。

 自身の思い入れを腹に納めた茶封筒をどこに置いておこうかと考えて榊原は自身が使用している車イスの後ろのポケットにしまうことを思い付いた。肌に離さず持っていたいような、それでいて目にしたくないような心持ちにはちょうど良い保管場所であった。

 ここ「サービス付き高齢者向け住宅『陽だまり』」に来てから、榊原は穏やかな日々を過ごしていた。朝の始まりはまず鳥の鳴き声か、職員の

「榊原さん、おはようございます」

 という声掛けから始まる。

 締め切り間近で慌てたように鳴り出す目覚まし時計ではなく、この普通の目覚めが心地よい。

 栄養面に配慮された朝食をとってのんびりと過ごすと時間は午前十時のお茶の時間になっている。階下に行くと笑顔で出迎えられ、やってきた他の住人と他愛ない会話を楽しむ。隣に腰掛ける男性は榊原よりも幾分年配のようであり、気候と政治の話題を好んで話した。それに応じながら、「脇田」が生きていればこのようにおしゃべりに興じることもあったであろうか、と訳もないことを考えた。

 ふと男性が口を閉じて食堂のテレビ画面を見つめたので榊原も視線を移した。画面上では最近日本全国を騒がせている詐欺グループの被害について取り上げている。

「許せませんな。こんな老いぼれから身ぐるみ剥がそうっていうんだから。私なんて全くの金欠なのにその上騙しとられたら生きていけませんよ」

 そういう男性はこの集合住宅に住んでいるだけ、資金があるはずで、また周囲の職員の目があるためこういった詐欺グループに狙われる対象とはなりえないだろうが、何となく合わせて相槌を打っておく。この詐欺グループは空き巣を狙った強奪事件にも関与しているようだ、といった内容のこともニュースでは取り上げており二人はしばしそのことを話題にしたが、元来巷で起こる事件よりも政治に興味の強いその男性はまた話題をこの間見た国会中継に戻した。

 榊原は視界の隅で未だに事件を取り上げるキャスターを捉えながら、かつて一度だけ屋敷に通した女性のことを思い出していた。自分よりだいぶ若いその女性は、働き口に困っていることと家事スキルを熱心にアピールし、ときに美味しい手料理まで用意してくれた。たいていのことは担当編集者がやってくれていたため、さほど不便を感じたことはなかったが、彼女の熱心さに負けたこともあり家政婦として雇い入れることにしたのだ。実のところ、その熱に別のものも混じっていることを榊原は察していた。それは自身に対する羨望の眼差しというよりは、狙い定めた獲物に食い付こうとする野生動物のそれに酷似しているように思えた。

 全てを分かった上で猛獣を手元に置いたのは、自分ならばこの獣を飼い慣らすことができると思ったからではない。ただ単にこの獣に喉元食い付かれることで息絶えたとしてもそれも一興だ、と感じたからに他ならない。

 にもかかわらず、予期に反しこの獣は非常な従順さで己に仕えた。食事の準備から片付け、洗濯から掃除までなんでもやってのけ、ただ凝った菓子を作るのは苦手なようであらゆるものを手作りするわりに、菓子だけは必ずどこかの店を探してきては切らすことがなかった。それが自分の好みをきちんと把握しているのにはいつも驚かされたものである。

 彼女はまた極めて熱心に自分の作品を読んでおり、必ずといってよいほどその感想を目の前で述べた。それゆえいつしか榊原も彼女に心を許し、隆臣最期の構想について語ったのである。愛犬は目に涙を浮かべて

「先生、隆臣を殺すのですか」

 と問うた。

 この熱心な読者にして、我が家族にこのような表情を浮かべられるとは思っていなかった榊原は、急に夢から覚めたようにこの構想を掻き消すことになった。封書として送られてくるファンレターを目にするのとは違い、実際の人間に泣かれると、まるで自分がひどい横暴をしているような気がしてならなかった。

 しかし長い間の構想を凍結させるほど思い悩んだにもかかわらず、なぜか愛犬は我が家を去ってしまった。未だによく分からない。

「榊原さん、お風呂の準備ができましたよ」

 職員に呼び掛けられて榊原は蘇ってきた思考を一時停止させた。

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