第32話 思わぬ偶然
夜九時前に帰宅した母親は大きな溜め息をついて台所の椅子に腰掛けるとテーブルに突っ伏した。
「お母さん大ショックだわ」
まるで宮田のように聞いてほしいと言わんばかりである。
「悪かったよ、東京行きなんて大事なことを相談もせずに決めて」
言うと
「そっちの話じゃないわよ」
と流されたので面食らった。
先日あれほど声を上げて泣いていたのにそれよりも重要な悩み事ができたとは。意外と母親が精神的に強かったと分かったのは良いが妙に寂しい。
母は耕司の気持ちなどお構い無く
「お母さんね、耕司に紹介したい女の子がいたのよ」
と一人塞ぎこんでいる。
「紹介って勝手に話を進められても」
「お母さん最近オカリナ教室に行き始めたでしょう。そこに一緒に通っている女の子が礼儀正しくて、真面目だし、耕司にいいわって思ってたのよ。それなのに今日教室に行ったらその娘彼氏ができたんですって」
「はあ」
「しかもその彼氏っていうのが、もうすぐどこかへ行っちゃうっていうじゃない。あり得ないわ!交際を自分から申し込んでおいて彼女を置き去りにしたまま遠くへ行くだなんて。耕司、今のうちにかっさらっちゃいなさい」
「はは、俺にしたって同じことだろ」
「そうね。お母さん、娘ができて一緒にお料理作ったり、お出かけしたりするのが夢だったのに」
「勝手に夢見たってその娘に迷惑だろ」
耕司は母親の前に冷たい麦茶を出して、自分にも注ぎ入れる。母はそれに口をつけてから
「まあ、ゆうこちゃんが幸せならそれでいいけど」
「!」
「名前通りとっても優しい娘なのよ。喫茶店で働いているの。お母さんも一回行ったことがあるんだけど、とっても気立ての良い娘だからお客さんにも人気なのよ。優子ちゃん、ずっと気になっている常連さんがいて、でもその人に彼女がいたらしいのよね。だいぶ落ち込んでいたけれど、この間たまたま話しかけたら、その女性は彼女じゃなかったらしくて、その上帰りに交際を申し込まれたんですって!あるのね、そういうこと。でもその男本当に信用できるのかしら。実はまだその彼女とお付き合いしていて、優子ちゃん、良いように遊ばれているんじゃないかしら」
まるで我が娘のように心配している。耕司は軽く咳払いをしてから
「それはないんじゃないかな」
と言った。
「どうしてそんなことが分かるのよ!大体目の前で他の女性といちゃついておきながら、交際を申し込むなんて最低だわ。その上付き合い始めから遠距離よ。全くどういう育て方したらそんな風になるのかしら。親の顔が見てみたいわ!」
耕司は居たたまれなくなって一気に麦茶を飲み干すとコップを洗いに席を立った。まだぶつぶつ言っている母親に
「鏡を見ればその顔が拝めるよ」
とはさすがに言えなかった。
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