第31話 これは運命の出逢い!?惚れっぽい男

 さすがに母親に泣かれるのは辛かったが、耕司の心はすでに決まっていた。会社に退職の意思を告げる前に、彼は美月と親しくなるきっかけとなった喫茶店へと向かった。最後にお気に入りの店で珈琲を味わいたかった。もうここへ訪れることもないかもしれない。

 いつも通り窓際のカウンター席に腰掛けて鞄から村山はるかの文庫を取り出すと、若い女性店員がやってきて目の前に水の入ったグラスとおしぼりを置いた。そのまま立ち去るのかと思いきや、もじもじと何か言いたげな様子だ。店員は意を決したようにこちらを真っ直ぐ見つめると

「あの」

「はい?」

「大丈夫ですか」

 真剣な面持ちで尋ねられて耕司は何を問われているのか判然とせず、

「あ、できればもう少し待っていただくと助かるんですが」

 とメニューを片手で軽く上げた。

 自身の言葉が注文の催促と取られたことに相手は慌てたように顔の前で手を振る。

「あ、そっちじゃなくて」

「?」

「あの、ニュースで出ていた女の人ってここでお会いされていた人ですよね。大丈夫ですか」

 どうやら白鳥美月のことを言っているようだ。耕司は慌てて周囲を見回したが他の人間がこちらに注目しているわけではなさそうだった。

「心配してくれたんですか。ありがとうございます。でも俺は別に騙された被害者ではないので」

「あ、だから、そっちの心配ではなくて」

「はあ」

「お付き合いされてたんですよね。とても仲が良さそうだったから、ショックを受けておられるんじゃないかと」

 ひどく心配げな顔の店員に耕司は意表を突かれて瞬きを繰り返した。

「あ、ご心配いただいて申し訳ないですが、俺とあの人はそういった関係ではなくて。あのときは趣味があって少しお話ししただけというか」

「そうだったんですか」

 相手はひどく安堵した様子を見せた。耕司は美月とは二度しか入っていないのにこんな風に覚えられていることに若干驚いた。それと共に他の人間の記憶にも同様に残っているとしたら、自分が感謝状を辞退した人間とばれるのも時間の問題かもしれないとさえ思う。

 店員は一礼して下がろうとしたが、耕司はそれを慌てて止めると

「小倉トーストとアメリカンコーヒーで」

 と言った。

 相手は少しだけ目を瞬いてから注文を繰り返して去っていく。しばらくして頼んだ品を運んでくると深くお辞儀をした。

「すみませんでした」

 机の上を見つめるも頼んだ品の通りである。何を謝られているのだろう。

「あの、私のせいですよね。いつもお客様は茹で玉子に深煎りコーヒーなのに」

「?」

「お客様が小倉トーストとアメリカンコーヒーを頼まれるときは、すごく疲れていらっしゃるときか、何かひどく思い詰めていらっしゃるときだから。……私があんなこと言ったから」

 耕司はひどく落ち込んだ様子の相手を見て目を見張った。そんなこと一度も考えたことはなかったからだ。

「気付かなかった。自分では特に意識したことなかったから。でも疲れたときは糖分を欲するっていうし無意識に選んでたのかもしれないな。あ、でも別に今日のは君のせいじゃなくて、ここ最近色々あったから体が小豆を欲していたんだと思う」

 ここまで言い終わって相手の顔をまじまじと見つめると相手はほんのりと頬を赤く染めた。と、

「優子ちゃん、こっちの注文も頼むよ」

 年配の男性に声を掛けられて

「はーい」

 優子ちゃんと呼ばれた店員は早足で向こうのテーブル席に行ってしまった。何事においてもプロはすごいな、などと思ってその後ろ姿を見つめる。客の頼むメニューから、その日のコンディションまで把握しているとは恐れ入る。と、厨房のほうへ戻ろうとこちらを振り返った彼女と目が合った。相手はこちらが見ていたと悟ったのか先ほどよりも真っ赤に顔を染めて行ってしまった。

「え?」

 思ってもいない反応に耕司の心臓は大きな音を立てた。

「いや、まさか」

 その後も何となくその店員のことが気になってしまい無意識のうちに目で追っていると、彼女は他の従業員に内緒話をしてはこちらを気にする様子で、恥ずかしそうに頬に手を当てたりしている。隣の店員が耕司のほうを見てから彼女のほうへ向き直ると、肩を叩いて激励でもしているかのような素振りを見せた。

 耕司は最後に落ち着いて読もうと思っていた村山はるかを手にとって、何も考えまいと字面に目を走らせる。が、美月が自分の作品を隣で読んでいたとき同様に文章が頭に入ってこない。それでもあの日とは異なり、外面だけでも取り繕うように読んだふりをし続けた。

 どれくらい経ったであろう。

 コーヒーも飲み終わり席を立つと、レジにはちょうど先ほどの店員がおり、耕司を見るとはにかんだ様子で

「ありがとうございました」

 と言った。

「九百五十円です」

 言われて千円札を取り出して置いたが、ふいに小銭があることに気付いた。札を引っ込めようと手を出して耕司はすでに千円を掴んでいた彼女の手を誤って握ってしまった。

 相手は短い悲鳴のような声を上げて手を咄嗟に引っ込めた。

「ごめんなさい」

 慌てて謝罪して顔を上げると、相手の顔が見る間に赤くなっていく。

「私こそ大きな声を出してすみません」

 恥ずかしそうに笑う顔にえくぼが浮かんだ。

 会計を済まして

「ありがとうございました」

 再度礼を言われ店の外に続く扉に手を掛けてから、耕司は思いきって振り返った。

「あの、」

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