第29話 魔性の女を駆り立てたもの

「あんなことは初めてだった。狙いを定めた獲物が私に夢中にならないなんて。彼はいつでも遠くを見ていて、その目は誰か別の人を常に追って私の手の届かないところにあった。私はひどく自尊心を傷つけられた」

「……」

「私は自分の判断力に自身を失ったわ。どうにかして彼の心を手に入れようとすればするほど冷静さを失って。それでも彼の心はまるで空を掴むように実体がなく、私は何も告げずにあの屋敷を出て行くことになった」

 犯罪行為に正確な判断力などという単語が適しているのかどうか定かではないが、仮にその冷静な判断力を失わせたものがあるならば、それは詐欺師としてのプライドだけではなかっただろう。しかし当の美月自身が気付いていないようなので、耕司は口にするのを止めておいた。

 美月はここで耕司を真っすぐに捉えた。

「だから私は彼と同じように小説に夢中になっているあなたの心を捉えて、昔自分のことを歯牙にもかけなかった男に別の形で復讐したかったのよ。私に夢中になった男にあの人の情報を盗ませて、彼から身包み剥ぎ取るの」

「美月さん」

「でもあなたも同じ。最終的には私から目を逸らす」

 彼女はここで自嘲気味に笑った。いつものえくぼは浮かばなかった。

「あの夜あなたに振られた私の気持ちが分かる?どうしようもなく辛かったわ」

 そう言う女の目に自分は映っていないことに耕司は気付いていた。最初から彼女の目の中には自分は映っていなかったのだ、そう思うと耕司は妙に虚しい気持ちになった。

「僕といて少しは楽しかったですか」

 気付いたらその質問が口をついて出ていた。

「とても楽しかったわ、途中までは。確かにあなたはあのときまで私に夢中だった。どこから間違ったのかしら」

 心底不思議そうに呟いて首を傾げる。どこからではない、きっと最初から間違っていたのだ。そもそも求めている相手が異なっているのだから。

 美月はここまで話し終えると体ごと耕司の方へと向き直って瞳の奥を覗き込んだ。

「私基本的に人間は欲望のために動くと信じているの。人間には三大欲求と言われている食欲、眠欲、色欲があるでしょう。それ以外にも物欲とか。そういう様々な欲望が原動力となって全ての活動が成り立っていると思うのよ。あなたは最初間違いなく私に対して欲を感じていたはずよね。でもそれが消えた」

 耕司は相手が何を言いたいのか分からず返答に窮した。自分への興味を失ったことへの非難をされているのであろうか。彼女は続けた。

「だからね、私基本的に正義感なんてものは信用していないの。だって正義なんてどちらの側に付くかで大きく変わってしまうもの。昔自衛警察って言葉が流行ったの知ってる?コロナウイルスが流行ったときに自粛しない店や個人に対して、何の権限も持たない市民が武力行使をしてたわよね。あれってウイルスから人々を守るためだってその人たちは信じて動いていた。でもそれってワクチンを受けられない特殊な体質の人たちや生きていくのにやむに已まれず店を開けている人たちからしたらいい迷惑だったと思うわ」

「……」

「世界で起きていることもそうじゃない。世界のあらゆるところで起きている戦争はどちらが正しい、どちらが間違っているって正義感を振りかざして語る中身なのかしら。どちらの側に付くかで状況は全く違うと思わない?」

「……」

「あなたはどういった欲を原動力にしてここに来たのかしら」

 そう言ってじっと耕司の瞳を見つめた。心の奥底まで見透かそうとするように不思議な光を宿して入り込んでくる。

「私分かっちゃった」

 美月はくすりと笑うと自身の唇に人差し指を当てて少しだけ視線を外してから、再びこちらを見つめた。何とも言えず甘美な表情であった。

「あなたの場合は、『名声』ね」

「!」

 耕司は未だかつて自身の特徴を挙げられる際に一度も聞いたことのなかった単語を投げかけられて、心臓が飛び上がりそうな心持になった。相手はこちらの反応に構わず先を続ける。

「本心から誰かを想って行動する人間なんていない。本当にそう信じているならそれは自分の取った行動で周囲に素晴らしい人だと思ってもらいたい、そういう欲望を隠しているか、自覚していないだけだわ」

 つらつらと出てくる言葉にひどく悲しい気持ちになったが、だからこそ彼女とは分かり合えたかったし、咄嗟に会いたくない、そう感じたのだろうと思った。

「そんなに欲しいならあげるわよ。あなたの欲しい『名声』を」

 美月はそう言うなり自分の鞄からスマートフォンを取り出すと、それを耕司の右手に握らせた。

「あなたは今組織の人間と繋がる重要な切り札を握っている。あなたはそれを私と共に警察署に突き出すだけでいい。そうすればあなたのお望み通りの名声が手に入るわ。社会的弱者を陥れる犯罪組織を壊滅する手助けをした英雄として」

 女はこちらの反応を楽しむように角度を変えて耕司を見つめ続けた。

 耕司は手の中にあるスマートフォンと目の前にいる美月の瞳を交互に見つめた上で、

「僕には分かりません。自分が何のためにここに来たのか。僕はただあなたに会って僕を選んだ理由を確かめたかったから来ました。多くの人を悲しみの底に追いやるような犯罪組織を許すことはできません。だからその一部に組み込まれようとしていたと聞いたときは、正直ショックでした。僕は家族を守るために大枚を叩いた人を知っている。確かにその行為はあなたの言う通り、世間から家族が非難されることを表面上取り繕うための浅はかな考えから生じたものかもしれません。でもだからといって老後を家族に頼ることなく生きようと懸命に計画立てて生きてきた人たちの余生を悲しみや懺悔で覆いつくすことは決して許されることではないと思っています。僕の行為が『名声』を得るための、不特定多数の人から感謝されるためのエゴだとあなたが捉えるのならばそれでも構いません。僕はどちらにしてもあなたを警察に引き渡します。ただできればこのスマートフォンはあなたの手から警察に出してほしい。僕はあなたに出来れば本当笑顔を見せてほしいと思っています。僕と一緒にいて見せてくれたえくぼは嘘ではないと信じたいです」

「あなたって本当によく分からない人」

 美月は言ってスマートフォンを耕司の手から取り上げるとベンチから立ち上がった。

「私を警察に突き出すんでしょう」

「はい。引き渡します」

「私が逃げるとは思わないの」

「逃げるくらいなら、ここに来てこんな話しませんよね」

「あなたの中には性悪説って言葉はないの?頭の中がお花畑でできているのね」

 美月は一度だけ前髪を掻き上げると同じく立ち上がった耕司を下から覗き込むように見つめてため息を付いた。

「あなたは彼に似ていると思ったけど全然違うわ。少なくとも光がある。一生涯私の言葉で苦しめてやろうと思ったのに、肩透かしを食らっちゃったわね」

 そのまま二人は沈黙のまま歩き出した。美月はいつかのように耕司の車の助手席に乗り目の前に広がる闇夜に顔を向けていた。警察署に着いてから耕司は自分の名前と共に直近自分の関わった事件の概要と共に、そのとき傍にいた女性が見つかったと言って警察官に話を通した。美月はそのまま建物の奥へと連れて行かれ、耕司も別室に案内されて話を聞かれたが、彼らが再び出口で待ち合わせて帰ることはなかった。

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