第28話 彼女の過去。映らない自分

 美月と呼ばれた女は僅かに目を瞬いて生唾を呑み込んだ様子だった。驚きを何とか隠そうと努めているようにも見えた。

「多分あなたは僕からの連絡を受け取って幾分か警戒したはずです。僕が個人的にあなたを脅しに来ているのか、それとも警察に協力してあなたを陥れようとしているのか。無視することだってできたはずだ。それなのに一人でやって来た。もしかしたら見えないところに誰かいるのかもしれないけれど、でも僕はあなたが一人でやって来たという確信めいたものがあります」

「……」

「この封筒の中には個人名と住所、電話番号の羅列された表と共に書きかけの小説が入っている。正確には小説の続きです。見たところあなたは個人情報にも確かに目を走らせていたみたいだけど、原稿を見た瞬間、表には目もくれなかった。あなたは以前どこかでこの原稿の前の部分、脇田壮二郎の書きかけの原稿を読んだことがあるんじゃないですか」

 相手はコピー用紙に目をやるだけで、その横顔からは何も情報を受け取れなかった。

「僕は警察から聞いてあなたのことを多少なりとも知っています。それでもどうして僕なのか、よく理解できなかった。他にもたくさんの人間がいる中でどうして僕がそこまであなたの目を惹いたのかが疑問でした。それに脇田壮二郎氏から見せてもらった、いや正確に言うと偶然の事故みたいなもので僕が勝手に読んだのですが、あの作品の状況がすごく僕たちの状況に似通っていることが気に掛かっていました。だってそうでしょう。もし僕のことを騙してあなたの虜にした上で仲間に引きずり込みたいのなら、あなたはただ僕を好きになったと告げればいいだけで、あなたの彼氏が暴力を振るう設定にする必要はなかったはずです。もちろん僕がどれだけあなたに入れあげているのかを確認する意図もあったかもしれませんが。だからきっとあなたはわざと小説と同じ状況下を作り出すことで見えない誰かにアピールしているんだとそう思いました。あなたは脇田壮二郎氏に自分の存在を主張していたのではありませんか。僕という人間を通して」

「言っていることがよく分からないわ」

「あなたはあの小説になぞらえて僕があなたの虜になるかどうか、その上で脇田氏の個人情報を運んでくるかどうか賭けていたんじゃないですか」

「妙なことを言うのね」

「その原稿を見てあなたがひどく驚いているのがその証拠です。あなたは確実に過去にこの原稿の前半部分を読んだことがあるはずだ」

「仮に読んでいたとしてそれで私は何か悪いことをしたのかしら」

「この件に関しては今のところは何も。僕がちょっと翻弄されたぐらいのものです」

「……」

「僕はこの頭の傷もあなたが仕向けたものではないと思っています。僕は頭を殴られて意識を手放す前に確かにあなたの声を聞きました。僕の名前を読んで必死に助けようとしてくれているように思えました。きっと僕を殴ったのはあなたの所属している組織の別の人間だったのでしょう。ただ何週間か前に湖畔沿いで男性が浮かんでいたあの事件はあなたに関りがあったと思っています。実際に手を下したのかどうかは分かりませんが、少なくともあなたはあの日あの現場にいた。だから僕との約束の時間に来れなくなったんだ。ほとぼりが冷めるまでは動けなかったし、亡くなった男性と組織の関係性を一見して分からなくするには、それなりの時間が掛かった。だから僕とも連絡が取れなかった」

「恋愛小説じゃなくて、推理作家にでも転向するの?」

「あくまでこれは僕の推測です。正直なところを言うと仮にそうだったとして、まだ僕には分からないことがあるんです。脇田壮二郎氏は、僕とあなたの関係について全く知りません。知り得るはずがありません。僕と彼とは利用者と利用事業所の職員という関係しかないし、そこまで個人的な話をする仲ではないのですから。逆もまた然りで、僕が彼の作品を読んでいたこともあなたは知り得なかったはずだ。あれは本当に僕の凡ミスのせいで生まれた機会でしたし、仮に原稿を手にしたところで僕が読むかどうかは分からない。だからあなたが脇田壮二郎氏に自分の存在が近くにあることをアピールすることも正確に言えばできるはずはない。なのにどうしてそこまであの作品と脇田壮二郎氏と僕に固執するんだろう、と」

「それを知ってどうするの」

「分かりません。ただ個人的に興味があるのと、何故だかその理由を知ることで、あなたの本当の意味での笑顔が取り戻せるような気がしたから」

「本当の意味での笑顔?」

「僕にも言っていてよく分かりません」

 美月は視線を原稿に落とし、それから遠くを見つめ、再び紙面に目をやると急に耕司の方へ向き直った。

「あなたが余りにもあの人に似ていたから」

「あの人?」

 美月はここで息を大きく吐き出してから視線を耕司から外した。

「最初は別にあなたを巻き込む気はなかった。新しい人間を探してはいたけど」

 ここで人間とは組織の末端である「情報屋」のことであろう。耕司は細かい注釈は求めずに相手の言葉を待った。

「前の人間は段々上からの押さえが効かなくなってきてた。情報を提供する見返りに多額の現金を要求していたのよ。組織としては必要のない存在になりつつあって私にも換えの人間を用意するよう指示が回ってきた。もちろんこの役割は私一人ではないんだけど、私はそこそこ信用されていて力も持っているのよ」

 女は別段得意げでもなさそうで淡々と語っている。

「それと同時に別の指示も来ていた。元よりいる人間から脇田壮二郎が東京での住まいを残したままにこちらにやって来て第二の人生を送ろうとしているという情報が来たの。脇田壮二郎と言えば総資産数十億は下らないと言われている人気作家。そんな人物が身近にいて獲物にするには最適だ、組織はそう考えたみたいね。それで一般的な個人情報の他に、とりわけ脇田壮二郎の情報を手に入れやすい人間を探す必要があった」

「だから僕、ですか」

「半分合っていて、半分違うわ」

「?」

「私たちも一応プロだからある程度は近い位置の人間が必要ではあっても、それは必ずしも内部にかなり入り込んだ人間でなくてもいいのよ。仮に脇田氏にかなり近い位置にいる割に組織の人間だとばれるような人材と、かなり遠くでも素性を上手く誤魔化せる人間がいるとしたら私たちは後者を選ぶわ」

「じゃあどうして僕を?」

「だからさっきも言ったでしょう。あなたがあまりにも彼に似ていたからよ」

 女は己にだけにしか見えない幻影を追っているようだった。その目には自分は映っていない。

「あの日、私が叔母だと偽った女性が救急車で運ばれた日、私もあの土手沿いにいたのよ。正確には土手の下に。あなたたちは気付いていなかったかもしれないけど、救急車のサイレンの音が響いて辺りの住人が集まってきてた。もちろん車しか通れない土手の上まで行って見物する人はいなかったけれど、救助にあたった人間の顔は確認できた。そのときに見たの、あなたの乗ってきた公用車に書かれた企業名を。すぐにピンときたわ。脇田壮二郎に関連する会社だって。私たちの情報網はかなり凄いのよ。少なくとも脇田氏に関わっている企業名くらいならすぐに出てくる」

 個人情報保護法という法律がありながら、何故こんなにも容易く個人情報が漏れてしまうのか。人の口に戸は立てられぬということか、それとも組織には一際特別な情報網があるのか。耕司はこの話に慄いた。

「でもあの時点では何か利用できる機会があればとしか考えていなかった。公用車に乗り込むのがどちらの男性か確認して、あなただと分かって私は内心ほっとしたわ。私の今までの経験でいくともう一人の男性はとても一筋縄では行かない気がしたから」

 つまり自分は詐欺師から見てかなり騙しやすい人物ということだろう。確かに河野は騙しやすい人物の対極にいる人間とは思うが、はっきり言われるとかなりショックだ。だが出来る限りそれを顔には出さないように努めて耳を傾ける。

「あれから私はあなたのことを多少調べた。それでこれからどうしようかと考えていたとき、偶然あなたをあの喫茶店で見つけた。私もあそこにはよく行くの。ケーキセットのチョコレートケーキが大好きだというのも本当のこと。チョコレートケーキを食べながら、少しだけあなたのことを観察させてもらった。熱心に読書している姿が印象的で、あなたがトイレに行ったときに机の上を調べさせてもらったの。村山はるかの小説と書きかけの原稿。それを見た瞬間、私の中にある考えが思いついた。私はゲームをすることにしたの。私の中だけの頭脳ゲーム」

「ゲーム?」

「そう。あなたがあの小説に準えて私に夢中になって、その上で脇田壮二郎の情報を私の元に運んでくるかどうかを試すゲーム」

「……」

「あなたの言う通り私は過去に脇田壮二郎のあの原稿を読んだことがあった。私は十年ほど前、一度だけ脇田壮二郎に接触したことがあるの。あのときはまだ何かの組織に所属したりせず個人として動いていて、ターゲットとして彼に目を付けたのよ。あなたも知っている通り脇田壮二郎は著名な割にメディアへの顔出しはほぼしていなかったから、私も最初は彼のことを一般男性として狙っていた。彼は自分のことに関してあまりできているように見えず女性の陰がなかったのと、住んでいる建物がとても立派で見るからに資産家だと分かったから。でも調べてすぐに彼がミステリー作家として名高い脇田壮二郎だと気付いた。私こう見えても文学作品はよく読むの。現実と違って小説の中では夢を見られるから」

 そこで美月はまた遠くにうっとりとした眼差しを向けた。

「私は上手く取り入って彼の家で家政婦として働くことに成功した。でもそれだけだった」

「それだけ?」

「彼は私の虜になることはなかった。というよりも私に心を開いてはくれなかった。彼の目に私は映っていなかったのよ」

 ひどく腹立たしいような、それでいて悲しそうな表情であった。

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