第22話そして、視界は暗闇と化す
このように耕司が三度の食事より小説三昧の日々に戻ろうかとしていた週末、夜道で
「耕司さん」
聞き覚えのある声がして振り返るとこの二週間近く探し求めていた姿があった。
「美鶴さん?」
相手は嬉しそうにこちらへ駆け寄ってくると
「良かった。もう忘れられちゃったのかと思っていました」
と言った。
耕司は必死に記憶の片隅に追いやろうとしていた姿が、あろうことか脳内の棚にし舞い込んで正にその引き出しを閉めようとしている最中に眼前に現れたので、その後の動きをどうしたものか、取っ手に手を掛けたまま立ち尽くしてしまった。
忘れるも何も、あのような衝撃的な別れ方をしてその記憶がなくなることなどあり得ないと思うのだが、寄家はそう頑なに思い込んでいたらしく安堵したように胸を撫で下ろしている。
「耕司さん、怒ってらっしゃいますよね」
「怒る?」
「はい。あの夜からずっと連絡が取れなくなったこと」
「怒ってはいませんがずっと心配していました。何かあったんじゃないかって。部屋に閉じ込められているんじゃないか、暴力を振るわれたりしているんじゃないかって。大丈夫でしたか」
美鶴はそれを聞いて目を瞬いてわずかに驚いた表情を浮かべたが、すぐにえくぼを浮かべると
「あなたはやっぱり私の思った通りの人だわ」
と言って愛しそうに目を細めた。
「心配掛けてごめんなさい。大丈夫、耕司さんが心配してくださるような出来事は起きていませんから。ただあの日お風呂に入っていた叔母の調子が急に悪くなってしまって。病院に連れていかなくてはならない上に、スマホがお風呂で水没して使えなくなってしまったんです」
「そんなことがあったんですか!それこそ大丈夫でしたか。叔母さんの容態はどうなんでしょう」
「おかげさまで一命をとりとめて今は入院中です」
「そうですか。それは良かった。いや、良かったと言っていいのか分からないですが」
「はい、良かったです」
美鶴は優しく微笑んでこちらを見つめている。
「それで彼氏さんは?」
「あの話はもういいんです」
「もういい?」
「ええ。彼とは別れました」
「え?」
展開があまりに早すぎて引き出しの中にあるフォルダの整理ができない。美鶴はそのまま耕司の腕に自分の腕を絡ませてきて
「どこか話のできる場所に行きましょう」
と誘った。
頭の中で
「二度とその女に会うたらあきません」
河野の声が響いたが、引っ張られるままにその後に続いて気付けば公園のベンチに腰掛けていた。隣に座る美鶴は涼しげな顔で目の先にある噴水を見つめている。
「あの、美鶴さん、彼氏さんと別れたというのは」
「だから別れたんです」
説明になっていない言葉を繰り返す。
「でも確か彼氏さんは美鶴さんに暴力を振るう性格でしたよね。どうやって別れたんですか」
「話し合いをしたんです」
「話し合い?」
「ええ。私がもう彼のことを好きではないことを伝えました」
「そんなことをして大丈夫だったんですか。叩かれたりとかは」
慌てて相手の顔や、衣服から覗く肌を見たが特に痣らしきものは見当たらなかった。
「それは……。少しは」
そう言ってうっすら笑うと自分の胸元を押さえて耕司の顔を見つめた。
「見ます?」
見えない箇所に痣を付けられたということだろうが、位置が位置だけにかぶりを振る。美鶴は少しだけ物足りなそうな顔をしてから耕司の肩に凭れ掛かった。左腕に相手の胸の膨らみが当たり、まるで麻酔でも打たれたように一瞬だけ体が痺れてどこを見れば良いのか焦ってしまう。
「ねえ、耕司さん。今日は来てくれるでしょう?」
声に反応して相手を見つめると艶っぽい瞳がこちらを捉えている。どこにとは言っていないが、美鶴の部屋であることは間違いないだろう。
「だって私が彼と別れたら会ってくれるって言ったじゃありませんか」
そう言って、彼女は再び耕司の肩に寄りかかった。花の香りが鼻孔をくすぐる。美鶴はそのまま耕司の手を取って自分の胸元に当てようとした。
「美鶴さん、ちょっと待ってください」
耕司は慌てて相手の体を引き剥がした。その対応に美鶴は明らかに驚いている様子を見せた。
「どうして?」
「どうしてって」
「私のことが嫌い?」
「そうじゃありません」
「じゃあどうして」
理解に苦しむとでも言いたげに訝しげな顔をしている。
「ごめんなさい。美鶴さんを嫌いとかそういうわけではないです。ただ状況に心が付いていかない」
「ふざけないで!」
急に大きな声を出されて驚いて背筋を伸ばす。
「人の心を弄ばないで!ふざけないでよ」
その目は激しい怒りに燃えている。
耕司はなぜ自分が怒られているのか訳が分からず混乱した。身の縮むようなお願い事をされ、翻弄されて、更には全く連絡が取れなくなってかなり心配したというのに、まるで自分が相手の気持ちを踏みにじっているかのような錯覚に陥る。
「美鶴さん」
相手は我に返った様子で
「ごめんなさい」
自分の発した言葉に自分自身が驚いているかのように短く素早く謝った。再び耕司の目の奥を覗き込んで、難解なパズルにでも挑むように必死に考えを廻らせる様子を見せる。
「どうしたらあなたの心を手に入れることができるの?」
呟くように言う姿は切なそうにも見え、苦しそうにも見えた。耕司は思っている以上に相手が自分を切望しているのを感じて言葉を失う。未だかつてこれほどまでに異性に求められたことはなかった。過去に読んだ恋愛小説を参照するにしろ、それは自分以外の誰かのことであって、常に自身のことではなかった。こういうとき恐らく村山はるか作品の男性主人公ならば、そっと女性を抱き締めて自身の愛を考えも及ばないような例えを使って表現するのであろうが、耕司は自分にそれは出来ないことを理解していたし、今それをすべきでないことも直感で分かっていた。
美鶴はこの男からはこれ以上求めた言葉を引き出せないと感じたのであろう。わずかに身を引いた。
「私と連絡が取れなくなって少しは寂しいと思ってくれましたか」
「寂しいというより、不安でした。美鶴さんの笑顔が消えてなくなるのではないかと心配でした」
警察に行って相談するほどに心配したのだと告げれば、おそらく河野が見せた以上の驚愕の表情を浮かべられる気がしてそれはやめておいた。
「私遅かったんですよね。もう少し早く連絡していたら」
それから体ごとこちらへ向き直った。
「山脇さん、もう一度最初からやり直すことはできますか」
元より何も始まっていないのにおかしなことをいうものだ。それよりも再び氏に戻った呼び名が二人の適切な距離感を示しているような気がしてならなかった。この問いかけに何と返すべきか思案して無言のまま考えを纏めていると、美鶴は急に声のトーンを変えて
「そういえば山脇さん、この二週間はどのように過ごしていらっしゃったんですか」
尋ねた。
思い返してみれば警察に相談に行って変人扱いされたことと、美鶴のことを必死に忘れようとしたことばかりが鮮明に甦って、このどちらも話題にすべきではない気がした。
「そういえばこの間美鶴さんの……」
言いかけて自分も呼び名を名字へ戻すべきか一瞬躊躇ったが、構わずこのままの呼び方で通すことにした。
「美鶴さんの叔母さんが救急車で運ばれたときに、あ、これは、俺が関わったやつのことです。その救急対応の日に一緒に救助に当たってくれた方いたんですが、その人とたまたま再会してお話ししたんです」
「へえ」
相手の反応が思いの外薄いことに多少疑問を感じたがそのまま続ける。
「その人何だかすごく悩んでいらっしゃったみたいで、でも俺も美鶴さんと連絡がとれなくなってこれからのことを考えていたときだったんで、お互い色々話して、互いの悩みを解消したというか」
美鶴の表情を盗み見ると別段興味ないわけでもなさそうだ。ただその表情は今まで見たことのある話の中身に期待を寄せ暗に先を促すものとは異なっていた。どちらかと言えば、気にはなるが先は聞きたくない、そのようにも受け取れた。この表情に一番的確な言葉を当てるならば。耕司の頭に「警戒」の文字がよぎった。
「あの、美鶴さんはどうやって俺のことを知ったんですか」
「え?」
相手は探るような眼差しを向けている。
「その、さっき言った叔母さんを一緒に助けた方がおっしゃるには、今は個人情報の取り扱いが厳しいので救急隊員が通報者について教えることはないだろうと。どこで俺がその場にいたことを知られたんでしょう」
「それは叔母から直接に」
「叔母さんから」
「はい」
「実を言うと叔母さんを助けたのは正確には俺じゃないんですよ。確かにその場に最初から居合わせましたが、後から来たその方が的確な指示を与えてくれてそのおかげで助けることができたんです。でも彼にはお礼に行かれなかったみたいなので。あ、いや、お礼がほしかったとおっしゃっていたわけではないです。ただメインで助けたわけでもない俺のほうが丁重に扱われたようなので気になって。その辺りのことは叔母さんは何かおっしゃっていませんでしたか」
「……確かに叔母は数人の人が助けてくれたように言っていましたが、あのときは叔母もああいう状況でしたし、正確な情報が聞き出せなくて。正確に分かったのが山脇さんだけだったんです」
「そうでしたか」
相手は更に続きがあると思ったのかこちらの出方を待っているようだった。耕司は自分でも分からないうちに急にそわそわした心持になって慌てたように言葉を紡いだ。
「そういえば彼に笑われてしまいました。俺警察に相談しちゃって」
敢えて隠しておこうと思っていた事実が口から付いて出る。人間は窮地に立たされると訳も分からないことを喋るものだ、というのはテレビのドッキリ番組でよくやっている。実際に自分が経験すると納得だ。
どれくらい引いた顔をしているのだろうと、意を決して相手の方へ顔を向けて、耕司は息を呑んだ。その顔には自分に対する呆れや侮蔑ではなく、明らかに先ほど頭に浮かんだ文字そのものが浮かんでいた。
「あ、えっと、俺美鶴さんのことがあんまり心配で、美鶴さんが監禁されて暴力受けているんじゃないかと思ったら居ても立っても居られなくて。でもさすがに連絡取れなくなった翌日に行ったんで、相手にもしてもらえなかったし、彼もその話をしたら呆れた様子でした」
一息で話して再び横を見ると相手は口元を両手で押さえて笑いを堪えているようだったが、耐え切れなくなった様子で大笑いしだした。一頻り笑って眼尻に溜まった涙を指先で拭ってから
「やっぱりあなたってよく分からない」
と言って観察するようにこちらに向き直った。
「確かにあの日まであなたは」
その後は続かなかった。
「やっぱり笑っちゃいますよね。もう一つ笑い話で言うと、俺最近新しい小説を読んでて。その中身が本当俺のことみたいなんですよ。美鶴さんとの出会い方とか、美鶴さんの状況とか、微妙に似通ってて。その作品途中で切れてたんですよ。作家の先生が続きを書いてくれたから先は読めるけど、それまでが分からなくて。だから作品の途中主人公が誰かに襲われるシーンで、俺ももしかしたら誰かに頭殴られて襲われたりして、なんて」
「面白いこと考えるんですね」
「でしょう。小説と同じ展開に進んだりするわけないのに」
「そんなに似ているんですか」
「ええ。俺が叔母さんを助けたことがきっかけで美鶴さんと出会うとか、美鶴さんの恋人が暴力を振るう人だとか。でも美鶴さんと連絡が取れなくなるという展開はありませんでしたけど」
「その話の先に山脇さんと私が恋人になるという設定はないんですか」
言う表情を見つめたが、特段誘惑めいた発言ではなさそうだった。素朴な疑問を口にしたようだ。
「だからその先はまだ読んでいないから分からないんです。それにミステリーなのでそういう展開が待っているかどうか。今はあの小説でいくとどの辺りなんだろう。女性の夫が水死するという展開はあったけど」
「へえ」
「そう言えばこの間ニュースで湖畔に男性の水死体が浮かんでいたというのがありましたね。まさかと思いますけど、美鶴さん、あの水死体と関係ありませんよね」
殊更冗談めかして言ったつもりだったが、相手は笑っていなかった。その表情からは全ての感情が抜け落ちている。真っ暗な空洞のような瞳でこちらを捉えるとその中に吸い込まれてしまうような感覚になった。
「そうだったとしたら主人公は次にどういう行動を選ぶのかしら」
耕司は急に見知らぬ女に対峙しているような気持ちになった。あれほどまでにメールをやり取りしてお互いの好きなものを語り合ったり、恋人に関する相談事まで受けたりしていたのに、初めて出会った女性と手探りで会話しているような心持であった。
「美鶴さん」
耕司は体ごと女に向き直った。
「先ほどの問いの答えを返してもいいでしょうか」
相手は片眉を上げて応じる。
「正直言うと僕はあなたに一つだけ嘘を付いていたことがあります。嘘というよりも率先して肯定していなかったという意味ですが。僕はあなたが考えるような恋愛経験はないです。異性からこんな風に求められたこともなかったし、逆に僕から女性に対して熱烈にアプローチした経験もありません。だからこんな台詞も初めて言いますし、こんな台詞が先なのもおかしな話なのですが」
長たらしい前置きにも拘わらず相手は黙って聞いていた。
「あなたとはこの先お会いすることはありません」
「そうですか」
相手は特に感情の籠っていない声色で答えた。それから
「でも」
少しだけ視線を下げて地面を見つめる。
「こんなお別れの仕方は嫌だわ」
顔を上げて耕司を真っすぐに見つめた。
「さいごに一緒に歩いて帰るくらいいいでしょう。私の家まで送ってくださらない、耕司さん」
別段それを断る理由も見当たらなかった。
「その前に一本個人的な電話を掛けてきたのですが、いいですか」
「ええどうぞ」
美鶴はスマートフォンを鞄から取り出して耕司を置いて遠くで電話を掛けていた。それからすぐに戻ってくると
「ごめんなさい、お待たせしました」
と言って耕司の腕に自分の腕を絡ませて歩き出した。まるでそれを拒むことは許さないといった様子だったので、組まれたままの腕をされるに任して後からついて行く。どこまで歩いたのか人気のない道に出てきたので
「美鶴さんお家はどの辺りですか」
尋ねる。
「もうすぐです」
美鶴がそう言って急に腕から手を離した途端、後頭部に強い衝撃を受けて耕司は前のめりに倒れ、更にもう一度頭部に衝撃を受けてそのまま意識を手放した。
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