第20話あんた、アホちゃうかと罵倒された件

 先程よりも肩の力が抜けたようで耕司は心の底からほっとした。それからこれほどまでに疲れ切っていた相手に自分の話をしても良いかどうか逡巡する。

「あの、こちらこそすみません。実は河野さんとただ単に話してみたかったというのは実は半分本当で、半分嘘なんです」

 相手はよく理解できていない様子で耕司の目を見つめている。耕司は意を決した。

「実は河野さんにご相談したいことがあって」

「俺に相談?」

「はい」

 耕司はこれまであった出来事を、警察署で言ったのとは逆に、できる限り詳細に伝えた。寄家美鶴と名乗る女性が人助けのお礼にやって来たこと。偶然が重なり彼女と親しくなったこと。その上で今付き合っている恋人に暴力を振るわれ困っており、助けるために新しい彼女の想い人のふりをしてほしいと頼まれたこと。しかしその当日美鶴も彼氏も現れず、以来全く連絡が取れなくなったこと、などを伝えた。

 それまで黙って聞いていた河野は思案するように人差し指と親指で自分の下唇を引っ張っている。

「河野さんのところにはいらっしゃいませんでしたか、美鶴さん」

「いや、俺んのとこには誰も」

「そうですか」

 では美鶴は自分のところにだけお礼の手土産を持ってきたということだろうか。耕司は何だか申し訳ないような気がしてきた。と、

「それにしても、その寄家さんという女性はどうやって山脇さんのことを知ったんでしょうか」

「どうやって、ですか?」

「はい」

「それは救急搬送した救急隊員さんとか、病院からじゃないんですか」

「それはありえません」

 河野ははっきりと言い切った。

「昔はどうか知りませんが今は個人情報には殊更うるさいご時世です。人助けをしたは良いがその場に居合わせたことを口外してほしくない人も中にはいるでしょう。ただ単に自分の名前をむやみに人に知られたないって人もいると思いますが。とにかく山脇さん個人の意思を確認せずに救急隊員が勝手にあなたの情報を相手に伝えるとは思えません」

「だとしたら運ばれた女性から知ったとか?」

「確かにその可能性もありますが、山脇さんにしろ、俺にしろ、救急隊員の聞き取りに応じた時にはすでにあの女性は救急車の中に運び込まれてた気がするんですが。外の声が中に聞こえるんかどうか」

「あるいは僕の乗っていた公用車についている会社名を見た、とか?」

「一番可能性の高いのはおっしゃる場合でしょうが、あの人一回気も失ってるし、そんな余裕があったんやろか」

 未だに不可解な表情をしている河野は、ここで顔を上げて真っ直ぐ耕司を見つめた。

「それで俺に相談したいこと言うんは?」

「ですから、これからどうしたら良いかと思いまして」

「どうする?」

「はい。美鶴さんと連絡が取れなくなって、これからどうしたら良いかと考えあぐねているんです」

 河野は唖然としたように口を半開きにしてから、軽く咳ばらいをする。

「あの、山脇さん。それはどういう方向性の相談でしょうか。彼女と連絡をつけるにはどうしたら良えんか、なのか。それとも彼女を忘れるにはどうしたら良えんか、なのか」

「それは勿論彼女を助けるにはどうしたら良いか、です」

 相手は明らかに困惑した様子で首を二、三度傾げてから、右手の中指と人差し指で自分の顎を支えたまま斜めにこちらを見やった。

「あの、山脇さん、助けるいうんは」

「ですから、彼女があの日来なかったのは彼氏さんにこのことがばれて、監禁されているからだと思うんです」

「監禁て。ちょっと考えすぎちゃいますか。ちなみに彼女のことはどれくらい待ってはったんです」

「二時間くらいでしょうか」

「二時間!」

 河野はここで天井を仰ぎ見てそれから再び首を傾げた。

「山脇さん、彼女が仮に監禁されているとしてそれは自業自得だとは思いませんか」

「自業自得?」

「そうです。自分という男がいながら別の男性を好きになった、そう告げられてのこのこその男に会いに来るものでしょうか。会ったところで自分の敗北が決まると分かってるのに。普段から暴力を振るう男性ならその辺のことは彼女も織り込み済みだったと思いますが」

「でも現に」

「そもそもおかしいとは思いませんか。日常的に暴力を振るう男が恋人なのに、なぜ山脇さんとそんなに頻回に会えるんです。恋人以外の男と密会してることがばれたらどうなるか。普通だったら怯えそうなもんです」

「まあ、確かに」

「でしょう。でも彼女は執拗にあなたに接触してきてる。その上向こうからは連絡してきておいて、こちらには電話番号も知らせてない。まるで浮気の証拠を残さないようにしてるみたいや」

 言われてみれば美鶴に何かに怯えているような様子はかけらもなかった。

「山脇さんは彼女から暴力を受けた跡、例えば痣とかを見せられたんですか」

「いえ、それは」

 河野は呆れたようにため息をついた。

「確かに河野さんのおっしゃることには一理ありますが、でも彼女が本当に恋人から暴力を受けていたことは完全には否定できないじゃないですか。万一にも今まさに監禁されていて、毎日のように殴られているかもしれないと思うと俺は助けてあげなくちゃって気になるんです」

「山脇さん」

「警察も相手にしてくれません。だから俺の手で何とかしなくちゃいけないと思うんです」

「ちょ、ちょっと待ってください。山脇さん、警察に相談したんですか!」

「はい。事はできるだけ早いほうが良いと思い、二回相談しましたがあしらわれました」

「そりゃそやろ」

 河野は殊更小さな声で呟く。

「山脇さん、ええですか。ちょっと落ち着いてください。彼女は確かにあんたに好意を抱いていたんか知らん。せやけど用がなくなって連絡してこんようになったとは考えられませんか。そもそも山脇さんは彼女とどこまでいったんです?」

「どこまでとは?」

「せやから大人の関係です」

 河野が言いにくそうに言葉を選んでいる。耕司は相手の言いたいことを察して赤面した。

「そんないかがわしい関係ではありません」

「いかがわしいって普通やろ」

「何か普通か分かりませんか、彼女とは別段お付き合いをしているわけではありません」

「付きおうてもないのにそこまでしはるんですか」

 二股を掛けられそうになって、その上振られたのに、まだ未練がましく信用しようとしている、これは施しようのない馬鹿だとでも思われているのかもしれない。でも耕司は引くに引けなくなって続けた。

「分かっています。多分他の人からしたら、おかしなことを言う奴だって思われていることも分かっているんです。でも俺はあの時の彼女の言葉を信じたい。万一全部嘘だったとして、それで彼女の笑顔が消えないなら利用されてもいいです。俺にとっては彼女が笑って過ごせる日々が消えないことが何より最優先なんです」

 相手はここで殴られたように衝撃を受けた顔をした。それから大きく息を吸い込んで吐き出すと身を乗り出して耕司に本当の意味で向き直った。

「山脇さん、誤解を恐れず言わせていただきます。正直山脇さんに嫌われるんは嫌やけどしゃあない。俺はさっきまで、こいつ何言うてんねや、アホちゃうか、と思ってました」

「はっきり言いますね」

「せやから、嫌われるのを覚悟で言うと言ってます。俺はさっきまではそう思てた。そやけどあんたの今の台詞を聞いてはっきり思いました」

 河野はここで間を空けた。真剣な表情でこちらの目の奥を覗き込んでくる。

「その女はやめとき。山脇さんから言い寄ってこういう結末になったならいざ知らず、見ず知らずの、関係もそれほど深まってない男にそんなけったいな頼み事する女、あんたには相応しない。そんな女にあんたみたいないい男はもったいない」

「!」

「ええか、あんたのためや。その女とはもう二度と会わんとき」

 二人はそのまま会話なく食事を済ませると互いに会計を済ませて店の外へ出た。最初と同じようによそよそしい挨拶をして別れる。

 ただ耕司は河野が自分を真に思いやったからこそ、あのような発言をしたのだろう、そう思った。それは二人で初老の女性を助けた折に、河野がやたらときつい言葉で水分摂取を促したときの口調によく似ていた。あの人の本当の優しさはこのきつい言葉の裏にあるのかもしれない。

 河野と別れてから耕司は少しだけ目が覚めたような気がしてコンビニエンスストアに向かった。缶酎ハイを二本買って、これを飲んだら全て忘れてしまおう、そう思った。

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