第19話老婦人救助の河野青年との再会

 その週の土曜日はどうしても家にいたくなくて当てもなくふらふらと街を歩いてから、夕食を外で取ろうか考えあぐねていると、通りの向こうから見覚えのある顔がこちらへやって来る。

「河野さん?」

 自然と呼び止めるような声が口から洩れる。応じるように相手がこちらを向いて足を止めた。心当たりのない様子で眉間に皺を寄せている。

「僕山脇です」

「山脇さん」

「ほら、土手沿いで熱中症の女性を……」

「……ああ」

 河野はここでようやく思い出したらしく顔を少しだけ上に動かしてから頷いた。

「あの、良かったら、これから一緒にご飯に行きませんか」

「これからですか」

「はい。前に『陽だまり』に伺ったときにはお休みでいらっしゃったみたいで。少し話してみたいと思っていたんです」

 それは嘘ではなかった。緊急性の高いあの場面で臨機応変な対応を見せたこの青年のことが気になっていたし、女性に見せた横暴な言葉遣いと、自分に見せた礼儀正しい姿とが余りにかけ離れていたので、本当はどんな人なのだろうかと興味もあった。ただ、今は『陽だまり』へ訪れたときとは違い、美鶴の叔母である女性を共に助けたこの男性に単純に話を聞いてもらいたくなったのである。

 相手は少しだけ躊躇した様子を見せた。

「俺病み上がりなんで、飲むんはちょっと」

「僕アルコールを飲まなくても長居できる店知ってますから」

 耕司は多少強引に相手を説得するとそのまま近くの店へ連れて行った。魚料理がうまいとなかなか人気のある店である。店員に案内されて中に入ると出汁の良い香りがする。二人はともに煮魚定食を頼んでから先に運ばれてきた烏龍茶で乾杯をした。

 病み上がりと言っていた河野はこの間とは違い少し疲れた様子で椅子の背もたれに寄っかかっている。

「すみません。体調まだお悪いですか。俺が強引に誘ったから」

「いや、大丈夫です。正直言うと俺も独りでいたくない気分やったんで」

「そうですか」

 そう話す顔は憔悴しきっているようにも見えた。

 耕司は自分で誘っておきながらどう会話を繋ごうか思案して、こんなとき黒崎であったら相手を笑わせて話を引き出すことができるのに、といつもはおしゃべりで煙たく思う先輩の偉大さを思い知った。あらぬ方向から会話を膨らます術は残念ながら持ち合わせていないため、無難なところで二人共通の土手沿いの出来事を話題にする。

「あの時は本当にありがとうございました。河野さんのお陰であの女性を助けることができました」

 そう言った瞬間、相手の表情が凍り付いたように固まったので耕司は息を呑んだ。話しのきっかけを作るどころが沈黙を生み出してしまった。河野の反応が自分の予測とは全く異なっていたため、これ以上何を話題提供すればよいのか分からず口ごもる。

 河野は少しだけ震える手で烏龍茶の入ったグラスを手に取ると口につけた。

「あの人もほんまに助けて良かったんやろか」

「え?」

「助けられたくない、死にたいいう人も中にはおるやろし」

「そんなことはないでしょう。少なくともあの人の家族さんは感謝しておられますよ」

「どうやろか」

 自嘲気味に言う河野の顔が以前出会ったときの精細さを欠いていたので耕司は些か心配になってきた。

「河野さん、しっかりしてください。どうされたんですか」

「……すみません。俺何を言うてるんやろ」

「俺は構いません。でも病み上がりだし、やっぱり少し疲れていらっしゃるんですね」

 ここで会話を遮るように小鉢が運ばれてくる。二人は割り箸を手に取って少しだけ箸を進めた。

「俺あかんのです。いつもふとした瞬間に過去の忘れてしまいたい記憶が蘇って、無性に何かしていたくなる。でも本当に思い出したないときに限って病んでもうて。ずっと布団の中で頭ん中ぐるぐるして。そやから今日も一人歩いてました」

「良いんじゃないでしょうか」

「?」

「たまにはそういう風に悩みつくすことがあっても。関西人がいつも陽気にしているっているのはただのレッテルな気がします。悩んだときに笑って前を向こうっていうのは確かに一理あるけど、俺はそういうときほど周りが引くぐらい泣いちゃっても良いんじゃないかなと思うんです。そうじゃないとバランス崩れちゃう気がしません?」

「そうかもしれませんね」

 河野が納得したわけではないのは表情で分かっていたが、耕司はあえてそれに気付かぬふりで続ける。

「俺は河野さんが過去に抱えた忘れたい出来事が何なのか知りませんが、でも今の河野さんはその全てで成り立っているように思うんです」

 相手がグラスから顔を上げた。

「過去の出来事が、忘れてしまいたい失敗なのか、人からの裏切りなのか、その辺分かりませんが、とにかくその出来事を経験した河野さんだから、目の前の人を助ける選択をして、実際にそれで命拾いした人がいるんだから、俺はそこに良いとか悪いとかいう判断は除いても良いと思う。勿論人を殺すとか、自分が死ぬとか、そういう判断は絶対的に許されるものじゃないとは思うけど」

 ここで再び河野の顔が引き締まったので耕司は先を続けて言いか躊躇ったが、ここまで言っておいて引っ込められるものでもなかった。

「河野さんは今のままで良いんじゃないでしょうか。何事も結果は後から付いてくるというか。仮に相手が死にたかったとして、俺はそれを止めるのも正しい行為な気がしますが。さっきも言ったんですが、俺は基本的に人を傷つけるのと、自分を傷つけるのが一番いけないことだと思っています。だからそれ以外は相手が率先して傷つくことを望んでいたとして、それを止めるのは正しいと思っています」

 茫然とした様子でこちらを見つめている相手に、気分を害したのではないか、余計なことを言い過ぎたのではないか、と心臓が早鐘を打ち始める。しかし相手はふっと笑みを零して

「すみません、気を遣わせたみたいで」

 と謝罪した。

「あ、いや、気を遣ったとかではなくて、俺の信条なので特に謝られるようなことでは」

 ここで出来立ての湯気の立つ定食が運ばれてきたので、二人は再び沈黙した。しばらく無言で魚をつついていると

「すいませんでした。俺ばっか話してましたね」

 河野が以前と同じように丁寧に話し掛けてくる。

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