第11話自ら選んだ前歯数本折れる運命

仕事が終わって帰宅する時間になってもいつもとは違い寄家からメールは来ていなかった。あんなお願い事をしておいてメールもくれないのかと思う反面、まだ踏ん切りがつかないうちに連絡が来なくて良かったと思う自分も存在していて、耕司は自身でも心のうちが判然としなかった。

風呂から上がって携帯電話の画面を開くと通常とは違う時間帯に寄家からのメールが届いていて、慌てて時間を確認すると十五分ほど前の連絡であった。

「電話しても良いですか」

と簡潔な内容である。

「いいです」

などと送って相手に掛けさせるのも悪い気がしたがこちらからは番号を伝えているものの、肝心の相手の電話番号を聞いていない。承諾のメールを返すと、ずっと返信を待っていたのではないかと勘ぐるくらいの早さで携帯の着信音がなった。なぜか非通知の表示だが、耕司はこれは寄家からだという確信めいたものがあった。

「もしもし」

「山脇さん」

 果たして寄家である。

「こんな時間にごめんなさい」

「いえ、構いませんがどうなさいましたか」

「どうかしないと電話してはいけませんか」

頼りなげな声がしたので耕司は慌てた。

「いや、そういうわけじゃないですが、いつもメールでのやりとりだったので急に電話だから何かあったのかと」

「別に何か起きたわけじゃありません。ただ謝りたくて」

「謝る?」

「はい。山脇さんきっと怒ってらっしゃいますよね」

「怒る?」

予想の斜め上からの発言だったので少し混乱してくる。

「私あれから考えたんです。あんな失礼なお願いをしてしまって、山脇さん気分を害されたんじゃないかって」

「あ、いや、怒ったりはしていないですが、正直なところ困惑はしています」

「そうですよね」

「その、俺は人から殴られた経験とか本当なくて。もちろん親から殴られたことはありますけど、愛を持って叩かれることはあっても、殺意を持って殴られた経験は未だ人生で経験したことがないので正直びびってます。寄家さんに対して彼氏さんがどういう感情で手を挙げているのか、好きな人に手を挙げる感覚は俺にははっきり言って理解できないですが。でも絶対に俺に対して向けてくる拳は寄家さんに対するものとは違うと思うんですよね。ちなみに彼氏さんは、その、どんな暴力を振るってくるんでしょう」

そんなことを聞いたところで対処できるはずもないのに些細な情報でも今は仕入れたい。もしかしたら前歯の一本くらいは守れるかもしれない。

「彼は外面を取り繕うタイプなので、山脇さんに対して暴力を振るうことはないと思うのですが」

そう言われて、

「そうですか」

と納得できるほど事は単純ではないが、男に関する情報を唯一握っている彼女が言うのだから頼みとする他はない。

「山脇さん、もういいんです」

「え?」

「私山脇さんに甘えていたことに気付きました。山脇さんはとても優しくて、一緒にいると居心地が良くて。これがふりじゃなくて、本当だったらいいなって。でもそんなのいけません。叔母のことを助けていただいた上にこんな無茶なお願いをするなんてどうかしていました。ごめんなさい」

「あ、いや」

もう彼氏のふりをして、本物の恋人と対峙する必要はないということだろうか。

「寄家さんはそれで大丈夫なんですか」

「何とかします」

「何とかって」

自分が気にする必要のないことであるにも拘わらずつい気になってしまう。それよりももっと気になっていたのは先程の寄家の

「ふりじゃなくて、本当だったらいいな」

という台詞だった。

(ふりじゃなくて俺のことを本気で好きだったらいいなってことだろうか。それともふりじゃなくて俺が彼氏だったらいいなってことだろうか)

どちらとも取れる言い回しに幾度となく沸き上がる疑問が頭を占領していく。

(彼女は俺のことを好きなんだろうか)

 流してしまっても良い台詞かもしれない。でも確認せずにはいられなかった。

「あの、寄家さん。さっきふりじゃなくて本当だったらって言ったのはどういう意味なんでしょうか。間違っていたらすみません。寄家さんは俺のことを、その、少なからず想ってくださっていると捉えて良いですか」

 返事はなかった。妙な沈黙に耐え切れず、耕司は慌てたように言葉を繋げた。

「あの、やっぱり恋人のふりをするなら少し打ち解けた感じで話したほうがいいかもしれませんね」

「え?」

 自分でも何を血迷っているのかと思ったがもはや一度口から出た言葉を引っ込めることはできなかった。

「彼氏さんにとって一番大事なのは恋敵ではなくて寄家さんだと思うんです」

 昼間先輩社員から聞いた話を思い出しながら続ける。

「俺がどれだけ寄家さんへの思いや自分の優れたところを主張してみたところで彼の心を変えることはできないと思います。だから俺と一緒に現れた寄家さんがどれだけ心変わりしているか演じられるかが鍵だと思うんです」

「私が、ですか」

「はい。俺があなたの新しい彼氏のふりを演じるというより、あなたが俺のことを、その、どれだけ好きな演技ができるかが、彼氏さんを騙せるかどうかの一番の要だと思います」

 まるで恋愛上級者のようにつらつらと言葉を発しているが全て先輩の受け売りである。

「分かりました。私がどれだけ山脇さんのことを好きかアピールするってことですよね」

「え、ええ。まあそういうことです」

 改めて復唱されると恥ずかしくなってくる。耕司は軽く咳払いしてから

「でも直接会うわけですから俺も一発くらい殴られることは覚悟しておきます。できれば跡に残らない程度にしてもらえると助かりますが」

「でも本当にいいんですか」

「これで寄家さんが自由になれるお手伝いができるなら構いません」

「山脇さん……」

こうして耕司は自ら見も知らない男から殴られるかもしれない運命を引き寄せてしまったのである。

「じゃあ」

電話の向こう口から急に少しだけ色香を含んだような声が聞こえた。

「今度から私のことは美鶴って呼んでください」

「え?」

「だって親密な感じを出さないといけないんですよね。だったら名字で呼ぶのは違和感があります」

「確かに」

「じゃあ試しに呼んでみてください」

「今ですか」

「ほら早く」

我ながらとんでもない提案をしたものだと苦悩しながら、耕司は早鐘を打つ胸元に手を当てて

「美鶴」

と呼んだ。

「はい、耕司さん」

その瞬間、誰かに殴られたのとは異なる種類の衝撃を受けて耕司はよろめいた。

「やっぱり呼び捨ては勘弁してください。せめて美鶴さんにさせてください」

電話口で慌てているのが伝わったのだろう。相手がくすりと笑うのが聞こえた。

「私は呼び捨てでも全然構いませんよ」

「俺が構うんです」

「じゃあ耕司さんを呼ぶときも『さん』付けがいいですか。呼び捨てにしましょうか。試しに呼んでみるのはどうでしょう」

それから一際艶っぽい声で

「耕司」

言った。

「あ、いや…」

「それとも『ちゃん』付けとか。耕ちゃん」

「よ、寄家さん」

「もう、ほらまた苗字で呼んでいますよ」

「お、俺で遊ぶのはやめてください」

ここで相手は耐えきれなくなったという調子で噴き出した。

「だってあんまり」

後は続かなかった。それから真面目な声で

「それで呼び方はどうしますか」

「『さん』付けで充分です」

 何が充分なのか、おかわりを辞退する来客のような返事をする。

「分かりました。……また電話してもいいですか」

 二つ返事で答えると電話の向こうで相手がえくぼを見せて笑ったような気がした。

「じゃあまた。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 声が消えて代わりに通話の終了音が聞こえてからスマートフォンを耳から離した。まだ耳に美鶴の声が残っている。

「おやすみなさい」

 誰に言うともなく耕司は呟いた。

 そしてふと、もし彼女が恋人と真に別れることができたなら、こんな風に会話をして就寝の挨拶をすることが当たり前の日常になるのだろうかと思いを馳せた。同時に、万一そんな日常がやって来なかったとしても美鶴の顔からえくぼが消えてしまう可能性を消し去ることが出来るのならば、自分の顔面が青く腫れ上がるくらいは我慢しようなどと、この予想だにしない依頼を受けた折よりは気持ちを固めたのだった。

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