第9話私の彼氏になってください、ってマジ!?
次の週の日曜日は思っていたよりも早く訪れた。待ち合わせ場所にすでに来ていた寄家は若葉色の薄いロングスカートを履き、鞄を両手で持って立っていた。こちらに気付くと恥ずかしそうに下唇を噛んで照れ笑いをする。
「すみません、だいぶ待ちましたか」
「いいえ、今来たところです」
憧れの台詞だ。理想としては自分のほうが後者の台詞を取りたかったが。
電子メールでやりとりした好きな女の子の服装を意識してくれたのであろうか。真夏の青々とした緑に合わせたように、薄い緑色が目の端でふわりと舞っている。
「中に入りましょうか」
「はい」
ぐっと心を鷲掴みにされるような返事をしてから、寄家は二、三歩遅れて後ろから付いてくる。どのテーブル席にしようかと見回していると
「ねえ、あそこにしましょう」
外が見えるカウンター席を指差された。
「だってどんな顔しながら小説読んでるのかって、正面から見られてたら恥ずかしいです」
そんなことを言われたら余計に読書している表情を確認したくなってしまう。特に席に強い希望はなかったので、相手の意向に沿って窓際の位置に陣取ってから二人は約束通り寄家お薦めのケーキセットを頼んだ。ケーキが運ばれてくるまでに耕司は鞄から封筒を取り出すと隣に掛ける寄家に渡す。
「これって」
「俺の小説です」
彼女は驚いたような、期待していたような声を上げて封筒を手に取った。
「いいんですか」
耕司はそれに顔を縦に振って応えた。
寄家はそのまま封筒の中から原稿用紙を取り出すと大きく息を吸い込んだ。
「原稿用紙に書いてある文章なんて久しぶりに見た気がします。小学生以来」
「パソコンに打ち込んでもいいんですけど、手書きのほうが筆がのるというか」
相手はそれには答えず、原稿用紙を捲った。
途中で店員がケーキを運んできたがそれを意にも介さず読み耽っていた。耕司はすることもないので薦められたチョコレートケーキを口に運ぶ。なるほど、確かに濃厚なチョコレートは口に入れた瞬間にとろけて深煎りのコーヒーにはぴったりだ。ケーキを食べ終わって珈琲をおかわりしてから、自分も何かしようと愛読書村山はるかの新作を取り出して表紙を開くも、隣で自分の作品を読む女性の姿が気になって読書に集中できない。何頁か捲ってから文字が頭の中に入ってこないので、諦めて文章に目を走らす寄家の横顔を見つめた。原稿用紙を真剣に見つめる瞳、話の中身に連動してか長い睫毛が微かに揺れている。時折口唇を噛み締めて胸元に手を当てているのは胸の鼓動を押さえるためであろうか。と、彼女が急に原稿から目を離してコーヒーカップを手に取った。一口飲んでからこちらのテーブルに目を向ける。空になり片付けられた皿を確認してから
「ね、美味しかったでしょう」
「確かに濃厚で、珈琲とのバランスが絶妙でした」
寄家は耕司の回答に満足したらしく、自分もケーキにフォークをさして口に入れると顔を綻ばせた。うっすらえくぼが浮かぶ。
「私このまま読んでいても大丈夫ですか」
「はい」
「でも手持ち無沙汰じゃないです?」
「そんなことは」
慌てて先程閉じた本を開くも全てお見通しだと言わんばかりに寄家は笑ってみせた。そのままランチの時間も過ぎて午後のお茶の時間まで店内に居座ると、ようやく読み終わった寄家が長く息を吐き出してこちらを見つめた。
「凄いですね、山脇さん。素敵です」
この「素敵」は作品の中身に関するものなのか、それともその作品を書いた自分に対するものなのか。耕司は閉じた太ももの上に置いた手を膝のところまで滑らせてその勢いで頭を下げた。
「あの、この続きは」
「続きはまだ書けていないんです」
「続きが書けたらぜひ読ませてください!」
ここまで読ませておいて断る理由もなかった。耕司は相手の申し出を二つ返事で受けると、今日何杯目かの珈琲のおかわりをした。
程なくして長居した店から出ると
「少し歩きません?」
寄家が言った。しかし車で来ているため、店の駐車場を占有するわけにもいかない。耕司は考えあぐねて
「海に行きませんか」
と場所を変える提案をした。ここまで歩いてきていた寄家はこの提案を快諾して車の助手席に腰を下ろした。車内に普段とは違う花の香りがして左側を気にせずにはいられない。
海岸をしばらく歩いてから砂浜に腰を下ろすと寄家は再び
「素敵」
とうっとりした表情で前方を見つめている。
「山脇さんってきっと恋愛経験が豊富なんですね」
否定しようとするものの相手が自分の顔を覗き込むように見ているので息を呑んで返事をし損ねる。逆に経験が少ないから書けるのだとは言いづらい。
「私山脇さんに相談したいことがあるんですけど、いいですか」
「はあ。俺で良ければ」
唐突に言われて耕司は意識を元に戻して寄家に向き直った。彼女も体ごとこちらに向いている。
「私の彼氏になってくれませんか」
「は?え、え!?」
「彼氏のふりをしてほしいんです」
「あ、ああ。彼氏のふり」
頭の中で台詞を繰り返してから
「ちょっと何言ってるのか分からない」
人気のお笑い芸人のような台詞を発して相手を見つめる。寄家はといえば別段ふざけているわけでもなさそうだ。真剣な面持ちで言葉を繋げる。
「実は私お付き合いをしている男性がいて」
(いるんだ。そりゃそうだよな、これだけ可愛いんだから)
と心の中でぼやいていると
「でもその人、何かあると暴力を振るうんです。私彼と別れたくて。好きな人ができたから別れてほしいって言ったんです」
「それは余計に暴力を振るわれたんじゃ」
「いいえ。彼私の言葉をまるで信じていないみたいで。別れたい理由に嘘を付いていると思っているようなんです。前から暴力振るうのをやめてほしいって言っても、もうしないって泣きつかれるだけで困ってしまって」
「でも繰り返すんでしょう。きっぱり別れたほうがいいと思いますよ」
「分かってはいるんです。でも目の前で縋りつかれるとどうしても強く出れなくて」
「寄家さんは優しいから。だけど自分を守るためには言いたいことは言わないといけないこともあります」
相手の顔を正面から見つめると涙で潤んだ瞳に自分が映っている。
「助けてはもらえませんか」
「助けて差し上げたいのは山々ですが」
残念ながら耕司には彼女の期待するような恋愛経験値はないに等しい。特定の相手がいる女性を奪う演技をするなどハードルが高すぎるというものだ。にもかかわらず左手を両手で包み込むようにしっかりと握ったまま懇願され、耕司はつい
「分かりました」
と答えてしまった。
相手のほっとした表情を見るともはや
「やっぱりなかったことに!」
とは言えなくなってしまった。
自宅へ帰る道中気はそぞろ、玄関の扉も帰宅の挨拶さえせず通り過ぎると、いつものように母親が自分を呼んでいる。黙ったまま食卓のテーブルにつくと
「まだ仕事の失敗を引きずっているの。家に帰ったらもう忘れてしまいなさい」
心配そうに茶碗に白米を装う。夕食の味も分からないままに掻き込んで部屋に戻るとデスクの椅子に腰掛けた。
そもそもなぜあの時承諾してしまったのか。
暴力に訴える男に、
「彼女と別れてください」
などと言おうものならおそらく返り討ちに遭うに違いない。前歯一本、いや下手をしたら鼻の骨や肋骨を折られるかもしれない。一本で済めば良いが。
歯って折れたら再生しないよな、などと馬鹿なことを考えてスマートフォンで折れたときの対処法を調べる。
そもそもなぜ俺は格闘技を習っていなかったんだ。耕司はもはや変えようもない自身の過去さえ悔やんだ。友人達が競うように柔道だの、空手だのと通っている折、サッカークラブで常にベンチだった自分。好きなサッカーさえ不向きだったのだから、習っていたところで身に付いたとは思えないのだが、それでも防御を会得するだけ多少はましだったかもしれない。
「あー、何やってんだ俺は!」
夜間の大声にも関わらず今日は階下から母の怒鳴り声は聞こえなかった。
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