第5話笑顔悩殺少女と上司の愛しの君

翌日思ったより寝過ごしてしまってから、今日が休みで本当に良かったと思った。昨日夜中の四時過ぎまで原稿に読み耽っていたのだから仕方ないといえば仕方ない。

サ高住『陽だまり』の迷惑にならないよう、朝遅めの時間十時半頃を目指して出発する。目的はもちろん榊原氏に昨日持ち帰ってしまった封筒を渡すことである。服装は悩んだ末、黒の綿パンに、上は気持ちばかり休日モードで水色のシャツを第一ボタンだけ外した格好だ。

『陽だまり』に到着すると、受付事務員の女性が

「少々お待ちください」

と榊原氏を呼びに行ってくれた。

原稿の中の女性はあの事務員のような感じだろうか。いや、もう少し肉感的なイメージの気がする。そんな妄想をしていると待ち焦がれていた姿が見えた。

「もしかしてお休みかな」

昨日スーツ姿だったためだろうか。察しのよい榊原に

「はい。大事なものをお預かりしてしまい申し訳ありませんでした。できるだけ早めにと思いまして」

と耕司は頭を下げて封筒を手渡した。それならば昨日返せば良いものを、まさか原稿の中身が気になって、とは言えない。

「わざわざ休日に来ていただかなくても良かったのに。ありがとう」

耕司は手を後ろで組んだままお辞儀をしてから、作品の続きが気になってつい声を掛けてしまいそうになるのを必死で押し止めた。そんな耕司の姿を見て榊原は不思議そうな顔をしている。慌てて

「今後ともよろしくお願いいたします」

と言うと

「こちらこそ」

応じてくれた。

これ以上長居するのもおかしいので一礼してから自動扉を通り抜けた。

思っていたよりも早く用事が終わり、耕司は休みの日のルーティーンで行き付けの喫茶店にモーニングを食べに向かう。あと一時間もすればランチタイムに切り替わるという時間で、当店自慢の深煎り珈琲と、飲み物を頼めば必ず付いてくるトーストに付け合わせは茹で玉子を注文する。店員が運んできたグラスの水を一口飲んで鞄から本を取り出した。

(脇田壮二郎もいいけど、俺はやっぱり村山はるかなんだよな)

村山はるかとは耕司が一押しの小説家で、名前は女性のようだが男性作家。ジャンルは恋愛小説を基本としている。

何を隠そう、耕司自身の書く小説も恋愛小説で、村山はるかはそんな彼の必読書なのである。 店員が飲み物を運んできたときだけ居ずまいを正し、あとはひたすらに読み耽る。

とふいに視線を感じて耕司は顔を上げた。辺りを振り返るがこちらを見つめる姿はない。不思議に思って本に視線を戻すと再び視線を感じた。

やはり少し疲れているのだろうか。

トーストに齧りついて、今日はもう帰って家で過ごそうかな、と耕司は本を閉じたのだった。


お盆に掛かる八月十五日。福祉関係の商品を一般にも店舗販売している『ネクストライフ』に基本休みはない。店舗の留守番とともに事務作業をしていた耕司は、突然の電話に慌てて立ち上がった。

電話の相手はサ高住『ひだまり』の従業員で、『ネクストライフ』から借りている福祉用具のクッションが利用者の尿汚染によって汚れてしまったので替えをお願いしたいとのことだった。二つ返事で汚染されたクッションを取りにいくことを告げてからもう一人の勤務者に断って公用車に向かう。

『陽だまり』に付くと正面玄関でしばし待たされた。お盆の最中で職員が少ないとみえる。

と、右手の相談室の扉が開いて恰幅の良い中年男性と細身で長身のこれまた中年男性が出て来た。

「篠塚さんわざわざありがとう」

「いえ、こちらこそ貴重なご意見をありがとうございます。参考にさせていただきます」

何だか聞き覚えのある名前だな、と思っていたのもつかの間、通路を女性職員が通り過ぎようとして、男性に声を掛けられ足を止めた。どうやら提供したお茶のお礼を言われているらしい。次の瞬間彼女が満面の笑みを浮かべて相手を見つめたので耕司は息を呑んだ。なんとも言えず脳内に焼き付くような笑顔だ。一見普通の女の子だが、笑ったときだけ二次元のアイドルが飛び出したような印象に変わる。

惚けたようにその背中を目で追っていると、彼女と話していた長身の男性がこちらに会釈をして通り過ぎようとしたので、耕司も慌てて会釈を返した。柔軟剤だろうか。すれ違う際に爽やかなミント系の香りがした。女性から、今度はこの男性のほうへ視線を向けていると

「お待たせしてすみません。対応させていただいてますかね」

残された恰幅の良い男性が声を掛けてきた。

「あ、はい。お声掛けさせていただきました。堀越さんのクッションの汚染があったそうで。皆さんお忙しそうなので大丈夫です、待ってますから」

「お待たせしてるんですね。申し訳ない」

男性は慌てたように奥に向き直る。その瞬間首から掛かっている名札が見え、男性がサービス担当責任者の高遠だと分かった。確か所長の大西が一ヶ月近く休みを取っていて、その間のサ責はかなり大変であろうというのが関連事業所の人間の見解であった気がする。担当を代理している限りは名前を覚えなければ、と頭の中で

(たかとお、高遠……)

と繰り返していると、当の高遠が

「一ノ瀬さん」

と誰か呼んでいる。

「はい」

「『ネクストライフ』さんが待っておられるんだけど、堀越さんの汚染のクッションは部屋かな」

「木ノ下さんが今取りに上がられてます」

「それにしては遅くない?何かあったのかな」

「コール押してみましょうか」

「ん?ねえ、この共有トイレに置いてあるクッションは誰の?」

「え?あ、これじゃないですか。ちゃんと堀越って書いてある」

「誰だろう、まったく業務日誌におとしてもらわないと困るな」

「木ノ下さん何かあったんでしょうか」

「それより待ってくださってるから早くしよう」

「あ、はい」

一通りの会話が全部筒抜けである。一ノ瀬と呼ばれた職員が慌てたようにクッションを抱えたのが分かった。

出てきたのは先ほどの二次元少女である。

「あの、だいぶお待たせしてしまったようですみません」

全力でお辞儀して謝罪をする相手に

「いや人手の足りない時期ですし仕方ありません。確かにお預かりしました」

とクッションの入った袋を受け取った。

後ろから高遠が現れ、

「本当に申し訳ない。『ネクストライフ』さんはお盆でも動いてくださるから助かります」

と頭を下げた。

「そんなお礼を言っていただくようなことでは」

耕司は慌てて顔の前で手を振った。隣に並んで立っている一ノ瀬職員まで

「ありがとうございました」

 と最高の笑みを向けてくる。耕司はその笑みに少しだけ見とれた後、脳内で彼女に『笑顔悩殺少女』と名付けてからその場を後にした。

帰り際車を運転しながら

「あ!」

耕司は信号待ちで停まっていた車内で声を上げる。

ずっと引っ掛かっていた「篠塚」という名字。

「宮田さんの愛しの君だ!」

喉元に刺さっていた小骨が取れた気分でラジオから流れてくる音楽に合わせてハンドルを叩きながら、篠塚に会ったことは決して宮田には言うまいと固く誓った。そんなことを言おうものなら

「なんでこんなに想っている私が会えないのにあんたが会ってるのよ!!」

と、とばっちりを食うに違いない。しかも耕司は彼の君の顔が判然としないのである。背はすらりと高く、とても良い香りがしたことだけは覚えているが肝心の顔をはっきりと確認しなかった。きっと

「あの顔に出会って拝まないなんて、あんた馬鹿なの」

とどやされてお仕舞いだ。


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