第3話高齢作家の未発表原稿を手にした件について

サービス付き高齢者向け住宅『陽だまり』に着くと併設の訪問看護に所属する理学療法士、室井静香が受付にやってきた。

「大変でしたね」

「本当びっくりしました」

室井に会うと営業先ということを忘れて普段の姿に戻ってしまう。いつも高齢者の立場に立って根気よく大きめの声で話し、どんな話にもタイミング良く頷いているのだろう。営業相手の耕司にさえ笑顔を見せて話を促してくれるのでついこちらの口も滑らかになる。

「でしょうね。私も仕事以外の場で、目の前で人が倒れたとか経験ないですもん」

「僕も慌ててしまって。でも途中ここの職員さんが助けてくださいまして」

「職員?」

「はい。最初医療従事者の方かと思ったんですけど、ここの介護士さんだとおっしゃって。河野さんという方でした」

「河野君が」

「介護士さんってすごいですね」

「確かに介護士さんはすごいですけど、彼はちょっと特別かな」

「特別ですか」

確かに初めて会った人に「おばはん」呼ばわりしたり、かなりきつい口調で叱責したり、何かと只ならない雰囲気を纏っていた気はする。耕司が先ほどあった出来事と出会った青年に思いを馳せていると

「お待たせしました」

体格の良い白髪の男性が車椅子をこぎながらやって来た。一番に眼鏡を掛けた知的な姿が印象に残ったが、体格のためか、この年齢には珍しく姿勢が良いためなのか、堂々とした威厳のある態度に強く惹かれる。挨拶もせず、口を開けたまま立ち尽くしてしまった。

「大変でしたね。しかし人助けとは素晴らしい」

耕司は慌てて意識を仕事に集中させた。

「お待たせして申し訳ありませんでした」

「いやいや私は構わないよ」

告げる榊原に

「榊原さんはいつもお優しいですものね。おおらかに許してくださるから皆助かってます」

室井理学療法士が言ったので、相手は声を立てて快活に笑った。声の響きが耳に心地よい。相手の素性を知っているためか見えないオーラを纏っているようで軽々しく話し掛けてはいけないような空気を感じた。

「山脇さん?」

室井が呼びかけてきたので耕司ははっとして手にしていた替えの車椅子を少しだけ前に移動させた。

「ちょっと疲れていらっしゃるんじゃないですか?宮田さんが腰を痛められてからお仕事も増えておられますし、今日はあんなこともあったでしょう」

「いや大丈夫、心配をおかけしてしまい申し訳ないです。榊原さん、替えの車椅子がこちらです。前よりもゆったり掛けてもらえると思います」

「榊原さん、一旦こちらのソファーに移動しましょうか。その上で新しいのに移りましょう」

室井の誘導にはっきりとした返事をして榊原は体を新しい車椅子へおさめた。

「どうでしょう?実際にしばらくご使用いただかないと細かい不具合などは分からないかもしれませんが」

「うん。なかなか良いと思う」

「そうですか。それは良かった。あのそれで榊原さん、まだ契約書のほうがご用意できていなかったみたいで、今書類を持ってきたのですがご署名いただけるでしょうか」

「ああ、電話で言っていた分だね」

「はい」

「山脇さん、もし良かったら相談室使われます?」

「いえ僕はここでも。榊原さんも移動されるのも大変でしょうし」

確かこの建物の相談室は少し狭く一度中にある椅子を移動させなければ、車椅子では中に入れないはずだ。書類の中身もそれほど多くないので今日は書類を挟む用のボードも持ってきている。

榊原は快く了承してくれた。書き慣れているのだろうか、美しい伸びやかな文字は見ていてうっとりするほどだ。

「やはり文章を書くお仕事をされている方は字も綺麗ですね」

言ってしまってから息を呑んだ。そういえば榊原は自分が文筆家であることをあまり知られたくないのではなかったか。すぐに相手の顔を見るも大して気にしていなさそうだったので胸を撫で下ろした。

サインをもらった耕司は丁寧にお辞儀をしてから旧車椅子とともに建物を後にした。

たった十分程度のことだったが、憧れの作家に会えたのは耕司にとってここ最近で一番の事件であった。とはいえ、これは嬉しい出来事という意味で、事件と称するならば来る前に遭遇した出来事のほうが遥かにインパクトは強い。夢心地のまま会社に戻ってきて車椅子を確認してから耕司は

(しまった!)

舌打ちをした。

車椅子後ろにあるポケットの中に見慣れない封筒があることに気付いたのである。A四番の大きめな封筒にそこそこ厚みのある書類が入っている。なぜ気付かなかったのだろう。というよりも入れ替えを行う時、以前使用していた福祉用具に忘れ物がないか確認するのは初歩の初歩。こんなミスをしたと知れたら宮田の雷が落ちるのは必須である。

ぎっくり腰の療養のため内勤ばかりしている宮田を盗み見るとまだこちらの状況には気付いていないようだ。耕司はすぐに車に戻ると書類を確認してから、携帯電話で榊原へ連絡を入れる。程なくしてコール音が止み、相手が電話口に出た。

「榊原さん、先ほどお邪魔しました。ネクストライフの山脇です」

「ああ、さっきはありがとう」

意識せずに感謝の言葉が口に出るなんてできた人だな、などと、当たり前のことだが感化されている耕司はいちいち人柄と結び付けてしまう。

「いえ、こちらこそありがとうございました。あの、実は大変申し上げにくいのですが、持ち帰った車椅子のポケットの中に封筒が入っておりまして。これからそちらにお持ちしてもよろしいでしょうか」

「封筒?」

「はい。何か書類が入っているようなんですが。紐で封を閉じるタイプのものです」

「ああ」

榊原はようやく思い出したという感じの声を出した。

「それなら特に必要といったものでもないから、またこちらに来られる機会でいいですよ」

「しかしそんなわけには」

言いながらつい封書の留め具の紐を外して中を改めてから耕司は息を呑んだ。

(これは!)

妙な間が空いて電話の向こうで榊原が困惑しているだろう様子を感じて慌てて言葉を繋ぐ。

「本当に別日で大丈夫なんですか」

「うん。だからさっきからそう言ってるよ」

榊原がからからと笑う。

「では申し訳ありませんが、そちらに向かう際にまたお持ちいたします」

「ああ、そうしてください」

耕司は再度礼を述べてから電話を切った。先ほどまですぐにでも返却しようと思っていた気持ちを変えさせたのは手の中にあるコピー用紙であった。題名こそ付けられていないが、そこには榊原氏と同じ筆跡で、脇田壮二郎と書かれている。

一番頭の頁を捲ると綴られた文章の中に伊達隆臣の名前が入っていることに気付く。

(これはもしかすると、いやもしかしなくても脇田壮二郎の生原稿だ)

しかも大人気シリーズ伊達隆臣探偵の原稿ときている。これは読まずにおけるわけがない。耕司は抑えることの出来ない衝動に駆られて原稿を封筒に戻すと、そのまま宮田の目を盗んで自分のデスクの引き出しにしまい込んだ。

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