第2話見知らぬ女性を助けた件について
毎日一時間の休憩時間のとき、出先からの動線での折りには土手沿いの小さな駐車場に公用車を停めて寛ぐ。少し高い位置から緑を見渡すと日常の些末なことなど忘れてしまえる気がするから不思議だ。
今日もレンタル福祉用具の定期点検が終わり、昼から「陽だまり」へ向かうための道中で気持ちばかりの休息を取っている。途中コンビニで購入した弁当を平らげ、缶コーヒーを飲みながら耕司は深呼吸をして気持ちを整える。それもそのはず、本日の利用者は待ちに待っていた榊原順一郎氏なのである。宮田の予測通り体格の大きな榊原、少しだけ値段は高くなるが機能性のさらに上がったゆったりと掛けられるタイプの車椅子への交換が必要となった。今回それを入れ替えるために榊原のもとへ向かうのである。
あと十五分ほどしたら運転しようと思って車の外に目をやると、年配の女性がふらつく足取りでこちらへやってきて崩れるように前のめりに倒れた。
「え、え?え?」
慌てて車から出て駆け寄ると相手は息も絶え絶えで体を起こすこともできなさそうだった。
(こういうときはどうすればいい?)
頭の中で反芻しながら
「大丈夫ですか」
と大声で呼びかける。
七十歳が近いと思われる女性は微かに震える声で
「大丈夫です。ちょっと休んだら大丈夫ですから」
と介助を拒んでいる。
(いや大丈夫じゃないだろ。それなら目の前で倒れないでくれ)
心の中で思いながらこの患者を運ぶべきか、寧ろ動かしてはいけないのか頭の中で大混乱していると
「どうされました?」
と若い男性の声がした。顔を上げると自分と同じくらいの年頃の男が自転車に跨がったままこちらにやってくる。自分一人ではなくなったことにほっと胸を撫で下ろしながら
「こちらの女性が向こうから歩いてきて急に倒れたんです」
「あなたは?」
「俺はそこの車の中にいて、この方が倒れたので慌てて出てきたんです」
「なるほど」
男性は言うなり自転車を脇に停めて女性の前にかがみこむ。
「救急車とか呼ばれました?」
「いや、まだそこまでは」
「救急車なんて呼ばなくていいです。大丈夫だから」
「意識はあるみたいなんですけど」
「そのようですね。それにしてもめっちゃ汗かいてんなあ」
確かに女性は額から首筋まで異様に発汗している。
「転けるとき頭打ちました?」
「いいえ」
答える女性を他所に目線は耕司を向いている。
「いや多分ぶつけてはなさそうですが。前につんのめるような感じで膝からいってたような」
男性は一度大きく頷くと辺りを見回してから女性を抱え上げ、駐車場にある木立のほうを目指して歩いていく。日陰の位置にゆっくりと女性を下ろす。そのまま寝転んだ相手の手首に手を当てて腕時計を見つめた。と、すぐに舌打ちをして
「あかんな。うまく測れへん」
耕司を見つめた。
「悪いけど脈拍測ってくれます?」
「脈拍?」
脈拍なんて測ったこともない。あまりのことに声が裏返る。
「簡単です。俺が掛け声を掛けるんで、次に声をかけるまでの脈の数を数えてもらえばええです」
「そんな簡単に言われても」
「俺はチャリ漕いでたんで今自分の心臓の音がうるさ過ぎて測れそうにないんです。他にはあなたしかいないし頼みますよ」
言うなり
「ほらここの辺り、脈打ってるの分かります?」
「ああ、はい」
耕司が返事をするのを聞くと、男性はすぐに自分の顔の前に腕時計を掲げ
「スタート」
と声を掛けた。
目を閉じて指先の感覚に集中する。
「ストップ。何ぼでした?」
「三十八です」
「三十八!」
軽く目を見開いてから
「こりゃ熱中症やな」
自分のリュックから飲み物を取り出すと
「それよりお兄さん時間大丈夫です?」
とこちらに目を向けた。
「うわ!そういえば」
耕司は携帯を取り出して時間を確認すると慌てて車に向かい、資料から榊原氏の電話番号に電話を掛けた。運良くすぐに出てくれた榊原氏は
「そういうことなら私はいつでも良いですよ」
と不確定な遅刻を快く許してくれた。穏やかな声、おおらかな人柄、流石に一流の作家だ、と安堵する。念のため榊原氏の住んでいる『陽だまり』にも電話を掛け、担当の理学療法士にも取り次いでもらって了承を得る。一頻り次の動きの段取りをしておいてから戻ると男性が
「おーい、おばはん。おばはん!」
と声を上げている。
「大丈夫ですか!?」
質問しようとして、女性の意識が飛んでいるのを見て耕司は再び声を裏返らせた。
「救急車、救急車!」
耕司が慌てて携帯を取り落とすと女性が軽く目を覚ました。
「一過性の熱失神かな」
男性はあまり慌てた様子もなく
「なんか扇ぐもんあります?」
聞いた。
「ああ」
耕司は車からうちわを取り出して女性の赤い顔を仰いだ。
「このスポーツドリンク飲めます?」
男性が勧めるも相手は首を振るが
「遠慮しとる場合やない。飲めるなら飲み。かえって迷惑や」
「あのそんな言い方しなくても」
間に入ろうとするも女性が男の圧力に負けてペットボトルに口をつけたので黙りこんだ。
「おばはん救急車呼ぶで」
「大丈夫です。ちょっと休んだら動けます」
「あかん。一時的にせよ、意識失ってんのやで。誰がほっといて帰れるかいな。第一おばはんがそんな風にここで休んでたら、このお兄さん心配で動かれへんやろ。人の迷惑も考え」
きつめの言葉で誘導している。
「それよりあんたどこから歩いてきたんや」
「向日町から」
「向日町!」
とても徒歩でやって来るような距離ではない。
「アホちゃうか。飲み物も持たんとこの炎天下で長距離歩くやなんて」
「いや、あの」
言葉にいちいち棘があるので聞いているこちらが焦ってしまう。先ほどからおばはん扱いされている女性は体力消耗しているためか言い返す様子もない。
「あの、この方が一番分かってらっしゃると思うのでそこまで言わなくても。病人ですし」
「こういうことはきつーく言っとかなアカンねん。つーわけで救急車呼ぶからな」
と有無を言わさず携帯を取り出すとボタンをプッシュした。
ものの五分ほどでサイレンが聞こえ、白いボディーに赤いランプの目立つ車両がやってくる。間近で見たのは初めてで耕司はまるでドラマでも見ているような気分になって出てくる救急隊員をぼんやり見つめた。一緒にいた男性は救急隊員に先ほど測った脈拍や一度意識が飛んだこと、首筋などを扇ぎ水分を取らせたことなど報告している。耕司も一緒にいた立場から名前など聞かれ、最初に目撃した情報などを伝えた。救急隊員は一通りの情報を受け取るとすばやく救急車に乗り込んだ。来たときと同じようにサイレンを鳴らして出発する。
残された男性と耕司はしばらく救急車の後ろ姿を見つめていたが、互いに向き直った。
「あの、ありがとうございました。僕一人ではどうにもならなかったと思います」
礼を言うと
「いや、こちらこそ。あなたのお陰で助かりました」
と予想とは違い、とても丁寧な返しをされた。
「僕は何も。お恥ずかしい話ですが本当慌てるだけで」
「何をおっしゃっいます。ずっとうちわで扇いだり、塗れタオルで冷やしてくれてたじゃないですか。俺は扇ぐもんなんて全然持ってへんかったし、あれがなかったらもっと重症化してました」
耕司は妙に気恥ずかしくなって頭を掻いた。
「それにしても、あの、医療関係の方ですか。すごくてきぱきとされてて頼りになるというか」
「いや」
相手は少しだけ黙ってから
「介護士です」
「介護士さんですか。どちらの?僕は福祉用具業社で働いてまして」
「ああ。『ネクストライフ』さんですよね」
視線は耕司の乗ってきた公用車に書かれた会社名に向いている。
「僕はサ高住『陽だまり』です」
「『陽だまり』ですか!僕これから向かうところなんですよ」
「仕事の途中に災難でしたね」
「今日はお休みですか」
「ええ。時々無性にチャリ漕ぎたなるんです」
「分かるなあ。ありますよね、そういう時。あ、僕、山脇といいます」
名刺を出そうとすると相手はそれを動きで制した。
「僕は名刺持ってませんから。河野といいます」
「河野さんですか。またお会いするかもしれませんね。そのときはよろしくお願いします」
「こちらこそ」
改めて見ると精悍な顔立ちをした、同じ男の耕司からしても惚れ惚れするような雰囲気の青年だ。真夏でも運転ばかりして色黒の自分とは大違いだ。じっと目の前の人物を見つめていると
「山脇さん、時間大丈夫です?」
河野と名乗ったその青年に言われて耕司は
「そうだった!」
携帯画面を見やるとあいさつもそこそこに『陽だまり』に向かったのだった。
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