ドッペルゲンガーの手も借りたい「前編」
末っ子の妹は小学校に上がったばかりだ。……これから親が学校に顔を出すことが増えていくだろうに、その役目を雛菊がしなければならないのだ。
……中学生が母校に訪れるにしては早過ぎるだろう。
「大丈夫よ、雛ならできるわ」
「お母さん……、仕事だから仕方ないのは分かるけどさ……」
両親の仕事を考えれば、日本にい続けることが難しい。
雛菊が生まれ、中学を卒業するまでは――、実は日本にいる予定だったようだが、さすがに仕事仲間ががまんできずに両親を呼び出した。
中学卒業まではあと一年もないくらいだったが、今の雛菊であれば一人前と言えるから、両親も安心して家を任せられたのかもしれない。
散々、やることやって子供を作って。
一人前になった長女に残った子供を丸投げするなんて、親としてはどうなんだと思わなくもないけれど、人が増えればかかるお金も増えていく。
そのお金を稼いでいるのは親であり、その金額は今の仕事だからこそ稼げたものなのだ。もしも普通の職であれば。……お金に困っていたかもしれない。
子供も多くは作らなかったかもしれない。
そうなれば雛菊は、かわいい弟にも妹にも会えていなかったとすれば、両親を責めることもできなかった。ふたりは、充分、雛菊たちに配慮してくれていたのだから。
「困ったらすぐに戻ってくるから。長く留守にすることもないと思うけど……雛菊が二十歳になる頃には仕事が終わるようにはがんばるけどね」
「長いよ」
母親は「あらそう?」と。……時間感覚が雛菊とは違うようだ。
五年……、雛菊の青春は、妹と弟の教育に潰されることになる。……と悪く言ったものの、それが雛菊にとって「嫌なこと」で「悪」である、と言っているわけでもないが。
雛菊からすればノリノリで手を出すだろう……ただ、それは母親という頼れる人がいてこそ初めて手を出せるものだ。全ての責任が雛菊に乗ると考えれば、おいそれと手を出して弟と妹の人生を歪めてしまうかもしれないとなれば……難しい。
可愛い子たちだからこそ、迂闊に手は出せない。
「おばあちゃんもいるし、なにも雛ひとりで全部をする必要はないのよ?」
「そうだけど……でもぉ」
祖母が頼れない、わけではない。わけではないが……、母親とは真逆でかなりおっとりとしている優しい性格なので、甘やかしてはくれるけど厳しく指示をしてくれるタイプではない。
そのため、頼っても欲しい答えが出てきそうにもないのだ。
寄り添ってはくれるけど、「答え」はくれないタイプだろうか……。
「雛ならできるわ。きっと大丈夫よ、いざ走り出してしまえばなんとかなるってものよ」
恐らく、これまでもそういう生き方だったのだろう。
隣で沈黙を貫く父親を見れば……無言で頷くだけだった。母親に引っ張られて結婚し、婿入りしたと以前に聞いたことがあったが……、父親の方が祖母に似ているのも不思議なものだった。
ここは義理の親子のはずだけど。
「そろそろ時間ね。じゃあ私たちはもういくから……雛、家のこと頼んだわよ」
「……本当にいっちゃうの? 子供を置いて……? まだ小学生に上がったばかりの娘もいるのに!!」
「めちゃくちゃ稼いできてあげるから――楽しみにしてなって」
「ッ、私たちはお母さんの愛情が欲しいのっ、お金じゃない!!」
雛菊の怒声に、部屋の奥から飛び出してきた下の子たち。
弟、妹……が、雛菊の手を取った。
「……みんな……」
すると、年の近い妹が、雛菊の首に腕を回す。
「ちょっと、」と嫌がる雛菊を無視して、次女がまるでヤンキーのような絡み方をした。
「まあまあ、あたしらは雛菊が母親代わりでいいけどな。雛菊からすれば自分より上の頼れる人間がいなくなるのは不安かもしれないけど……一応、あたしら『きょうだい』は協力し合うつもりでいるぞ? 全部を雛菊に任せるつもりはねえ――そうだろ、
女子が多い「きょうだい」の中で、唯一の男子である陽壱が頷いた。
「うん。母さんはガミガミうるせえから、静かになるなら賛成だ」
「へえ、陽壱ぃ……? 海外へ飛ぶのをやめて家に居座ってやろうかなー?」
額に青筋を浮かべる母親の怒髪天に怯えた陽壱が、雛菊の背に隠れる。
「……
「陽ちゃん……?」
陽壱の本音に追随するように、下の妹であるふたりも雛菊の背に移動した。
「雛姉が」「
「「母さんより、好き」」
「えへ、みんな……っ」
「ふーん……あら、そう……」
母親らしいことをしてこなかった自業自得とは言え、こうも母親の立場を長女に奪われるとは……、ここまでの信頼関係が築けているからこそ雛菊に任せようと思っていたのだから、知っていた事実ではあるのだが……。
だとしても直接、本人たちから言われると傷つく。
我が子から「お前は母親じゃない」と言われた気分だったのだから。
「――いいもんっ、じゃあ遠慮なく母さんは海外へ仕事にいくからね――五十年でも百年でも向こうにい続けてやるんだからぁ――っっ!!」
スーツケースを引きずって玄関から走り去った母親と、呆れて肩をすくめた父親が、ゆっくりと出発する。下の弟と妹たちは「……どうせすぐに帰ってくる」と思っているからこその余裕かもしれないが、長女の雛菊は、冗談では受け流せなかった。
あの母親がああ言ったなら、本当に、末っ子の妹が成人しても帰ってこないつもりなのではないか……と。
「――お母さん!!」
だから雛菊は走り出した。下の子の腕を払って…………今だけは。
自分だけは、母親の味方でいないといけないと悟って。
みんなの母親役は自分かもしれないけど、自分にとっての母親役は、その通りにお母さんしかいないのだから……。
こんなくだらない喧嘩でもう一生会えないなんて……絶対に嫌だ。
「待ってっ、お母さんッッ!」
「…………なーんて、冗談よ。できる限りすぐ戻ってくるから。それまで雛菊……みんなのことをお願いね」
「うん……私が頼れるのはお母さんしかいないの。だから……すぐに帰ってきてね。仕事に夢中になって私の成人した年に帰ってこなかったら、現地までいって連れ戻すからそのつもりでね」
「あ、うん……はいぃ……。わ、分かったから、笑顔で言うのやめてくれる……? ほんと、怖いのよ……。お母さんみたいで……」
祖母の血は、しっかりと雛菊に受け継がれているようだ。
それから、両親が海外へいってからの保護者役は長女である雛菊が務めるようになった。家事はもちろん、保護者会への参加や授業参観も雛菊の役目になっている。
目を通す書類も多く、妹が持ち帰ったトラブル、弟から矢継ぎ早に聞かれる質問への答え、下の妹に宿題を教えたりなど……やることが多過ぎる。
自分の時間などなかったし、学生時代の青春は、雛菊にとってはまったくなかった。
学校でも飛び抜けて大人びて見えていたのは、元々の発育の良さもあったが、精神的にも大人になっていたからだろう。
大人に混ざることが多ければ、雰囲気も思考も大人に染まっていくように――
ゆえに同級生は幼稚に見え、大人びた雛菊に気後れしてしまう同級生が大半だったのだろう。
だから雛菊は、一度も男性に言い寄られたことがなかった。
恋愛経験はない。
だけど子育ての経験はあるという歪な価値観だった。
それが雛菊のアイデンティティと言えばそうなのだけど……。
寝不足が続いていた。
高校二年に上がり、学校生活が落ち着いたとしてもやることは増えていくばかりだった。祖父と祖母と手分けして作業をしていると言っても、若い雛菊と高齢のふたりでは速度が違うし、理解力にも差が出る。
スマホでどうこうなんて指示をされたら雛菊にしかもう分からない。祖母に使い方を教えるくらいなら自分でやってしまった方が早いからだ。
作業が溜まっていくほど、自分がやった方が早いと判断するようになっていき……、結局、雛菊がひとりで作業することになっている。
それが一番早いとは言え、全てが雛菊の作業だ。寝る暇もない。
気づけば机に顔を突っ伏して眠ってしまっていたようだ。……朝ごはんを作らないと、と思えば、台所から包丁を使う音が聞こえ……「おばあちゃん?」と聞けば、そこにいたのは祖母ではなかった。
まるで
「…………え?」
そっくり、というレベルではなく自分そのものだった……、もうひとりの雛菊は、台所に現れた雛菊を見て「くす」と微笑み、姿を消した。
握っていた包丁が落ちて、雛菊の足下のすぐ傍の床に突き刺さる。
「あっ――」
幸い、怪我はなかった。突き刺さった包丁をぐっと引き抜き……、目を擦る。
……今のは、本物……? 寝不足が見せた幻覚の可能性も――――
「でも、朝食、ほとんどできてるし……」
その時は考えるのをやめて朝食の続きを作った。後に祖母や妹、ないとは思うけど弟や下の妹たちに聞いたが、誰も朝食を作っていないのだと言った。
寝ぼけた雛菊が自分で作業していたことを忘れてしまったのだろう……そんな結論だった。
寝不足で幻覚を見て、朝食を作っていた最中だったことも忘れていた……という可能性も確かにあるのだ。
もうひとりの自分がいて、代わりに朝食を作ってくれていたと考えるよりは……まだ現実味がある。
「疲れてるのかもねえ……」
週末はみんなに断ってから、一日の全てを休息にあてようと考えた雛菊だが、休日とは本来そういうものである。
…つづく
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