舞衣ところうり


 舞衣まいが笑うと別の子も笑った。

 舞衣が泣いたら別の子も泣いた。

 舞衣が怒れば――舞衣が悲しめば。

 同じように周りにいる子は舞衣の感情につられて、同じように感情を表に出した。


 隣にいる子に影響を受けるのは、小さな子であれば不思議ではないだろう。だが、赤ん坊が泣いているのを見て大人が泣くことはまずない。

 笑っていれば嬉しく思うことはあっても、泣いているのを見て悲しくなることはないのだから。だから娘を抱きかかえる母親が、最も影響を色濃く受けていただろう……。


 感情に振り回される。


 慣れてしまえばどうってことはなかったけれど、慣れるまでは大変だった。その時に違和感を抱かなかったのは、赤ん坊を育てる大変さを知っているからだ。

 ちょっと癖のある子だと思ってしまえば、違和感を「問題」にはしなかった。

 既に上にいる三人をある程度は育ててしまっている分、「できる」という自負があったし、困っていてもなんとかなると分かっている。

 気になった部分を徹底して詰めて解き明かそうという気は、当時の母親にはなかったのだ。


 だから舞衣は、自分が普通とは違うことを自覚しないまま成長した。


 元気で、感情表現が豊かで、喜怒哀楽をよく見せる元気な女の子に――――




「舞衣ねえ」

「…………なによ」

「ずっと部屋にこもって、息苦しくならないの?」


 日中でも真っ暗な部屋だった。

 舞衣の妹である蝶々ちょうちょうと同部屋なので、物理的に閉じこもることはできず、鍵をかけて籠城すれば、蝶々が困ってしまう。

 ここで鍵をかけないあたりは、まだ妹に気を遣う余裕があるようだ。


「ならない。ここにいる方が楽だし」

「ふーん」


 学校帰りの蝶々はランドセルを置いた。部屋の電気は点けずに懐中電灯を上に向けて、その反射した光でランドセルの中から宿題を出した。

 わざわざこの部屋で宿題をするつもり? と思ったけど、ここは舞衣の部屋であり、蝶々の部屋でもある。蝶々の机で彼女が宿題をするのは、当たり前のことだ。


「居間でやればいいでしょ……っ」

「わたしも、薄暗い方が落ち着くの。集中もできるから、気を遣って舞衣ねえの傍にいるわけじゃないの」


 と、わざわざ口に出している時点で妹は姉に気を遣っている。

 傍にいた方がいいと思ったからこそ、塞ぎ込む姉の傍にいるのに……。


「…………」


 妹に気を遣わせている。そんな自分に怒りが湧いてきて――「ッッ」


 舞衣が部屋を飛び出した。悪感情を抱けばそれを無自覚に振り撒いてしまう。この怒りという悪感情に、妹まで苦しめられることを想像すると……あのまま部屋にいることはできなかった。


 大きな平屋の屋敷だった。

 長い廊下を走って、舞衣は庭に出た。

 鯉が泳ぐ池がある。慌てて出てきたのでサンダルも履かずに、裸足だ……砂利で足を切ってしまう。足の裏を見れば小さな傷が無数にできているだろう。


 ……だけど、今の舞衣は、痛みを感じなかった。


「もう、やだぁ……」


 小さい頃は分からなかった。楽しいことばかりだった。

 だけど成長するにつれて嫌なことが増えていく。そればかりだと感じてしまうのは、多くの「楽しい」よりもたったひとつの「苦しい」が勝ってしまうからだ。


 一日を通して見れば、楽しいことばかりだったのに、中盤で感じた嫌なことが強く印象に残って、今日の一日が「嫌な日」だったと鮮明に記憶してしまうように。

 そして舞衣の「特別な力」は、自身の感情を外に振り撒いてしまうことだ。

 嫌なことを見て悲しみや怒りを抱けば、周りがそれに影響される。舞衣が怒れば周りも怒って……、そのことにもっと怒って、結果、全体がヒートアップしてしまう。

 収拾がつかなくなるくらいに、悪循環になってしまう。


 舞衣がいると場が荒れることに気づかないクラスメイトではなかった。

 だから、舞衣が狙われるのは、当然とも言えたのだ。


 子供は残酷だから。大人のように、外堀を埋めたり、嫌味を言ったりしない。

 子供は素直で、直接的に、言葉の暴力で、女子でも関係なく頬を殴るのだ。


 舞衣はひとりになった。

 それが最も簡単な解決法ではあったのだ――。


 舞衣に近づかなければ影響を受けない。

 舞衣が怒っても、周りに誰もいなければ、その効果は出ないのだ。


 ぽつり、と小雨だが、予報通りに雨が降ってきた。

 さっきまでの強い日差しがなくなり、暗雲が晴天を覆い始めた。まるで舞衣の心情を反映させたかのように……、彼女の力は天候にまで影響を与えたのかもしれない。


 小雨はやがて本降りの雨になった。あっという間にびしょ濡れになった舞衣は、縁側に戻ろうとはしなかった。

 雨に打たれ続ける。それに意味があるとは思えなかったけれど……、楽だったのだ。まだ舞衣自身、言葉にできなかったけれど、自分が悪者になって罰を受けることで、罪悪感が消えていく。それが心地良かったのだ。


 未来の舞衣は、こう言った――

「あの時のわたしは、追い詰められた自分自身に酔っていたんだろうね」……と。


 きょうだいの中で唯一の男。

 ふたつ上の兄は、当時は小学五年生だったが、既に舞衣の現状を言い当てていた。

 まさに、未来の舞衣が言った通りに。



「自分に酔ってるなあ……。おまえ、中学に上がったら右手がうずく、とか言いそうだよな……。飛鳥あすかの妹なら素質はあるのか」


「……『よーにぃ』」


「風邪引くぞ、戻ってこいよ、なんて言わないからな? どうせ明日も明後日も学校サボって部屋に引きこもるんだろ? じゃあずっと風邪引いても問題ねーじゃん。学校休んで楽してるんだから、体調壊してちょっとは苦しめよ」


 兄が妹にかける言葉か? しかも、体質で悩んでいる女の子に向かって。

 当然ながら、最上級の怒りを見せた舞衣だった……が、すぐに抑え込む。

 口から溢れ出ないように両手で口を塞ぐジェスチャーまでして。……手を使ったジェスチャーでイメージを補完することで、怒りを鎮めたのだ。

 ただ、これは消化したわけではなく、怒りは舞衣の中に蓄積していくことになる。いずれ、どこかで弾けて膨大な怒りに舞衣が苦しめられるだろう……、そしてそれは、遠い未来のことではなかった。


「わたしに構わないでよ……よーにぃも、わたしのこと嫌いになるし……」

「もう嫌いなんだけどな」

「え……っ」


「まるで自分が嫌われてない、って前提なのがな……まあまだ余裕があるってことだと思うけど……。いや、嘘だよ、嫌いじゃねーって。言ってみただけ」


 雨に打たれているからなのか、妹の涙なのか分からないが……紙をくしゃっとしたような舞衣の表情に、さすがの兄も気が引けたようだ。

 試しに言ってみた、というのは本当だ。だが、言うべき嘘ではなかった。


 嘘でも、言ってはいけないことだった。


「わたし、変なんだよ……病気、かもしれないし……っ」


 親は取り合ってくれなかった。祖父が言うには「病気ではない」らしいが……、舞衣はまだ詳しいことを教えられていなかった。

 いずれ「安定する」ものらしいけど、そのいずれを待っていたら、自分の感情に振り回された被害者が増えるばかりだ。

 なにより、既にクラスメイトの輪から弾かれている。

 ……もう、学校に居場所なんてなかった。


「わたしはっ、誰にも会えないし家からも出られないッ! わたしが生きてるだけで、みんなのことを振り回しちゃうんだから!!」


 うぅ、と嗚咽を漏らす舞衣がその場に崩れてしまう。

 湿った地面に膝をついて……。

 このまま足下の泥に顔を突っ込みそうな勢いだった。


「…………はぁ」


 兄は呆れたように……、やがて足音が遠ざかっていく。

 ぎしぎし、と廊下が軋む音。――兄にも見捨てられた。見捨てられないと思っていた、ということに自覚して、ひとりになりたいと口では言いながらもひとりになるつもりなんてなかったことが分かってしまった。

 追い詰められないと分からない無意識の欲望。

 舞衣は――ただの構ってちゃん、なのだ。


「…………ちがう」


 泣いて落ち込んでいれば助けてくれる人がいる。

 その人がなんとかしてくれるまで立ち止まっていればいいなんて、そんなの……卑怯者だ。


 ――加害者が被害者ぶるのは最悪だ。


 絶望して思考停止するのは一番の加害なのではないか。


 舞衣がするべき対処は本当に、人に近づかないことだけなのか?



 雨が止んだ。

 ……いや、止んだわけではない、遠くなっている……。


 雨粒が、当たらない。


「よーにぃ……」

「本当に風邪引けばいいって思ってる兄貴がいるかよ」


 傘――、だ。

 兄と妹が、ひとつの小さな屋根の下に収まっていた。


「ほら、手」

「……でも、泥が……」

「気にしない。妹の手だろ」


 舞衣が伸ばすよりも早く、兄が手を掴んだ。

 小さな手だけど、舞衣からすれば大きな手だった。


 ぐっと引かれ、舞衣が兄に抱き着く形になった。急接近に顔を真っ赤にした舞衣が、この恥ずかしさが兄に伝わってしまうと思って、思わず兄を突き飛ばしかけたが……それ以上に早く、それ以上の力で兄が妹を抱きしめた。逃がさない、と言わんばかりだ。


「ぃ……や! やだよ伝わっちゃう! それに……よーにぃもわたしに振り回されることになるんだよ!?」

「いいよ別に。家族に遠慮すんな。妹の嬉しい楽しい悲しい――それを共有できるなら、兄貴としては嬉しいんだよ」


 我が家はガス抜きの場であるべきだ。舞衣が舞衣らしくいられる唯一の場所。

 学校にいけば苦しいのは分かるし、被害を抑えるために孤独にがまんしていることも理解している。力がまだ安定していない以上は、これからも続くだろうし、それは仕方のないことなのだ……、だけど、気を遣うところは外だけでいい。

 家族にまで気を遣うことはないのだ……。


 好きなだけ振り回せばいい。

 舞衣に振り回されて嫌な顔をする家族など、この家にはいないのだから。


「昔の舞衣のままでいいんだよ。外でいくら本性を抑えても構わないけどさ、家では素を見せてくれ。舞衣だけ他人みたいなんて……寂しいじゃんか」


「……よーにぃ……」


「それにさ」


 力を自覚してから気を遣い出した舞衣は、思えば「被害」をきちんと確認しないまま距離を取ってしまっていた。ゆえに、初めて気づいたことがある……。


「おれ、舞衣が言ってること、なんにも分からないんだよな……。舞衣が怒っていたらおれも怒るってことなんだろうけど……そんなことなくない?」


 ふたりが怒るシチュエーションならまだしも、片方の怒りに引っ張られて不満もないのに怒るシチュエーションは……知らない。


 少なくとも兄は、まだ舞衣の影響を受けていなかった。


 今だって。

 舞衣が抱く恥ずかしさと芽生えた「好意」に、ぴんときていない様子だ。


「…………え、よーにぃは、じゃあ…………効かない、の……?」


 全員が舞衣に振り回されるわけではない。

 それが分かったのは、一歩、大きな前進だろう。


「うそ、言ってないよね?」

「ウソ、イッテナイヨ……」

「うん、言ってなさそうだね……」


 下手な芝居でふざけた様子は、本当であることの証明だ。

 兄をよく知る妹が言うのだから間違ってはいないはず――。


「でも……なんでよーにぃは……」


「まあ、細かいことはいいだろ。とにかくおれには通用しないんだ。だったらおれの前で素を見せればいい。おれでガス抜きすればいいじゃん。

 ――おれでスッキリすれば、学校にいっても大丈夫だろ?」


「……みんなに迷惑をかけることは一緒だよ……」


「かけたらいいじゃん。舞衣を仲間外れにするやつなんか、困ればいいんだから」


 冗談ではなさそうだった。

 兄は本気で――妹のためなら、舞衣の教室に単身で殴り込んできそうだった。


 もしかしたら。

 ……舞衣が不登校になった後の数日間は、舞衣の教室に殴り込みにいっていたかもしれないけど……。


 中学生の姉の影響かもしれないけど、兄は意外でもないが……血気盛んな方なのだった。


「生きてるだけで、みんな他人に迷惑をかけてる。その度合いが違うだけでな……。

 わざとじゃなければ反省するだけでいいんだよ……。できる限りの改善をすればいいし、舞衣が周りのために部屋に閉じこもる必要なんかないんだ」


「…………でも……」


「舞衣がいないと学校がつまんないんだよ。みんなのために不登校になるか、おれのために学校にくるか……舞衣は『みんな』を選ぶのか?」


 それは、卑怯な質問だった。

 みんなか、兄か……そんなの、選ぶなら、ひとつしかない。


「でもよーにぃ、学校でわたしに話しかけてこないじゃん……」


「いや、妹に話しかけにいくのって、恥ずかしくないか?」


 確かに上級生が下級生の教室に顔を出したら緊張感が走る。たとえ相手が身内だったとしても、場の雰囲気に飲まれ、身内だと分かっても緊張してしまうものだ。


 兄は「そうか?」なんて言っていたけど……、それは去年卒業してしまった中学生の姉がよく顔を出していたから、慣れてしまっていたのだろう。

 中学生の姉は顔を出すどころか居座っていたのだから。


 兄より兄のクラスに溶け込んでいた……。


「よーにぃはさあ……学校にきてって誘っておいて、いざ登校したら放置するの……? それって、ひどい仕打ちだと思うんだけど……」


「まあ、それは…………うん。分かったよ……、ちゃんと顔を出すよ」

「毎日?」

「いや、たまに」


「毎日じゃないならいかないから」

「毎日顔を出すから!!」

「――うん、ならいく」


 とん、と、額を兄の胸に当てる。


 雨で冷えた体を温めるために、体温が高い兄に密着する。


「……よーにぃ、ほんとはわたしの感情、ちゃんと伝わってるってことないよね?」

「ないよ。今の舞衣を見てもなに考えてるか分からないし」


「……へえ」

「違うな、怒ってるのだけは分かった」


 やっぱり伝わっていない。

 ……舞衣は怒ってなどいないのだから。


 その見当違いが、証明だった。


「もういいよ」

「嫌な言い方だな……」


「遠慮しなくていいんでしょ?」

「配慮はしてほしいんだけど……」


 たじたじになっている兄を見て、久しぶりに素直に笑った舞衣。


 ――この日からだった。

 素直に、だけど素直になれない舞衣の遠慮ないコミュニケーションが始まったのは。



 ……後に、末っ子である蝶々は、ふたりのやり取りを見てこう思ったものだ。



「まるでおかあさんとおとうさんみたい」



 家族だから当たり前――以上に。


 その関係性は、兄妹を越えた「ふうふ」のようだった。




 …了

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