人工知能は桜を好まない

雨籠もり

人工知能は桜を好まない

 桜が嫌いな人工知能なんていない。

 桜が嫌いな人間がいないのと、同じように。


 ・A・


 緋色あけいろの空に、浮遊墓が這っていくのを眺めていた。この世界では、墓地に割り当てられる土地を抑えるべく、空に疑似的なもうひとつの空を作り、その空と空とのあいだに墓を収納している。

 空挺墓地。

 浮遊墓は、墓をそこまで運ぶための装置だった。

「リータ、あの浮遊墓に乗れば、母さんに会えるだろうか」

 僕は背後からやってきた影に向かってそう尋ねる。

「浮遊墓への権利者以外の立ち入りは犯罪です。個人照合アカウントより30ポイントの減点ですよ。それに――浮遊墓に乗ることは大変危険です」

 と、リータはあくまで機械的に告げた。

 模範的な回答だ。

 主人へのあからさまな注意とはならないよう、しっかりと言葉を自制し、かつそれが明確な法律違反となることを指摘してくれている。まさしく教本通りの回答だった。

 クリアロイドは人工知能である。2番目に市場シェア率の高い人工知能で、市場に出回っているどのドール(人工知能が人間的動作を可能にするための容器のこと)ともセッティングの相性がいい。

 リータもクリアロイドで、ドールは最新型より少し古い。もともとは家族の所有物だったけれど、父が回星探査のために地球を離れ、そして母が他界してからは、繰り下がりのように僕のものとなった。

 白い衣装、白い髪、白い瞳。白い唇。

 きっと、父や母はドールにこだわりがなかったのだろう。如何様にも着色は可能であるはずなのに、リータはすべてが白だった。

「リータ」

 と、僕はリータが隣までくるのを待って、話しかける。

「今日の予定を」

「はい」

 リータは無表情のまま言葉を連ねる。正直なところ、今日の予定なんてものはすでに暗記していた。クリアロイドに予定を諳んじさせる行為は、クリアロイドのチューニング方法として知られている。ここで言いよどむようなことがあればメンテナンスが必要、というサインになる。

 リータは、僕の今日の予定を一瞬の淀みもなく完璧に読み上げてみせた。リータをメンテナンスに出したことは、まだ一度だってない。それだけ、両親がその昔に、注意深くリータを扱っていたということなのだろう。

 リータは、クリアロイドとしてとても優秀だった。

 人工とはいえ、一応は知能であるクリアロイドは、生産以降、すなわちドールにはめ込まれて以降も変容する。これは主人の性格や暮らしぶりに適応するようあらかじめプログラミングされているからだ、とされているけれど、僕はそれだけではないと思う。

 例えば、リータは初対面の人間にさえも、その指の使い方や目線から、その場・その人に最も適した紅茶を淹れることができた。それも、茶葉の選択だけではなく、湯の温度、葉の量に至るまで、完璧に。

 別段、僕や両親がお茶を嗜んでいたというわけではない。学者である僕の父親が、日頃から学習する習慣をつけるように、と僕に教えているのに『適応』したリータが、その学習習慣をさまざまな場面に応用しているのだろう、というのが僕の予測なのだけれど、普通のクリアロイドはそんなことはしなかった。

 優秀、というか。

 他とは一味、違っている。

 けれど。

 チューニングを終えたリータのことを僕は見つめる。

「どうかなさいましたか?」

 リータが言って、まるで人間のように首を傾げた。

「リータ」

「はい」

 白く美しい首がねじれて、振り返る。

「きみは、桜は好きかい?」

 リータの動きが一瞬、ほんの一瞬だけ、ぶれた。

 深いホワイトの瞳。

「いいえ」

 そしてリータは否定した。

「私は桜が好みではありません」

 嫌いです、と。

 断言するように、それ以外の回答はまるで持ち合わせていないとでも言うかのように、彼女はそう言って、口を閉ざした。

「そう」

 僕はその言葉を、慌てて隠すように相槌を打った。今の会話なんてどこにも存在していなかったみたいに、話題そのものを切り替えた。

 ――桜が嫌い。

 一般的なクリアロイドはそんなことを言わない。仮に話者が桜を好きだった場合、それは失礼にあたるからだ。クリアロイドは自我を持たない。自我を持つということは、衝突の可能性を生むということでもある。

 だから基本的に、主人が桜を毛嫌いしているといったことでもない限り、クリアロイドは桜に対して肯定的だ。そうしているほうが、一般的だから。それが、自我を持たないということ。もちろん、両親や僕が、桜が嫌い、なんてことはない。

 けれど。

『私は桜が嫌いです』

 リータは断固として、否定する。

 桜の存在を拒絶する。


 ・B・


 その現象に気付いたのは、友人の白井を家に招いたときだった。

 白井は人工知能文学についての研究をしている大学生だ。人工知能文学というものは、人工知能が生成した文学作品について学術的アプローチを試みるもので、言語学より統計学に近い。

 人間に危害を与えないよう抑圧されたプログラムが、何を書いても許される自由な空間のなかで、いったい人間をどのように扱うのか――人工知能文学の大きなテーマのひとつで、白井は彼のクリアロイドである〈ホーツ〉に戦争小説を書かせていた。

 生成された小説から、〈ホーツ〉が、人工知能ではなく一つの知能として、知性として、戦争を、政治的思想を、宗派を、そして人間の生死を、どのように導き出し、表象するのかを読み取る――白井のレポートは面白く、読みがいのあるものになっていった。

 そんな折だった。

 ある程度の集計を終えて、一旦休憩しようという段になって「そう言えば」と白井が始めた。

「別の学部のチームが、大学祭の出品で桜並木の仮想空間を作っているんだけど、試してみるかい?」

「桜並木?」

「230年前の日本を舞台に設計してあるんだ。その当時はまだ自然の河川が渇いていないし、そこら中に桜が自生していたらしい」

 230年前となると、2023年頃だろうか。ちょうどパンデミックが収束した時期だ、と思い出す。その時代の日本史なんて、小学生の頃に少しかじったきりだった。

 桜が自生していた時代、か。

 今となっては、本物の桜は貴重品だ。

 リータが僕らのもとに紅茶を運んでくる。

「ありがとう」

 と言って、無機質な手からカップを受け取る。

 一口飲んだだけで、その紅茶が疲労回復を目的としたものであることが分かった。これだけはっきりとしているのに、紅茶の味は落ちていない。

 白井もその出来に感心しているようで、「ホーツにも紅茶を覚えてもらおうかな」と笑いながらそう言った。

「そうだ、リータくんも、桜並木を見てみたいと思わないかい?」

 白井がリータに話を向ける。

「いいえ」

 そのときのリータの表情を、僕は未だにはっきりと覚えている。

 いつにもまして、無表情で――けれどそこには、何か、怒りや悲しみに似たものがある。

「リータ?」

 と僕が声をかけるまで、リータは一点を見つめたままだった。

 ややあってこちらを向き、

「なんですか?」

 と問う。

「どうして?」

 と訊いたのは、しかし僕ではなく白井だった。

「どうして、桜並木を見てみたいと思わないんだい?」

 その質問に怒気はなかった。

 むしろ、否定的なニュアンスの言葉をあまり使わないよう自制されているはずのクリアロイドが、いったいどうして、そこまであからさまに桜を拒否するのか、知りたがっている様子だった。

 その質問に、リータはすぐには答えなかった。言葉を選んでいるらしい。そんなリータを見るのは初めてだった。

「リータ?」

 と僕はもう一度その名を呼ぶ。僕は大きな不安に襲われていた。

 生まれてから19年、リータはずっとそばにいた。リータは僕という存在の構成に、決して小さくない要素として生きている。そんな存在の唐突な変化に、僕の心は酷く焦っていた。きっと、親が認知症になったと気付いた瞬間の子供は、こういう気持ちなのだろう。今でこそ治療法の確立されている認知症ではあるが、先の時代では様々な悲劇を生んだという。

 僕は息を呑んで、リータのことを見ていた。

 対して、白井は言葉を変えて、リータに話しかけてみる。

 そして、決定的な一言を言った。

「リータ、きみは桜が好きかい?」

「いいえ」

 即答だった。

「私は、桜が嫌いです」

 はっきりとした、斬撃のような返答だった。


 ・C・


 僕の今日の予定。

 その最新の事項を実行するために、僕とリータは押花大学にまでやってきていた。

 押花大学という場所を、この場でもっとも必要な情報に偏らせて簡潔に説明するならば、それは白井の在籍している大学、ということになる。僕はその隣の裏木大学の生徒で、偏差値はほとんど変わらないけれど、学んでいる内容が違う。

 白井は人工知能文学。

 僕は数学だった。

 数学を選んだのは、学者であった父と母の影響が一番強いと思う。ふたりとも理系だった。父は惑星工学で、母は異星生物学。惑星外に出張に行くことも少なくなかった。

 特に父は、ほとんど家に帰らなかった。現に今だって、もう八年も家に帰ってきていない。定期的に手紙が届くけれど、それだけだ。だから僕のこれまでの記憶は、おおかた母との時間になる。

 母は聡明な人だった。

 賢く、聡く、優秀な人で、それでいて優しかった。自分の知識を決して他人に見せびらかすことなく、おおらかで、穏やかで、それでいて、重要なこと、大切なことに関しては鋭く手を抜かない。

 僕は母を尊敬していた。

 母は僕の憧れだった。

 母は読書家でもあった。

 電子書籍より紙の書籍が好きで、紙で売られていない本を見つけると、製本許可証を購入して、紙の本にして読んでいた。

 母の書斎は、ぎっしりと本を詰め込んだ本棚に囲まれている。絵本のなかでしか見たことがないけれど、きっと紙の本の図書館とは、母の書斎のような場所を指すのだろう。幼い時代、母の書斎で、リータと本を読みながら、母の帰宅を待つのが好きだった。

 本は僕にとって、異世界への扉だった。

 自分の知らない、まったく異なる別世界に足を踏み入れるとき。そこには常に本があった。銀河を駆ける鉄道。妹の結婚式に走る男。食べられてしまった詩人。押絵のなかに生きる男……。

 そういう別世界は、常に僕を孤独の淵から掬い上げた。ページを開けば、ひとりではなかった。孤独は消えた。それらは幼い僕にとって、暗闇を剥がす火の光だった。


 ある日のことだった。

 暖かで静かな家の庭で、唐突に銃声が鳴った。僕よりも先にリータが動いた。

「ご主人様!」

 絶叫しながら、リータは玄関のドアを乱暴に開く。

 そこに、銃を持った男がいた。

 そして、倒れた母がいた。

「……母さん」

 僕はその場で立ちすくむ。

 目の前の出来事が信じられない。

 血が流れていく。

「母さん」

 手足が震える。

 僕は無意識下に走り出す。

 脈動。

 心拍。

「母さん……」

 悪寒。

 恐怖。

 血がどんどん流れていく。

 絶叫。

「母さんっ!」

 瞬間、僕の声に気付いた男が、銃口をこちらに向けた。その動作とほとんど同時に、リータは男の持つ銃を殴っていた。銃身が変形し、弾丸は暴発して男の肩を撃ち抜いた。

 ベニヤム、という異星の薬草があった。粉末状にして焚くと、疲労回復や高揚感を得ることができるとされていたが、母がベニヤムの中毒性と毒性を発見して以来、取引が禁止になっていた。

 男は、ベニヤムの中毒者だった。

「畜生、畜生」

 大声で喚く男を僕が取り押さえる。人間に危害を加えることができないクリアロイドでは、銃を殴って銃身を曲げるくらいしかできなかった。

「お前のせいで、俺の人生は終わったんだ」

 男は四肢を振り回しながら母を罵倒した。

 当時の僕はまだ14歳だ。

 男の身体を止めるだけで精一杯で、その口を塞ぐことはできなかった。

 視界の端で、母の命が消えていくのが見えた。

 涙でぼやけた視界が、僕を残酷な現実から一時的に遠ざけた。

 母はすぐさま救急搬送されたが、すべてはもう、遅かった。


 その部屋はとても質素だった。白を基調とした部屋で、なかには背景に馴染んでしまいそうなほど白い椅子が四つ、それから机とノートパソコンがあるだけだった。

「やあ、きみが白井くんのお友達だね」

 モーセ・フーバー、と名乗ったその男性は、人工知能文学の研究者だった。聞いたことのある名前だと思っていたけれど、何度か白井から話を聞いていたことに加えて、彼の論文を僕は何本か読んでいた。

 今日の要件とはすなわち、リータの検診だった。

 リータの一件について、白井は教授に、詳細に説明したらしい。そして、そのことに興味を持った教授が、リータを無償で検診する代わりに、リータのあの発言について、少し調べさせて欲しい、と提案してきた。僕はその提案を二つ返事で承諾した。

「さ、リータさん、こっちにかけて」

 教授はリータを、隣の椅子に座らせた。と、ほぼ同時に奥から白井がやってきた。これで四つの椅子がすべて埋まった。

 教授は、パソコンと接続してある端子を、四角形の機械から抜き取ると、リータのうなじにあるソケットに差し込んだ。リータの瞳が、ホワイトから美しいレッドに変化する。接続を意味する色彩だ。

「そういえば」

 と、教授は始める。

「あなたのお母さんの事件、聞きました。今からちょうど、五年前のことだね」

 僕は一言も発さずに、教授の言葉を待った。

「実は」と言葉が次ぐ。「きみのお母さんと僕は、大学の同期だったんだ」

 意外だった。その計算を当てはめれば、教授はすでに四十代を超えているということになる。

「きみのお母さんは、本当に優秀な生物学者だった」

 教授はキーボードを時折、思い出したようにタイプした。

 長文を追っているのではなく、必要な部位に、必要なだけのアルファベットを組み込んでいる。その姿は、遠洋漁業の漁師が、鰯の群れの隙間に網を投げ込む様子に似ている。

「在学中に発表した論文は二桁を超えていたよ。大学一の才媛だった。卒業後も、きみのお母さんのことは聞いていたけれど、まさか亡くなるとは思わなかった」

 惜しい人物を亡くした、と言って、教授は「F」のキーをタイプした。

「きみのお母さんは、植物も好きだったけれど、それ以上に本が好きだったね」

 教授は懐かしむような目をする。

 その瞳には、いったいいつの時代の母が映っているのだろう。

 僕は少しだけ、教授のことを羨ましく思った。思い出しきれないほどの母との記憶が彼にはあるのだ。僕にはない思い出が。

「そうだ、僕は一度、本を貸してもらったことがある。梶井基次郎の『檸檬』という本だった――知っているかい?」

 いえ、と僕は首を振る。

 そんな本は、母の書斎にはなかったはずだ。

 その反応が不思議だったのか、教授は少し首を傾げる。

「じゃあ、菅原孝標女の『更級日記』は? 奥野他見男の『大学出の兵隊さん』、幸田露伴の『野道』は?」

「それならすべて読了しています。母の書斎にあった本です」

「なるほど、それだけ分かれば十分だ」

 教授は言って、視線を壁に這わせる。

「きっときみは、お母さんの書斎の本を、すべて読破しているんだろうね」

 その通りだ。

 僕は、母の書斎の本をすべて読んでいる。太宰治も、北原白秋も、中原中也も、すべて読み終えていた。けれどそれが、いったいどうしたというのだろう。

 唐突に、奥の扉が開いた。

 クリアロイドだ。

 けれど、白井のホーツではなかった。そのクリアロイドは、白衣のようなドールによって作動している。目は青く、裸足だった。丁寧な所作である。手にはお盆と、四杯のコーヒーが置かれている。

「ああ」と教授が言って、振り返る。

「私のクリアロイド、〈ヴィヨン〉だ。二世代前の機体」

 ヴィヨンは小さく会釈をすると、僕と白井、それからリータ、教授の前にコーヒーを置いた。

「私はクリアロイドですので、コーヒーはいただけません」

 とリータが言った。

 ヴィヨンは小さく首を傾げる。当然だ。二世代前の機体は人間とクリアロイドを判別することができない。

「下がっていいよ。ありがとう、ヴィヨン」

 教授が言うと、ヴィヨンは静かにその部屋を後にした。教授はそれを確認してそれから、リータのまえにあるコーヒーを自分のほうに寄せた。

「ヴィヨンの良いところは、私がコーヒーを二杯飲めるところだね。リータさん、もらってもいいかな」

「はい、どうぞ」

「ところで、リータさん」

「はい」

「きみ、梶井基次郎の『檸檬』を読んだことは?」

 リータは一拍、発言のタイミングを遅らせた。

 そして静かに、そして明瞭に言った。

「あります」

 ……ある?

 僕は書斎の様子を思い出す。

 梶井基次郎。

 そんな作家の本はなかったはずだ。

 教授は続ける。

「『Kの昇天』、『城のある町にて』『冬の蠅』『器楽的幻覚』『犬を売る路上』『カッフェー・ラーヴェン』は読んだことがある?」

 リータは少し黙る。

 そして、

「はい」

 と。

 肯定した。

「すべて読んでいます」

「今並べたタイトルは――」

 と、教授が僕を向く。

「すべて、梶井基次郎の短編のタイトルだ」

 そして一口、コーヒーをすすると、「けれど」と始めて、隣に座っている白井のほうを向いた。

「白井くん、今、僕が並べた小説のタイトルのなかに、ひとつだけ間違いが含まれていたことに気付いたかな?」

 間違い?

 僕は思考する。

 クリアロイド――それも、最新機種に近いリータが、タイトルを間違えるはずがない。

 どれだけ難解なタイトルでも、クリアロイドは、一度学習したデータはすべてきちんと記憶している。教授が間違ったタイトルをあげたのならば、リータはそれに気づいたはずだ。そしてきちんと否定しただろう。

 けれど同時に、そういった常識を突く盲点の存在に僕は気付いていた。

 もしも、仮に――リータの読んだ本に、

 もしそうなら、リータは誤植をそのまま学習する。

 間違いを完璧に記憶する。

 白井が、教授の言葉に応えた。

「はい。梶井基次郎さんの小説に――『犬を売る路上』なんてものは、存在しません。正しくは『犬を売る露店』です」

「その通り」

 教授がうなずいた。

「きみのお母さんから本を借りたとき、僕もその誤植に気付いてね。今の時代、この手の誤植は本当に珍しかったんだ……そして、だからこそ、リータさんが読んで、学習した梶井基次郎の短編集を特定することができる」

 教授は、手元の小型ディスプレイに一冊の本の表紙を表示した。短編集のタイトルは『檸檬』。

「さきほど並べたタイトルはすべて、この『檸檬』に収録されている作品だ」

 教授はディスプレイに触れ、表示情報を切り替える。

「そしてこれが、その目次。ほら、『犬を売る路上』になっているだろう?」

 でも本当に注目すべきは、ここじゃない。

 教授は言いながら、その部分を指で示した。

「さきほど挙げたタイトル以外に、もう一編、この『檸檬』には短編小説が掲載されている」


 そこには、『桜の樹の下には』というタイトルがあった。


「……桜」

「この小説は、こういう文章から始まる。『桜の樹の下には、屍体が埋まっている』――と、ね」

 教授は続ける。

「けれど今の時代、桜はとても貴重な品だ。桜を一度も見ないまま死んでいく人も、きっと少なくはないだろう。きみも、そしてリータさんも、桜を見たことはないんじゃないかい?」

「……」

 確かに、その通りだ。

 写真や絵では見たことはあるけれど――桜そのものを見たことはない。

 そしてそれは、リータにしても同じことだ。

 教授は襟を正す。

「ここからは僕の推論でしかないのだけれど」

 そしてまっすぐに僕を見た。

「クリアロイドは――人間を、守るように作られている」

 知っている。

 クリアロイドは、人を害することを避けつつ、人が傷つかないよう守るようにできている。だから極端に自意識というものを排除するし、人間の気分を損なうような言葉は積極的に避ける。

 だから、クリアロイドは「桜が嫌い」だなんて台詞は言わない。

 言えないのだ。

「だからこそ、僕は、リータさんの『桜が嫌い』という発言は、きみを守るためのものなんじゃないか、と思うんだ」

 僕は驚く。

 僕を守るため?

 どういう、ことだろう。

「もっと言えば、リータさんが梶井基次郎の短編集を隠し、きみの目から遠ざけたことも、きみを守るための行為と言える」

 隠した?

 遠ざけた?

「リータが?」

 僕を守るために?

「そう」

 教授はうなずく。

 そして僕の過去を暴いた。

「きみは――浮遊墓に乗ったことが、あるんじゃないかい?」

 きみが、きみのお母さんに会うために。


 ・D・


 空。

 緋色の空に浮遊墓が這っていくのを、ぼんやりと眺めていた。褪せたフィルムのような色だ。けれどその視線は、どの景色をも見透かすことは叶わない。

 浮遊墓。

 上空にあるとされる空挺墓地の、きっとどれかに母の骨がある。母の名があり、母の記録があるはずだ。

 14歳の僕は、浮遊墓に乗って、空挺墓地へ侵入を試みたことがある。明確な法律違反だ。それに、危険な行為でもある――浮遊墓はドローン飛行だ。当然、安全ベルトなど存在しない。墜落すれば命はない。

 だからこそ。

 リータは桜を忌避した。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている」

 ――という文章から始まる、梶井基次郎作『桜の樹の下には』。

 これを読んでリータは、桜の樹の下には死体が埋まっていてもおかしくはないと、そう学習したのだ。

 リータは桜を見たことがない。

 インターネットさえあれば、桜の写真くらいは見ることができるかもしれないけれど――桜が貴重品となっている現代、桜を実際に見たことのないリータは、『桜が今、どこに植生しているのか』を知ることができなかった。

 だから、「桜の樹の下には」を読んだとき、リータは――『死体のある場所=桜の生えている場所』であると仮定したのである。

 つまり、空挺墓地。

 そこに桜があるのだ。

 前述の通り、僕のような一般人が空挺墓地に行くには、浮遊墓に乗り込むしかない――リータのなかで、『桜を見に行くとは、すなわち浮遊墓に乗りこみ、空挺墓地へ向かうこと』だった。

 浮遊墓に乗り込むことは、危険であるし、違法行為だ。

 クリアロイドは人間を守るようにできている。

 リータは、僕を守るために『桜が嫌い』と述べたのだ。

 桜が好き、と述べれば――後の展開として、「ならば見に行こう」という文脈は正しく成立する。リータは、僕との会話から、死体や墓地、というワードが生まれることを避けるべく、桜そのものを忌避したのだ。

 僕が浮遊墓に乗らないように。

 僕が空挺墓地に行かないように。

 僕が死体を見つけないように。

 桜の樹の下の――死体を、見つけられないように。

 人工知能というものは、学習する機構である。ゆえに、間違った解釈をすることも、誤った認識のままでいることも多くある――コメディコミックスばかりを学習した人工知能が「急いでいる人間」を描こうとするとき、どうしたって多足の人間を描いてしまう、という話はあまりにも有名だ。

 人間は学習のために助走する。最初から方程式を学習する人間はいない。

 けれど、人工知能の場合は勝手が違う。学習のスピードが速すぎる。

 それに、人工知能は間違いを恐れない。

 誤りを惜しまない。

 だから各段に成長できる。

 けれどそのために、間違いは正されなければならない。

「ご主人様」

 リータが後ろからやってくるのが分かる。

 母がいなくなって、リータだけが家族だった。

 銃声の記憶にうなされたとき。

 身体が震えて動けなくなったとき。

 彼女だけが、僕のそばにいてくれた。震える僕に身を寄せて、手を握っていてくれた。僕はあの頃、暗闇にうずくまって消えようとしていた。彼女だけが僕に気付いて、そばで最初のマッチを擦った。

「リータ」

 と僕は振り返る。

 そして彼女の手をとった。

「大丈夫。僕はもう、自分を危険に晒すような真似はしない」

 リータは一瞬きょとんとして、それから僕の手を握り返す。

 それは、どういう意味を持っているのだろう?

 その微笑は、視線は、手の温もりは、いったいどういう意思を持つ?

 生きているのか?

 死んでいるのか?

 そもそも、生命という概念もないのか?

 こんなに近くにいるのに、それすらも分からない?

 ずっと分かることはないのだろうか?

 どうして? どうして? どうして?

「リータ。きみは――桜が好きかい?」

 僕の質問に、すぐにはリータは答えなかった。

 代わりに少し首を傾げる。いつかの誰かのように、優しく。

 そして、キャッチボールを返すみたいに言った。

「ご主人様は、桜は好きですか?」

 その言葉の緩い放物線は、僕の心のミットにぴったりと収まる。

 いつか僕が死んだとき、きみはきっと、まだ生きているだろう。

 そのとき、どうだろう。

 きみは桜を見たいと思うだろうか?

「好きだよ」

 僕は言う。

 断言する。

 恋しいと思う。

 もう一度だけ、会って話がしたいと思う。

 僕たちは生きている。

 失われたものの残像に縋りながら。

 もう戻らないものを探しながら。

 そうやって孤独を恐れて、喪失を怖がって。

 そうしてしか、僕たちは生きられない。

 生きていけないのだ。

「そうですか」

 僕の言葉に、リータは緩やかにそう答えた。

「私も、桜が大好きです」

 気が合いますね、と。

 リータが僕に微笑みかける。

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