第23話 託言な告げそ
日はとうに暮れ、夜の帳が落ちていた。どこか遠くで管弦の遊びをしている者達の、さして上手くもない琵琶や琴、笛の音が聞こえてくる。
東吾の屋敷というには小さな敷地、東の隅の、室内から庇、廊下へと格子などを取り払って放出にした静かな場所では、畳を敷き、脇息にしどけなく寄りかかる影がひとつあった。
高坏に唐菓子や
「これがほんとの清濁併せ飲むってね」
清酒の入った杯に濁酒を注ぎながら、成田琥珀はちびりちびりと杯を嘗める。
昨夜着替えた狩衣を着崩して、目には疲労の色は濃かったが、正気である。
高坏を二つ挟んで同じように座る竹村は、呆れ顔を隠しもしない。
「悪酔いするぞ」
「たまには酔いたい時もあるよ」
「その服の色はあてつけか」
「まぁね。下らないだろ」
狩衣は正装として用いる場合以外は、普段、帝などだけに許される禁色を除いて色目に決まりはなかった。ただ紫が高貴な色であるのは二千年の昔から変わらず、わざわざ
「琥珀。おい、琥珀」
「ん、ああ」
竹村東吾に呼ばれ、琥珀は意識を目の前に引き戻す。遠くから聞こえてくる音も合奏に変わっていた。
東吾が帰宅したのは日が落ちて、少ししてからだった。
「ああ、じゃない。呑みすぎてないか?」
「そうでもない」
杯をもう一度あおる。酒に強いわけではないが、たかだか数杯で酔うわけがない。
「どこまで話したかな」
「彼女が実は姫君で追われていて、琥珀も上に取引されかけたってとこまでだ。それで、彼女が託されたものって言うのは、書司の榎木が言ってた通りだったのか?」
「設計図なんかじゃなかった」
もし設計図であればと願う気持ちが少しでもあったことを恥じていた。
設計図なんかじゃなく、家族へ、妹へ宛てた手紙だった。そして、
「こんなことを図書寮は、上は隠したいっていうのか」
琥珀は、誰に聞かせるわけでもないが、呟く。
事故といわれた〈月の接吻〉が故意に行われた可能性があったこと。
何のために、というよりも、どうして、という理不尽さの感情が先にあった。
事故のために両親は死に、多くの傀儡が壊れ、資料が埋もれ、灯子は家族と離れ、琥珀の家と両親が遺したものは埋もれた。
紫は、大事な家族を失い、また今も罪悪感に苛まれている。
彼女と手紙は渡さない、と琥珀は誓った。自分自身のためにも、両親の死の真相をできることなら暴いてやりたい。
「琥珀?」
「ご免、お前を最後のとこで巻き込むわけにはいかないからさ」
「信用されてないのか」
「違うって。〈壺菫〉に来る前に相談したことがあっただろ、自殺志願者がさ、通いつめてるって」
「本亭にいたときの話か?」
「そうそう」
毎日のように図書寮に通いつめている男に気づいたのは自分だけではなかった。男は毎日、失踪や殺人、とりわけ自殺に関する本を読み、借りていく。読み尽くすと同じ本を何度も借りるのだが、彼が来る度に目に見えて痩せ、生気が失われ、体に傷跡が増えていくのに気付くのに、さして時間は要らなかった。
当時の琥珀は、本を撤去するよう上司に掛け合ったが却下され続けていた。
「そりゃ分かるさ、置いてあるのは慎重に選択された本だし、自殺幇助するために資料を置いてるわけじゃなく、色々な目的の利用者がいるんだからどんな資料も平等に扱うべきだって。選書は、勝手な基準で変えちゃいけない。検閲になるし、検閲は全体主義への第一歩だって」
自殺の本の隣には人生に関する本や、自殺未遂を犯した人間が今を生きるための本も並べて置いてあったが、男の目には入っていないようだった。
もし自殺の本が撤去されたところで、男は他の図書寮や書店で本を手に入れるかもしれないし、本の力だけで人生が変わると思うのも、変えようと思うのも傲慢かもしれない。
ただ琥珀は、書司として本の力を信じていたし、男を見ているだけもできなかった。
だから、男が興味を持つような自殺に関する本を自分でできるだけ借り続け、棚から結果的に撤去したのだ。
男は、空になった書棚を見て、通う頻度が少なくなり、やがて図書寮には来なくなった。
琥珀は、書司に許された大量に本を借りる権利を不当に用いたとして、厳重注意を受けた。琥珀自身も、自分がしたことが正しいとは思っておらず、男がやはり死んでしまったのかもしれないとも思う。
「でも東吾は言ってくれた。何が正しいなんて誰にも分からない。本当に悪いことならバチが当たる。それまで誰がなんと言おうと、胸を張っていろって」
「そんなこと言ったか? 俺が?」
「言った言った。自分の決め台詞くらい覚えてろよ」
「若かったんだろうな。いや、青いか」
「今も若いだろ。第一年齢もちょっとしか違わない。お前がおじいちゃんなら俺はおじさんだ」
「大分違うな」
ともかく、と琥珀は言葉を続ける。
「俺は救われた気がしたんだよ。そん時に、絶対に俺はこいつを裏切らないって決めた」
信用する、巻き込まない。大事だからこそ。
「大抵のことは巻き込むとかそうじゃないとかじゃなくて、一緒にやりたいけどさ。こればっかりは無理だ」
「そう言いながら、発掘作業も勝手にやってただろう。止めるのも聞かずに。実家だけなら十分分かるが、見つからないからって他の傀儡まで」
「そうだったな」
ふと東吾は杯を置いた。
「〈月の接吻〉、か。大分ましな顔になったな。あの女のお陰か?」
「あー、灯子さんには、親が死んだときから助けられてるからなぁ」
「そっちじゃない。姫君の方だ」
ぶっ!
「おい、噴き出すな。汚いだろう」
「お前なぁ、何でそうなるんだよ。違うって言うのも違うけどさ、短絡的だろ」
するめを噛み千切る。
「ふよ──那賀川は依頼人だよ、ただの」
「お前、彼女のこと好きか?」
「なっ、なんだよ急に」
酒を噴出すのをこらえて、気管に入ってしまって、げほげほむせながら、否定する。
東吾は面白いものを見る目をしている。
「でも嫌いじゃないだろう?」
「嫌わなきゃまずいんだろうけどなぁ、立場上はさ。ハタから見たら親不孝者だ。間違いなく悪人であれば嫌えたんだろうけどむしろ善人だし」
「善人だから好きになるわけでもない。善人でも、いや善人だからこそ嫌うときもある」
吐き捨ててから、東吾は庭に目をやって、暫く黙っていた。
前から東吾にはこういうところがあったな、と琥珀は思い出す。考え過ぎるというか、潔癖というか、自罰的というか、自分を俗物だと信じているというか。それから琥珀に対してどこか遠慮があるような気もするところも。
「琥珀」
「んー?」
「彼女は俺が貰って良いかな」
ぶっ!
今度こそ、琥珀は噴き出した。
慌てて杯と袖で抑えて、被害を最小限にとどめることに成功はしたが、
「ごめん、きったないな」
苦笑いしながら始末をする琥珀とは対照的に、東吾はひどく真面目な顔をしていた。
「琥珀、俺はお前を──」
「あのさ、俺が許可出すもんじゃないだろ」
それに気づかず、琥珀は唇を懐紙で拭って、最後の酒を杯に注ぐ。
少しの間があって、東吾は時計を確認すると、立ち上がった。
「時間だ。そろそろ行くよ」
「どこに?」
「今日も夜勤だ。それまで仮眠する」
「そうか。──で、さっき何か言いかけてなかったか?」
「大したことじゃない」
「悪いけど、頼む。また明日な」
「ああ」
琥珀は最後の一滴を飲み干して、皿の上のものを平らげると、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。
心地よい夜風が頬を撫でていく。管弦の音も曲を替え楽器を代え続いていく。
酔ってはいなかった。酔いたいときもあるとは言ったけれど、酔いたかったけれど、実際にこんな時に酔うほど暢気じゃない。
ぺたんぺたんと足袋の音が廊下を通っていく。
僅かだけあった榛名諒という人物への疑念は手紙で解消された。彼もまた傀儡でありながら紫を家族のように思っていたということだ。
同時にそれは恐怖でもあった。傀儡が全く人間で同じであることは、人の心まで偽者のような気分にさせてしまう。
琥珀が浮遊都市が落ちた時に傀儡の発掘に拘ったのは、傀儡のためではなかった。
ただ両親の遺志を掘り起こしたいだけだった。
傀儡に対して可哀想だという感情はあったが、悲しみはなかった。
「聖人じゃないからな、何も返せてない」
容姿は美人でも可愛くもないが誠実で凛とした、あの美しい姫君を癒し受け止めて与えるのは傀儡からの手紙だ。
もともと部外者ではあるから何ができるわけでもないのだけれど、
「書司としても人としても」
ついでに、男としても。
「誰そ彼に染むる衣を鴨頭草の」
黄昏の色に、そして誰そ彼――彼が誰と問っても勿論榛名諒のことだ――の色に染まっている衣の色が、鴨頭草の縹色の襲に見えたとしても。
朝咲いても夕方にはしおれてしまう鴨頭草のように。また、月草の別名のように満ち欠けし、露草の別名のように色移りも葉に乗る露も儚い、一瞬のことだから。そして縹草と呼ばれるように染められた美しい縹色は、水に溶けて色が変わりやすい。染め物の前段階として使われても、他の色に染まった衣を塗り替えることはなく。
「託言な告げそ我が異心」
一瞬の私の余計な、或いは両親を蔑ろにしてしまうかもしれない浮気な世迷いごとを、心を告げてくれるな。
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