第22話 琥珀の遺言

 琥珀が本に夢中になってしまってから、紫は一度、灯子の様子を見に隣室に足を踏み入れた。

 周囲を壁に囲まれた昼でも暗い部屋の中で、中に綿を詰めた広い茵の上に彼女は横になったまま、足音に気づいたのか、瞼を開く。


「今、お茶でも持ってきますね」


 引き返そうとした背中を、弱々しい声が引き留めた。


「芙蓉ちゃん、待って」

「はい」

「芙蓉ちゃんで、いいのよね」


 そうなのだ。今朝の一件で、那賀川の中君とか姫君と呼ばれてしまっていた。那賀川芙蓉でもおかしくはないのだが、中君とか、攫ったのが罪とか言うからにはそれ相応の身分であろうことはばれてしまっていて。それ相応の身分の場合、下の名前だけを周囲に言いまわったりはしないわけで。

 困惑が伝わったのか、灯子は少しだけ戸惑ったように付け加えた。


「いいのよ、本当の名前なんてどうでも」

「巻き込んでしまって本当に申し訳ありません」

「いいのよ、それも。すっごく怖かったし、うん、今もまだ怖いんだけどね、琥珀ちゃんが信用して連れて来てくれたお客さんだもの。私もね、琥珀ちゃんにはすごくお世話になったのよ」

「……そうなんですか?」

「私の夫は役人でね、もともと浮遊計画の現場の工事監督の一人だったの」


 びくん。突然出た浮遊計画の単語に心臓が驚く。


「工事が失敗して、彼は別の都市に行くことになって。一緒に来ないかって言われたんだけど」


 断ったから今ここにいるということだ。


「勿論ね、行きたかったのよ。だけど私がいなくなったからと言ってすぐに宿直所に代わりの人間が来るわけでもないし、どれだけの被害があったのかも良く分かっていなかったから、避難所として提供するはずだったの。実際救助の人たちも寝泊りしたわ。琥珀ちゃんは救助もした上で増える一方の私の仕事を、特に力仕事を手伝ってくれたの」


 事故直後、琥珀が救助隊の一人として派遣されてから、彼が朝も夜もろくに休みを取らずに働いていたのは、周囲の人間なら誰でも知っていることだ。人的被害が殆どないと分かると図書寮は書司の支援を殆ど打ち切ってしまったが、それでも。


「断ったのはね、でも、それだけじゃないの。事故があった夜、私は、事故近くの場所にある夫の部屋にいたのよ。そしてあの事故があった瞬間、地響きが起こったわ。私は小さい女の子が泣いている声を聞いて、彼を置いて一人で外に出てしまったの。後ろを振り返ると浮遊都市の破片が部屋を直撃し、彼は怪我をしていた」


 女の子は親とはぐれて避難が遅れていたのよ、と淡々と語る。


「今でも分からないわ。自分が可愛かったのか、小さい子とはいえ、見も知らない人間を助けたいと思ったのか。どちらにしろ夫を見捨てたの。だから離れて暮らすことにしたの」


 ずきん、と胸が痛む。


「後悔はね、してないの」


 自分が決めたことだから、と灯子は寂しげに笑った。


「でもね、私が私自身を許せる日は来るのかしらね」


 紫は開いた口を、しかし何も言葉を発しないでそのまま閉じた。

 失望させたかもしれない。


「ごめんなさい、辛気臭い話をしてしまって」


 そんなことはない、私は──。


「だから私は刃を向けられた時、すごく怖かったけれど、どこか、ほんの少しだけ、ほっとしてしまったの。これは罰じゃないかって。罰を受ければ罪から逃れられるんじゃないか、って」


 灯子は体を起こすと、手早く中央に据えられた火鉢の火を、こよりで燈盞に移し取った。早春とはいえ梅の蕾もまだ固く閉じた季節に、こよりに染みた油の、仄かな菜の花の香りが光と共にじんわりと闇に広がる。

 薄暗がりに、燈台の灯りがぼんやりと光を投げかけた。


 私は、と紫は思う。私はいつも思っていた。死者に詫びる術はない、と。それは義兄と呼ぶべき人の屍を目の前にして実証された。

 だが詫びるべき人間を目の前にしても、言葉を持っていなかった。

 私のために不幸になった人間がいる。なんと言えばいい。それとも言う気があるのか?

 この私に向けられる優しい微笑みを諦めることができるのか?


「灯子、さん」


 名を呼ぶことが許されるのか?


「あなたを、私が」


 不幸にした。これが私の罪か。

 人間に殆ど被害がないと発表されていても、多分彼女だけでなく、多くの人がこの事故で何かしらの傷を負ったのだ。有形無形に関わらず。

 たとえあの事故が故意でも、私自身がした罪は軽くなるわけもなく、この先何度も思い知らされていくのだろう。

 沈黙が降り、火が燃える音だけがしばらく続いた後、紫は居住まいを正すと、聞いてください、と言った。


「申し訳ありませんでした。私のふようという名は、偽名です。私の本名は那賀川紫です。正五位下、右衛門大尉兼任検非違使大尉。浮遊計画に賛成していました。完成するはずの浮遊都市で、設計にあたっていた友人の榛名諒と会うためにここに来ました。私が持っていた、あの、壊れてしまった傀儡です」


 灯子は、目を丸くして目の前の少女を見つめた。親にしかられる子供のように身を硬くして、きゅっと手を膝の上で握り締めている。


「そうなの。武官だからあんなに脚が早いのね」


 ふわりと、だが、彼女は紫に笑いかけた。目を丸くするのは紫の番だ。


「芙蓉、じゃなくて紫ちゃんね。ごめんね、さっき私があんなこと言って、辛かったでしょう」

「そんなこと!」

「気にしないでね、あれは私のことだから。後悔してないって言ったの、本当よ。もし後悔したとしてもね、自分のしたことを他人のせいにしたくないわ。後悔するなら自分のことがいいわ。他人のことは無理に変えられないけど、自分さえ変われば、自分の未来はどんな風にでも変えていけるものよ」


 ちょっとお説教臭いかしら、ととぼけたような口調で付け加える。


「でも、検非違使なら、犯罪を取り締まる仕事でしょう。何とかできないかしら」

「身分を相手が考慮してくれるなら、です。それに実は休暇中なんです。検非違使の権限はそうそう行使できません。使うなら決定的な瞬間でないと」


「もしかして、仇討ちをするつもり?」

「私自身は、計画の実際の技術的な面とか組織とか、詳細は知らなかったんです。技術者じゃないからって棚に上げていて。自分のお尻ぐらい自分で拭かないと」

「仕方ないわ。職務分担するのが普通よ。全部できる人なんていないわ」

「あと、私が追われる理由も少しずつ分かってきてますから」

「……琥珀ちゃんをよろしくね」

「はい」


 紫は、ただ頷いて隣室に戻った。

 そして言われたように、琥珀が本を読んでいる間、ずっと、考えていた。

 状況に油断はならなかったし、何度も何度も思案を重ねても、事態を劇的に好転させる手だてなど見つからなかった。

 この件が片付けば、政治的に庇えるけれど、今のままでは多勢に無勢だ。


 成田琥珀という人はだから、今までの自分の地位とか環境を壊すことを厭わないほど、あまりにも善良だった。

 紅顔の美少年という年齢でもないけれど、どちらかといえば男らしいというよりも可愛らしい中世的な顔立ちをしているのに、どこか凛々しいのは、自分で道を選んできたという自負から来るものなのかもしれない。

 私にそんな覚悟はなかったな、と彼女は思う。

 墜落の犠牲やクビになる心配のない安全なところから、大した覚悟もなく浮遊計画を進めて、今安全でなくなっても、他人に頼っている。


 もう少ししっかりしていれば、諒は死ななかったんじゃないか。他人任せにしていたツケを押しつけて殺しただけ。

 刀は斬るためにある。斬るための技術を学んだ。武官になった。政治よりも刀を振り回していた方が楽しかった。勿論、最初の動機は、文官肌の多い家族の中で武官としてコネを作っておくこと、家族をはじめとした暗殺や反逆の抑止力になろうという思惑からだ。


「それは私が本当に誇りを持って、胸を張ってしたいこと」


 だったのか。成田琥珀を見ていると、全く違うようにも思えてくる。

 そう、政治は手段でしかない。私は手段に誇りを持ってこなかった。甘えていたから、これは本当にやりたいことじゃないからって。政治に介入できる身分と力を持つのであれば、持たない人に変わってやり遂げるべきことが沢山あるはずなのだ。

 喰うか喰われるかという世界だけれど、だからこそ。


 成田さんや灯子さんや竹村さんがそのまっとうな人生をおくる上で何者にも脅かされない世の中にしたい。


 覚悟を決めて、目の前の箱の蓋を開ける。目を閉じて、どこか安らかな顔で眠る諒の、分断された胴の中に手を入れる。落下の衝撃のせいで、木製の内蔵は簡単に取り除けた。傀儡の心臓、短い笙の形をした“木霊”を取り出す。遺書の“自分に刻みつけてみせる”という一文を思い返す。吹き口に唇を当てて息を吹き込むと、からからと音がした。

 深呼吸を一つ。小刀で“木霊”を割る。


 中には、陸奥紙の紙片が入っていた。慌てて開くと、中央に穴の開いた琥珀が入っていた。諒の物ではない、と直感する。くるんでいた紙は、手紙だった。

 琥珀は紫の手のひらから、琥珀の球を取ると、紙片を開いた。


                 *


  私たちの息子へ。


  あなたは、今、榛名氏の家族と一緒にいるのでしょうか。手紙を見つけてくれているのでしょうか。きっと読んでくれていると信じて書きます。

 

 もしかして、後悔なんてしていますか? あなたのことだから後悔しているでしょうね。互いの仕事に干渉しなかったことも、避難を確認しなかったことも。でも、私たちは今も後悔はしていません。


  読んでくれていると思っているのは、親馬鹿でしょうね。あなたなら気づくと、信じきっているのですから。



  そう、予想通りです。知っているとおり、植物の再生を目指していた私たちは、初めての栽培を、月光庭園の上で試みようとしていました。

 仕事をクビになってから〈壺菫〉に引っ越したのは、資料や外部干渉が少ないことに加え、浮遊実験があるからこそ、だったのです。空気の清浄な場所で、傀儡に守られた植物の種と苗を少しずつ育て、ひねくれてしまった植物たちとの架け橋にするつもりでした。


  幸いにして、一体型である榛名諒氏を始めとする、傀儡たちの理解と協力を得ることができ、彼らの中で種や苗を育てる実験を続けていました。


  琥珀、あなたが積極的に何かをする必要はありません。たとえ実験が失敗しても、このことにいつか他の心ある学者や政治家が気づき、あなたに情報を求めるでしょう。


  その時に、あなたが信用できると思った人に、この話をして、家に遺した資料をあげてください。それだけが願いです。寂しい思いをさせてきたのに、最後までこんなお願いでごめんね。


  


  この琥珀は、昔まだあなたが生まれてもいない頃、現色の森で見つけました。中に閉じこめられた植物の種は、研究の基礎となった大事なものです。あなたの名前は、ここから採りました。


  最後に、父さんと母さんから一言ずつ。




  思った通りのことをやって、思ったように生きればいい。ただ伴侶には母さんのように、弱音を吐いたときに引っぱたいてくれる女性を選びなさい。──父さんより


  仕事ばかりに根を詰めないで、毎日ちゃんとお風呂に入って、歯磨きをして、睡眠時間は毎日最低六時間は取りなさい。好きなおかずと味付けは、灯子さんに教えておきました。風邪引かないように体に気をつけてね。──母さんより




  元気でね。


                 *


 ころんと掌に乗っかった琥珀の玉を、灯りにかざし確かめる。

 中に小さな黒い種子が入っていた。手の中に握り込む。

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