第21話 遺言の在り処

 どれくらい駆けただろうか、鬼ごっこは不意に終わりを告げた。

 薄暗い裏道に人が立ちふさがっていた。

 脇を駆け抜けようとして、琥珀は立ち止まった。というより立ち止まらざるを得なかった。

 男は黒表紙の分厚い本に手をかけていた。本はある頁を開いている。


「探しましたよ。さあ、大人しくしていただきましょう」


 例のLC社の三等書司が、微笑に毒をこめ、さして大きくもない声で、三人の動きを止める。


「名も名乗らぬ無礼者に付いていくいわれはないわ」


 息切れをしている二人を背後に庇いながら、紫は前に進み出た。


「では、榎木とでもお呼びください」

「榎木、そこをお退きなさい」

「覚えていただいて光栄ですが、呼び捨てはいただけないですね」

「敬称が必要な相手ならそうするわ」


 琥珀はばくばく言う心臓の鼓動を何とか押さえようと激しく口で呼吸しながら、膝に突いた手をゆっくりと腿に移動させ、上体を起こした。

 彼女が相手をどうにかできるとしても、足止めされて多勢に無勢になるのは不味い。役人同士での斬り合いは御免だし、捕まるのはもっと御免だ。


 何とか息を整えて、琥珀が次の言葉を発する前に、紫の手が翻った。

 取り出された目録札に滑る筆の音と、それに小さな呟きを突き破る。

 音を突き破った小刀は、しかし相手に届くことはなかった。

 牽制だからと避けられるものではないが、それをひょいと体をひねって避けてみせたのだ。


 続けて二本目の小刀を放とうとして、ためらいが生じた。理由はない。ただ、危害を加える気が無くなったのだ。

 のろのろと進む指を書司は近づいてくるとひょいと捕らえて、


「本気を出してみてください」


 顔の前に持ち上げてみせる。


「お望みなら」


 紫はそれを聞いて、笑った。


「罪なんて捕らえてからいくらでもでっち上げられるとでもそちらの偉い人は思ってるんでしょうけど。捕まえなきゃ意味ないわよ」


 手を振りほどき、その手で逆に手首を掴むと、ぐいと地面に押し付ける。彼女の目は琥珀と灯子を先に行くよう促していたが、琥珀はようやく首を振った。書司の目が燃えていた。


「よくも土に這わせましたね」


 長い脚が地面を蹴り、不安定な姿勢のまま脚払いをかける。

 飛び上がった紫が押さえつけていた手を離すと、それを機に立ち上がり、構えを取るまでもなく腕を振るった。

 完全に予想の外で、油断のあった紫は何撃かを後退しながらしのぐと、体制を整えて、相手の肩に向けて拳を突き出す。


「駄目だ」


 琥珀は声を上げた。

 普段の彼女の動きであれば、書司は回避できなかったろう。だが、先ほどの〈分類〉が動きのキレを奪っていた。

 書司が体を半回転させて一撃をかわす。

 そして相手が袂から手を出して見えた銀の輝きは。

 はじめに紫が放った小刀が手にあった。振り上げられる。

 まずい。


「那賀川!」


 琥珀は地面を蹴った。

 彼女の腰を抱いて、地面に転がる。土の味が舌に苦かった。

 ──しかし次の瞬間も、小刀は振り下ろされることはなかった。


「私に黙って勝手なことするんじゃないわよ!」


 声のした方を、地面に倒れたまま二人は振り向いた。

 静止したのは、くせ毛の長い黒髪を馬尾に結った女性だった。片手を腰に当て、もう一方を榎木にぴしっと突きつけている。

 琥珀には勿論、紫にも見覚えがあった。昨日、都で〈壺菫〉への旅券をくれた張本人で、成田琥珀が“姐さん”と呼ぶ姉弟子。


「この私が来たからには何にも心配要らないわよ」

「間の悪い女だ」


 榎木は眉をひそめた。

 逆に梓は意味なく胸を張る。


「都合良くの間違いでしょう。正義の味方はこうでないとね。ま、あんたに言っても分からないでしょうけど。つか、それより、何いつまで抱き合ってるのよ」


 柔らかいものをまだ抱きかかえているのに気付き、琥珀の顔が朱に染まり、照れ隠しに咳き込みながら上体を起こした。

 ていうか、嘘じゃなく、口の中がじゃりじゃりする。


「貴方のことは聞いてますよ。従八位上中務省図書寮大允にして一等書司の桂城梓さん」

「何を聞いたかしらないけど、ろくな話じゃなさそうね。で? 藤原路草はなんて言ってた?」

「ご存じでしたか。ですがここに来られるとは状況をご理解されていらっしゃらないようだ」

「ふん、猩猩の思考が人間に理解できると思って?」


 琥珀は身を起こして、胸を張り続ける“正義の味方”に言ってみる。


「姐さん、巻き込んでしまって済みません」

「いいですか、桂城大允。彼女は、書司に助けてもらえるほど立派な人間では──」


 梓は榎木の言葉を遮ると、申し訳なさそうな表情をする紫に向けて、無意味に胸を張った。


「大体は見当がついてるわ。そりゃ責任があるでしょう。でもあんただけじゃないはずよ。それを忘れようとするのは止めるのね。できることをした、そのことに胸を張ってなさい!」


 姐さんが胸張ってどうするんですか、という琥珀のツッコミをきれいに右から左に流して、


「なんとしてもしたいことがあるなら、周りを踏み台にするくらいで丁度いいのよ」


 何を馬鹿な、と榎木は今度こそ声を大きくして言う。


「ずっと踏み台にされてきた貴方が、何をおっしゃいますか」

「何のことよ」

「有名な話じゃないですか。一等書司に関わらず出世下手。万年二番だった貴方が一番になれたのも友人の不幸の上に成り立っている」


 榎木はにやりと笑った。


「貴方の前に二を、いえ“二藍”を冠した男性がいたじゃないですか。一を冠した女性も」

「それがあんたに何の関係があるっていうの?」

「二人は貴方の友人でしたが、ある日突然駆け落ちし──」

「寝言は寝て言って。根拠がどこにあるっていうのよ」


「どちらでもいいでしょう。とにかく二人は忽然と消えた。一の女性はあまりにも卓抜してたから、他の人間を据えるのに書司たちが気後れして、今も欠番ですが、二は」

「確かに馬鹿どもが勝手に呼んでるけど、私は認めた覚えなんてないわ」

「必死だって、随分噂になってましたよ」

「この私が必死ですって?」

「違いますか? 仕事を休んでまで、図書寮はもとより、あちこち駆けずり回ってたそうじゃないですか。“二藍”日向君を探し回って」


 そこまで言って、梓の目が殺意を湛えているのに気づき、言葉を止める。


「それ以上御託を並べると、口を引き裂かれて一生喋れなくなるわよ」

「貴方を人はこう呼んでいますよね、“二藍の射手”桂城梓さん」

「その名で呼ぶんじゃないわよ!」


 ひゅんと空気が鳴り、平手が小気味良すぎる音と共に炸裂した。

 うわ、と観客と化した三人は思わず呟いた。

 榎木の頬に手の跡がはっきりくっきり刻まれたのだ。赤いなんてものじゃなかった。赤黒い。


「今度は叩かれるだけで済むなんて思わないことね」


 叩かれた相手は頬を押さえ、きっと梓を睨む口元に嘲笑が浮かんでいる。


「駆け落ち、彼に何も言われなかったんですよね。邪魔だったんじゃないですか」

「うるさい!」

「まだ執着してるんですか。無様ですね。二つ名に相応しくない」


 二藍と呼ばれる布の色は、二つの色糸、藍と紅の色を縦横に織った布の色のことだ。若年は紅が強く、高年になるにつれて藍を濃くする慣例がある。それが二に冠されているのは、二の大分類“歴史”が、理性の藍と血の紅でつづられてきたことによる。そして日向が好んで二藍を身につけていたことにも。その色の名を継ぐことは、彼がいなくなったと認めることだ。


 梓は信じていた、友人たちが何も自分に言わずにいなくなるようなことはないと。きっと何らかの事件に巻き込まれたのだと、そう思って、今も探し続けている。


 琥珀は事情の一部始終を、当然、知っていた。

 だから、姐弟子は、友人を捜す紫に旅券を発行したのだとも。

 梓は堂々と自分の持つ黒表紙の分類表をめくった。

 手馴れたというよりも、本がまるで自分自身の一部のように目的の頁を示し、筆が目録札の上を滑らかに移動する。 


「453!」


 言葉に呼応するようにぐらりと世界が傾く。激しい波の上を漂うように、五人の足下を重力がさらっていく。

 紫は即座に飛びのいて二人から距離を取る。どんな分類をしたのか分からないが、それは一等書司の、“二藍の射手”の〈分類〉の力だった。


「行きなさい、琥珀!」


 梓は大声を上げた。大声を出す必要なんてこれっぽっちもないのだが、そこが梓が梓たる所以である。

 榎木は悔しそうに駆け出す標的の背を見送ると、忌々しげに邪魔者を睨んだ。


「分からないですね。何故肩入れするんですか?」

「本亭の馬鹿どもと同じことを聞くのね。彼女には友人と会う約束があるってだけよ」

「どうせ死んでるわ」

「そうかもね。ただね、あんたは見くびってるみたいだけど、諦めない人間って強いのよ」


 不敵な笑いを梓は浮かべた。


「さあ、一等書司を見くびってくれた礼を、ゆっくりたっぷり、させて貰うわよ」





 東吾の家に着く頃には、日は既に大分高く昇っており、濃く短い影が路地といわず家々の間から軒先にできていた。

 琥珀は辺りを見回し人気がないことを確認して、家を囲む塀を飛び越え、扉の鍵穴に、家主から渡された鍵を差し込んだ。


 玄関に入り鍵を閉めると、倒れ込むように玄関に腰を下ろす。

 度々訪れていて勝手を知っている琥珀が、紫に灯子を客間に寝かせるように頼み、水を汲んで飲ませると、彼女は余程緊張していたのだろう、安心したように寝入ってしまった。

 客間の隣室、東吾が居間に使っている場所に行くと、紫が諒の亡骸をのぞき込んでいた。


「はい」

「ありがとうございます」


 差し出した湯飲みの片方を受け取って、彼女は水を飲み干した。

 琥珀は懐から取り出した、手の中の本を見た。手紙を抜かれて再び本の形を取り戻した例の『シデコブシ』だ。はじめは、本の中に仕込まれた手紙が本命だと思ったが、どうもひっかかりがあったのだ。何故こんな希少な本の存在を彼が知り、仕込もうと思ったか、だ。榛名諒の専門は建築だった。


 勿論、検索した本が修理や貸出中でもなければ、誰でも本を手にすることはできる、それが図書寮だ。ただ、込み入った本は普通の人間はまず、検索しようとも思わない。検索の単語が思いつかない。分類一覧で書名一覧が表示されても、膨大な量の検索結果では、意味の分からない単語はとばす。たまたま何かを検索して、たまたま見つけた本というには、本と出版社の背景が平和的ではない。


 他の誰かにの利用されないだろう書籍に手紙を隠そうという意図だけでなく、これを選んだ理由が何かあるはずだ。


 そもそもを考えると、本の預け先は那賀川紫だった。彼女は図書館や本の知識がない。だから難しい分類法の規則や置かれていた書棚、著者、監修者、出版社、本の物理的大きさ、使用された紙の種類や印刷技法。これらの詳細は関係ないはずだ。誰にでも分かる本の本質、それは──内容。思い至ったときに体が震えた。


 実験当日にも避難をしなかった両親。実家を構えたのは傀儡の住居地。

 頁を繰る手がおぼつかない。後書きと奥付の間に記されているはずの参考文献を探す。大量の文献。難しい名前の専門出版社ばかりから刊行されている、家の本棚で見た覚えのある書名。その下に記された両親の名前。

 琥珀は最初の頁に戻り、一心不乱に読み始める。


「……しかるに、大伐採を逃れた数少ない群生から発生する毒素は少ないことが成田両氏によって実証されている。人の手の入った経験がない群生があるとすれば、今も以前までの森が守られている可能性がある。頑固な性格のシデコブシを最適例として筆者は前人未踏の……」


 琥珀は本を読み続けた。何度も返す返す理解できるまで、辞書を引きながら、数時間かけて最後まで読み終えて、一つの結論を得た。

 ──榛名諒はその身の内に、両親の遺言を宿している。

 顔を上げたときに、目の前に、両手が差し出されていた。

 手のひらに乗った紙と、琥珀の玉。

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