第20話 逃亡
「第四分亭〈鴨頭草〉亭長をお連れしました」
「ご苦労さま」
廂から声がして、御簾が巻き上げられる。一人の男が、琥珀たちを連れてきた書司を引き連れて、部屋の中に入って来た。
彼が一歩踏み出すと御簾が再び下げらる。
三十前だろうか、落ち着いた雰囲気を持つ彼は、文官の冠に直衣をまとっている。
「初めまして」
男は立ち上がると手を差し出すが、琥珀は会釈だけに留める。
「なるほど、さすが姉弟弟子ですね。桂城大允に少し似ている」
「わざわざそれを言いに本亭から来たんですか」
「いや、初対面で失礼でしたね。どうぞ座ってください」
手前の畳を示され、二人は向かい合って座った。
今芙蓉は──那賀川紫は、ここにはいない。定められたように、隣の部屋に戻っている。
「私は、藤原路草。非蔵人です」
「そのような身分の方が、私などにご用がおありですか」
「そう畏まらないでください。私は天皇のではなく、中宮の蔵人所の人間です」
「私のような人間にしてみれば、雲上の方ですね」
しかも今の中宮は今上の気にかけることもっとも篤く、『源氏物語』の桐壺更衣もかくやというほど例のないご寵愛ぶりであるのは周知の事実だ。
「雲に隠れたのは姫君でしょうね。五節の舞姫を引き止めても無理なら迎えに行こうという魂胆でしたが」
小倉百人一首に選ばれた古い歌を引き合いに出され、琥珀は眉をひそめる。
「あれを迎えと呼べるなら、ですが」
「貴方は彼女の身分をご存知でしたか?」
「詳細までは存じていません。利用者を案内するのは、当然の職務です。逆に言えば身分は知る必要がなかったものですから」
「利用者、ですか。彼女は何か探しに?」
「利用者が何を借り、何を要求したかという質問には、図書寮の職員としてお答えできません。三百六十年近く前に成立した宣言の第三に、“図書寮は利用者の秘密を守る”とあります」
「理想的な職員ぶりですね」
「個人情報の守秘義務は当然です。図書寮で怠れば検閲、思想弾圧につながる危険があります。全体主義は国を滅ぼすと、図書寮も私も考えています」
「立派なことです」
深く頷いて、路草はゆっくりと拍手した。
「これで決心が付きました。貴方が図書寮が止めたにも関わらず、救助作業を続けたのも、その正義感があればこそだったのですね」
そんなものではない、と琥珀は思ったが、敢えて口をはさまずに続きを待つ。
だが、彼が口に出したのは意外な内容だった。
「私はね、君を図書寮の定例議会の臨時客員に推薦したいと思っているんですよ」
「な」
「仮にも一亭の亭長です、おかしいこともないでしょう?」
おかしい。
四なんて不吉な数字の付いた、今までなかった架空の役職に就かされたのは体の良い左遷でしかないはず。部下だっていないし、予算も雀の涙。
定例議会の議員は図書寮のお偉いさんや大きい亭の長で、臨時客員だって内外に影響力のある人間が選ばれる。民間人なら社長級だ。
「仰っている意味が分かりかねますが」
「一緒に隣の部屋におられる姫君をお呼びしたのは、そのためでもあるんですよ。一緒に過ごされていたのであれば推薦もいただけるだろうと。ああ、信じていらっしゃらないお顔ですね」
「にわかは信じがたいお話です」
「そうですね。それに姫君には〈壺菫〉はまだ瓦礫で危険ですから安全な場所にお連れするという意味も、ありますね」
不穏な空気だな、と思う。
「本来ここに来れる旅券はないはずです。それを貴方の姉弟子が発行している。誰かも知らない人間に発行したなんて考えにくいですよね」
桂城梓という書司の人となりを知らなければそう思うだろう。
「二人の共犯で攫った、と思われるなど心外ではありませんか?」
結局そこか。琥珀は聞こえないように舌打ちした。
彼女を渡すなら地位をやると言ってるのだ。渡さないなら犯罪者にすると。
正直、こういう駆け引きは琥珀には不得意な分野だ。打算だけで動けるほど悪人ではない。
「お断りしたら、私はどうなりますか?」
無実の罪で流罪になった人間は過去に枚挙に暇がない。さすがに“外”に追放されるということはないだろう。“外”つまり都市の外、汚染された地上に放り投げられれば、遅かれ早かれ人は死ぬ。多分、図書寮からは懲戒免職、刑罰は懲役で何年かにはなる。
「断って貴方に何か得がありますか?」
「良心の呵責に悩まされることはないでしょうね」
「ご両親が命を賭して君に教えたことはどうなりますか」
また舌打ち。相手はこっちを全部調べているのだ。
「私は私自身の良心に従うように教わったと思っています」
「寂しい思いをしたと思いますが。今度の資格試験の顔写真見ましたよ」
泣きはらした顔で写っている写真か。動揺を抑える。
「あの時私が怨んだのが政治や貴族だと、お思いになりませんか?」
「政治? 貴族? 私には、貴方が自分自身を怨んでいるように見えますが」
琥珀は、その言葉に立ち上がった。
「一介の書司の私には、もともと分かてるような大きな袂もありませんでしたね」
口から罵倒や侮辱が飛び出さないように口をきっと結ぶ。
路草は少しだけ首を傾けて、余裕ありげに微笑む。
「貴方の狩衣を見たときからそうなるとは思っていました」
紫の、高貴さへのくだらない嫌味だけでなく、姫でありながら検非違使である女の色。
表が紫、裏が淡青──緑に見える──の、その色目の名は壺菫。
「通り過ぎるだけの一夜で置いた露は、日が昇れば儚く消えてしまいますよ」
「露は菫を潤し、新しく芽吹いた葉は新しい露を置くでしょう」
「露のために葉が枯れるとしても?」
「書司は須らく〈壺菫〉の葉であり露です。露が他の露を区別するでしょうか……失礼します」
「君の能力を買っていたのですが、残念です。であれば、君の意図は無視するだけですね」
御簾が突然巻き上げられた。
足下には朝餉の懸盤が置かれている。椀が転げ、羹の水たまりが湯気を立てていた。
細い足首から褶だつものへ飛沫が散り、指は床を必死に掴んでいた。
首筋に冷たく輝く刃を突きつけられて、灯子が立っていた。
「灯子さん、どうしてここに……」
「勤務場所を臨時で変更しただけですよ。君には罪人として私の管理下にいていただきます」
彼は簀子の外の男をもう一人呼んだ。男が手にしていたのは、金属の輪の間を鎖でつないだ、重々しい拘束具だ。
「彼女を放せ。何の関係もないだろう」
「無理な相談です。君は自身だけでなく、親しい人間に及ぶ危機よりも、自分の親の仇を取ったのですよ。しかも、君は素直に、本意に沿わない命令を聞くような人柄ではないと、聞いていましたからね。無自覚に、君は人質を必要とするような人格だったわけです」
「仮にも一亭の亭長相手に卑劣な真似をするなんて、みくびってくれたもんだ」
「見くびってないからですよ」
灯子の首に刃が押しつけられる。
震える唇から漏れる細い息が小さな悲鳴に変わった。
「嫌っ」
「止めなさい!」
隣の部屋で、ものの倒れる大きな音、男達のざわめきがした。
紫が太刀を鞘に入れたまま掴み、簀子に足を踏み入れた。
「灯子さん」
驚愕の声を上げてから、彼女はぐるりと周囲を見渡し、路草の姿を認める。
直衣を纏った男は烏帽子ではなく冠を被っている。その意味に、紫は男を睨み付けた。
冠は烏帽子に比べて、公の改まった場合に被るからだ。
「あなたは……清涼殿で見た覚えがあります」
「正式には、お初にお目にかかります、那賀川家の中君、右衛門大尉兼任検非違使大尉殿。私は藤原路草。中宮の非蔵人です」
「非蔵人殿が黒幕ですか? 何故こんなことを」
「政に深く関わろうとする者には、どんな手段を使っても達成しなければならないことが、しばしばあるのですよ。あなたのお父上もそうやって、血で血を洗う政争を生き抜いてこられた。女性の身で出仕を志したなら、浮遊都市の建設に賛成をした検非違使があなたなら」
灯子の手首は後ろ手に捻られ、指先が白くなっている。
「あなたこそ、浮遊都市落下の真相など、闇に葬られた方が都合が宜しいはずではありませんか? そして、たかが下仕えの一人や二人、どうなろうと知ったことではない。それが正しいあり方です」
「なんてことを」
紫の感想には興味がないらしい。
彼は彼女が左手に抱いているそれを見つけると、心底嬉しそうに──凄絶な憎悪を込めて──笑った。
その場にいた全員が、灯子を人質にしている男さえ、全身に震えが走るような、笑顔だった。
「ソレをわざわざ持ってきてくださったのですね」
「ソレ、って」
「例の帝の傀儡師の手先ですよ。実験を成功させるために送り込まれた。さあ、ソレを渡してください」
どうするか、琥珀は紫を見た。
「嫌です」
「っ」
灯子の悲鳴が小さく上がる。刃の先端が首をつついたからだ。
彼女を拘束する男の薄ら笑いが告げた。
「座れ」
暴漢の高慢な眼と、涙でぬれる灯子の瞳の間で視線を揺らめかせながら、琥珀はじりじりと口を開いた。
「分かった。だから放せ、今すぐに」
「姫君にも、お座り頂こう」
二人は逡巡しながらも、結局膝を折った。拘束具を持った男が、琥珀の背に回り、手枷をはめようとする。
その間に、紫が割って入った。
「下がりなさい、痴れ者。目的は私でしょう? そも、何の咎で大属を拘束しようというのです。もし彼に非があれば、捕らえ罪を量刑するのが検非違使の役目。私が主上から預かった役目を怠っているとでも」
「休暇届がどうなっていると思いますか?」
「……何のこと……まさか」
「慌てて都を出ていらっしゃったでしょう。直接帝に奏しないでね。あなたの屋敷の怠け癖のある下仕を一人買収するくらい、容易いものです」
「握りつぶしたのですね」
無断欠勤。買収など予想外だったから、彼女自身都に連絡を取ろうとは思いもしなかった。
「でも、私に連絡はなかったわ」
「いや、〈壺菫〉は閉架に入る場合、書司以外の持つ携帯型通信端末以外は所定の暗号等がないと、外に接続されるないようになってる。著作権の問題で」
琥珀は首を振ってみせる。
「都に戻っても、すぐには業務に戻れそうにありませんね、姫君。そこをお退きください」
琥珀は後ろを振り返ると、彼女の苦悩の色濃く浮かぶ瞳を見た。
「……那賀川、頼む」
「でも、ここで退いては」
「俺のせいで灯子さんにこれ以上辛い思いはさせたくないんだ」
灯子の足先もまた、床を掴んで白くなっていた。余程きつく締め上げられているのだろう、体が宙に持ち上がりかかっている。
「さあ、姫君もお座りください」
路草が促し、紫が膝を折った。
その時。
「──何をしている!」
前栽の方から声が聞こえた。誰もが一瞬、そちらに目をやる。
──油断だ。
紫は、正座から瞬時に飛び上がる。静かな部屋にだん、と音が響く。
彼女は日頃の習慣で、正座の時は指を立てて座ることにしていた。
片膝を立てた姿勢でためをつくり、指を柄に滑らせてそのまま正面へ跳躍。握り込み、手首を返す。抜きざまに放った一太刀が短刀を男の手から空へ跳ね上げ、返す刀が男を袈裟に斬った。直衣の木枯らしが男の視界を視界を遮る。
再び跳躍しながら、伸ばした左手で灯子の手を掴んだ。男から奪い取って欄干を踏み台に、前栽へと飛び降りる。
牛車や背の高い草を遮蔽物にしながら走り抜ける。
琥珀もまた、その後を追った。声の主である、親友とすれ違いざま、手に堅い者を握り込まされる。
背後から、路草が東吾を問いつめる声が聞こえる。
「右手の塀が壊れてる」
「分かりました」
門の横で右に方向を変え、崩れた築地塀を乗り越える。
「何をしている、捕まえろ! 門は一つだろう」
「こちらには来ておりません!」
「あそこの壁だ、追いたてろ!」
男たちの怒声を背中に浴びる。
声の数と足音から察するに十人程度はいるようだ。
何事だと振り向く書司や職員の間を駆け抜け、大内裏を出て、半町程走ってから、三人は適当な家の隙間に入り込んだ。紫は、灯子に噛み千切った単を渡す。
「使ってください」
足袋の紫は勿論のこと、灯子の素足は泥だらけだった。
足裏に布切れを巻きながら、灯子は切れる息の下で不安げな視線を向けた。
「竹村君は無事かしら」
「大丈夫です。あいつも一等書司ですから。竹村の家は知ってますね?」
「詳しくは解らないけど、どの辺りに住んでるかは知ってるわ」
「右京の京極大路、七条、西一行北七門。小さな一軒家です。もしはぐれたら、そこで落ち合いましょう。じゃあ、そろそろ」
「そうね、行きましょう」
三人はまた走り出した。
追っ手も大人数で一緒に追うのを無駄だとみたのか、あちこちで声が上がっている。夜中だと言うのにやかましいことだ。
だが、浮遊都市跡を探索したり、大内裏まで移動するうちに、東の空は──人工の天蓋は今は硝子状に透き通っており──そろそろ白み始めていた。人も起きだす時間だ。早朝の仕事がある書司や雑役などはもう行き交い始めている。
雑役の背に草履を見つけ、小銭を手に落とすのと引き換えに引っつかむ。
灯子が履き終えると同時に、道の先で男が手を振り回した。
「いたぞ、あそこだ!」
道を引き返し、再び別の路地に駆け込む。背後から五、六人の足音が追いかけてくる。十数歩駆けたところで、前方に男が二人、姿を現した。一本道。逃げ場はない。
どんな路地でも碁盤目の町では、四隅に人を配置すれば簡単に行き先がバレてしまう。人数さえそろえば包囲も簡単だということだろう。
紫には土地勘がないから一人にもなれず、周囲を把握しながら走るのは幾分不利だが、ただ琥珀に慌てた様子がなかったので、紫も慌てなかった。
「そこを右に曲がって」
小屋と小屋の間に、人が一人通るのがやっとの隙間がある。紫は諒を抱きかかえ、琥珀は灯子の手を引いて、可能な限りの速度で走る。
女の足は、まして灯子の足は遅い。だが追っ手は肩や足を打ちつけて、或いは打ちつけないように体を斜めに傾けて走っているので、明らかに速度が落ちる。
「出たら、左に。那賀川、アレを」
「了解です」
家の間を抜けたところで振り返り、通路に立てかけてあった木材を押し倒す。二人でいっせいに、両側に、だ。木屑と土埃に混じって男の驚く声が上がる。背後は振り向かず、押し倒した木の板を出口めがけて駆け上がる。
当然二人の男は板と女性二人の踏み台にされて、つぶれた蛙のように呻いた。琥珀は殿を努めて、トドメを刺す。
薄闇の出口で地面に飛び降りる。角を左に曲がったところで、立てかけてある梯子を登り、築地塀の上で蹴り倒し、反対側の家の敷地内に降りる。
「そこがすぐ八条大路か」
後ろの追っ手は、とりあえず姿がない。進入した屋敷の南側に門はなかったから、東西どちらかの出口に回って入ってくるしかないのだろう。逆にどちらに自分たちが向かったのか分からずに追っ手を三分割したということか。
北の門に一番近いのは自分たちが走っている道だから、出口に面した通りに追っ手がいないのは当然ではあるのだが、そんなの向こうだって分かっている。
「あの」
再び紫が声を上げる。
「こちらの書司まで全員敵に回すようなことになりますか」
「いや、多分ならない」
「何故ですか」
「書司寮と図書寮は別の組織だし、誇れる図書館閉架を、利用するんじゃなくて鬼ごっこするヤツのために、協力的になれるわけがない。役職で立場のある人間が根回しされたならともかく、一般の書司は無関係だ」
灯子も答える。
「私、も、大丈夫だ、と、思います。役人、って、縄張り意識強い、から」
「専門性の高い職種の人間ほど誇り高いから、役人だけどそれ以上に書司だって思ってるはず」
だからあっちで竹村東吾と合流した場合、少なくとも灯子の保護は安心できるし、立ち回りを見逃してもらえるだろう。少なくとも、自分たちの同僚の交友関係を、他人にべらべら話したりはしないだろう。
それにしても、彼女の息が大分上がっている。それを見ている琥珀自身の息も乱れていた。
一番体力がありそうな紫も、傀儡の体を抱えながらではきついだろう。そう思ったが、
「大丈夫、まだまだ頑張れますよ。子供の頃、鬼ごっこして遊んだでしょう?」
息を切らせもせず、にっこり笑う。
「あれと同じです。一町はたったの六十歩」
「……前向きなのね」
灯子は目を丸くして、それから数秒後に噴き出した。
足首とすねをぐるぐる回し、呼吸を整えると悪戯っぽく微笑む。
「私ね、こう見えてもガキ大将だったのよ。年上の男子にだって、鬼ごっこで負けたことなんてなかったんだから」
「意外ですね」
琥珀は驚いた声を上げ、紫は力強く頷いた。
「それは頼もしいですね。じゃあ、行きましょう!」
再び三人は走り始めた。
人があまり暮らしていないため市もめったに開かれることはなく(なんといっても書庫だ)、人ごみにまぎれるようなこともできなかったけれど、昔空き地で遊んだように、何度も角を曲がり、家々の影に隠れ、
「いたぞ、あそこだ!」
男の叫び声も次第におかしく聞こえるようになって、二人は走った。
一町六十歩(約百二十メートル)、上流の貴族の屋敷が一町四方だからお屋敷を十邸も跨がない計算だ。
手を叩いて囃し立てこそしなかったが、脚は雌鹿のしなやかさで、唇に唄を乗せて、鬼ごっこはまるで夢の続き。
路地に入り込み、影を渡り、塀に上って、紫は罪を忘れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます