第19話 都にて、あんみつと上司

 遡ること数時間前。

 都〈天満月〉の下町を、萩原要は一人歩いていた。

 あちこちきょろきょろ見回し、手元の地図と見比べならがの足取りは、ゆっくりしたものだ。

 入り組んだ路地に、大きさも文字も統制の取れない、多色の看板。店で上がる行き交う人や傀儡の格好も様々だ。


 丁度遅い夕食時で、飲食店の前では呼び込みがメニュー片手に声を上げ、窓から見えるどの店の席も、半ば以上埋まっている。


 店から出てくる腹をさすった男達に近づくのは、よれた帽子を被った男達だ。奥に続く遊郭のいかがわしい呼び込みなのだろう。

 呼び込みの声や、割引券を渡そうと伸びてくる手をかいくぐりながら、ようやく目的の店の看板を見つけた。いつから掲げられているのだろうか、看板は古びて飴色のつやが出ている。

 引き戸を開けるとすぐに給仕がやってきた。


「いらっしゃいませ~、お一人様ですか?」

「はい」

「あちらのお席へどうぞ」


 手で示された手前の二人用席に座る。既に他のテーブルは埋まっており、丁度前に座っていた人間が出たようだった。


 大盛りの食券を机に置き、メニューとにらめっこをする。少し考えた末、梓が地図の端に書いていたもの通りにした──特製クリームあんみつ。黒糖の絶妙さを味わうべし。


 注文して待つことしばし、やってきたのは芸術品だった。

 透明な硝子の器の上に、滑らかな曲線を描いている模様が、舞のようだった。

 滑らかな、しかし適度ないびつさを伴った器の底辺には、角のよく立った寒天が、赤えんどう豆と一緒に、敷き詰められたのではないかというほど、隙間なく、しかし潰され合うことなく乗せられていた。


 その上には、じっくり炊きあげられた小豆の、きめの細かいこし餡。ふわふわの純白のクリームに甘すぎない黒蜜が身を半ば沈めながら円を描いている。目に鮮やかな色とりどりの大ぶりの果物は酸味とさっぱりとした甘みが清涼剤の役目を果たす。最上部に鎮座するのはバニラアイスクリーム。勿論、乙女な色合いの求肥も忘れちゃいけない。

 これらが、大きな器の縁まで芸術的な姿のために、積み木の如く組み上がっていた。


 そして、萩原要は困っていた。

 緑茶を脇に置いて、あんみつにつきものの匙を片手に、にらめっこを続けてもう三分。高さは優に七寸(約二十センチ)。どこから手を付けてもこぼれ落ちそうだ。

 周囲に目を配り、不作法を見とがめられないことを確認する。


 慣れないあんみつの最上部のクリームをすくい、均衡が崩れないことを確認して、恐る恐る口に運ぶ。乳脂肪分のたっぷり含まれたふくよかな味わいと弾力が、口の中に広がった。

 更に黒蜜を加えてアイスを一口。バニラアイスは、柔らかな甘みの豆乳が隠し味。旨味の凝縮された黒蜜によって、控えめな深い味わいが引き立っている。舌で雪のように滑らかに溶け、しかもしつこくない。歯ごたえ命の寒天はぴんと角が立って言うまでもなくすばらしい。

 まさにあんみつの女王。

 たまにならまた食べてもいいかもしれない。但し、人がいない時間帯だけど。


「それにしても、あの人があんみつを食べてる姿なんて想像が付かないんですけどね……」


 あんみつと言えば女の子の食べ物という印象が先行して、梓のどちらかと言えば男前な、無駄に尊大な態度に似つかわしくない。女性らしいのでは、なんて珍しく思った瞬間、命令だのわがままだのに想像をぶちこわされてきた。


「どうしてあんな態度ばっかり取るんでしょうねぇ」


 出世に欠かせない人望を、自ら放り出しているように見える。彼女が一等書司なのは実力のため、かつ実力を認めさせるために違いないのだが、今の大允から先の役職は、自分から捨てている風だった。

 思わず呟いてしまったことにようやく気づき、慌てて口を閉じる。


 ここに来たのは遊びでも、あんみつを堪能するためでもなく、あくまで、もう一つの目的、“大内裏の役人”の素性調査の間の夕食のためだ。

 顔写真から名前を特定するのは正直、かなり面倒くさい。衣服で大体の官職を予想し、人に当たって人物を特定し──半日かけて人名と役職だけは特定した。


 藤原路草。非蔵人。

 蔵人とはいわゆる令外官、古くは律令制で定められた役職外にある、天皇直属の秘書集団だ。


 もとは家政、つまり身の回りのことや秘書業務だけを行っていたのが次第に中務省と仕事が被っていき、今では天皇の声を直接伝える、重大な役目と権力を誇っている。殿上が通常五位で許されるのに対し蔵人は六位でも殿上できる。


 非蔵人は蔵人見習いのことで、いわゆる次期蔵人候補、選ばれた者たちだ。“六位蔵人”は勿論六位の人間が任ぜられるのだが、れっきとした役職名でもあるので、その下にいる非蔵人も六位の者も多い。ただ路草はその一般的な蔵人でなく身分の高い人間が設ける蔵人、中宮の蔵人所に勤めていた。


「相席宜しいかしら?」


 考えをまとめていると、声がかかった。

 綺麗に装った薄化粧の美女が、首を傾けてこちらを見ている。どこかの姫君か上郎女房だろうか。供も付けていないのが不思議だった。


「あっ、は、はい」

「ありがとう」


 妖艶に笑いかけられる。背後からこちらを伺っている給仕の顔も、心なしか赤い。テーブルを一拭きして水の入った硝子器を置くと、注文を伺ってそそくさと厨房へ入っていった。


「あら、いい男ね」


 美女はくすりと笑った。


「え? ええ」


 何を言ったのか一瞬理解できず、彼女の目線を見て急いで頷く。


 件の藤原路草の顔を、扇に表示させたまま机に置いていたからだ。


「あら。もしかしてあなたも彼のお仲間なの?」


 美女は何故か返答にくすくすと笑った。


「あなたも、とは?」

「ご存じない? この方。その筋では少し有名な方なのよ」

「その筋というと」

「女は相手になさらないの」

「はあ……って、ええっ?」

「私がふられて、その嫉妬で根も葉もない噂を言いふらしている、などとは思われないでね。私も……と。少しお待ちになってね」


 給仕から白玉あんみつを受け取ると、給仕がいなくなってしまうまであんみつを口に運ぶ。それから、彼女はにっこり微笑む。

 先輩の梓が逆立ちしても無理なような、少し優しげで、妖しい色香の漂う微笑みに、紅を塗った唇を開き、野太い声で──


「あなたもそうなら、今夜、どうかしら?」


 ──野太い声?


 今耳にした声と、目の前の容貌の落差に混乱する。毛も生えてないし、胸だってあるし。すこぶる付きの美女っていうのは、こういう人のことを言うに違いない。

 けれど確かに野太い、男の低い声だった。


「うふふ、私の地声よ」


 今度は元の、いや、さっきまでの女の声に戻る。


「あなたもそちらの趣味がおありならと思ったのだけど。そうでなくてもいいわ。充分、綺麗な顔立ちをしているし」


 そう言って、もう一度微笑む。

 ぞわりと、寒気がした。肌が泡だって、背中を氷が滑り落ちるような感覚。

 よもやあんみつ屋で貞操の危機だなんて全く想像してなかった。


「……こっちは何もよくないですよ」


 人の趣味に口を挟むつもりはないが、自分が対象になるのはまっぴらだ。

 というよりも。そうだ、藤原路草の噂。


「その噂、本当なんですか?」

「噂って? そうね、証拠はないわよ。でも彼が普通の公達とは違い、女性と浮いた噂がないのは事実よ。恋愛も雅の一つ、政治的手段の一つ。高官に食い込むのに、まったく何もないというのもね、おかしいでしょう」


 単に上手くやっているだけという可能性もある。が、そんな噂を立てられるような過ちを、蔵人殿が簡単にするとは思いがたい。


「男色もことさら目くじらをたてるようなことではないけれどね」


 ……ここではいそうですね、と言ってしまったら、危険な気がする。


 そう思い、要は微妙な顔つきのまま黙っていた。


「とはいえ、あの方のお父様が、男色どころか、その筋では色々と問題がお有りになったから」

「というと」

「人外に心を奪われたそうよ」


 そんな、と言おうとして、もう一度口をつぐむ。後で詳しく調査した方が良さそうだ。


「ごちそうさま」


 美女、もとい美女の格好をした男は、ぺろりとあんみつを平らげると、


「残念だわ。もっとお話ししていたかったけれど、お知り合いの方がいらしたようね。運が良ければ、また会うこともあるかしら。じゃあね」


 手を降って、優雅に歩み去っていった。

 彼女がちらりと見た先に再び視線を向けると、窓際の席に、丸眼鏡の書司姿が見えた。冬の略正装に用いる、上着は黒に金の刺繍。いや、それを確認するまでもなく、彼の顔は職業上知っているべき人物だ。


 書司寮助にして数字を冠する書司の一人“九重城闕ここのえじょうけつ”空木行成。空木の横には、彼の私設蔵人、藤原飛燕の姿もある。優雅に窓際の席に腰を沈めており、窓からの陽に、白磁の肌が赤く燃え上がっている。


「萩原君」


 あんみつの最後の一口を食べ終えて水で口直しをしようとしていた、そこを呼び止められ、要はむせかえった。


「……アレで宜しいんですか?」


 ひどく懐疑的な部下の視線に微笑で返して、向かいの席に座るよう手で促す。要は律儀に机上を片づけてから腰を下ろした。


「あの、申し訳ありませんが、仕事のお話でしたら勤務時間に──」

「個人的な話です」


 貞操の危機から救って貰った格好なのはありがたいが、また嫌な予感がする。しかも今度は心当たりがある。


「光栄ですが、私などに書司寮助がお話しになられるようなことは何もないと思いますが」

「個人的な話で済ませたい、と私は思っているのです」

「何のことでしょうか」


 しらばっくれる相手に、行成は懐から紙を取り出してみせる。


「旅券です」


 要は心中で爪弾きした。見なくても分かる、〈壺菫〉への旅券申請書だった。総務課の受付で保管されているはずの。だが、何を言おうとしているか分かっているからといって、分かっている反応をしなけらばならない道理もない。


「あなたが申請した旅券で桂城大允が、〈壺菫〉へ行きました。その件です。大允が申請した旅券で那賀川の二の姫があちらを訪問なされました。現在一般人の立ち入りにはきつく制限が掛けられていることは、図書寮では周知の事実。貴族階級の人間をみすみす危険にさらすこと、部外者を図書寮に不法な手段で立ち入らせたことは書司寮としても規律違反で罰するべきです。桂城大允が逃亡または何らかの目的で彼女に同行しようとしたとすれば、あなたの行為は、その桂城大允の、いわば犯罪幇助にあたると言えるでしょう」


「書司を育成し保護する書司寮であればこそ、その貴族、那賀川の姫に、例えば脅されて大允が発券したとお考えになられても宜しいのでは?」


 脅されて、という部分で危うく吹き出しそうになりながら自分でも白々しい台詞を続けた。


「それに、僕が大允に渡したとお考えになる必然性もありませんね」

「では何だと?」

「旅券は、情けないことに受け取ってすぐに落としましたから、その後は知りません」

「旅券を突然発券した理由が分かりませんが」

「今度の休日に配架を勉強しに行くつもりでした。それが、権利の範囲を著しく逸脱している、まして犯罪幇助だなどとは思いません」


 どちらにしても、と行成が反論する。


「仮にも“二藍の射手”が数字冠する書司に相応しくない行動を取ってしまった。彼女の部下たるあなたは彼女の行動をよく知っているはずだ。証言する義務があると思いますよ」

「お言葉ですが、冠したのは周りで、本意ではないはずです。その二つ名で呼ぶと……殴られるだけじゃ済みませんよ」

「脅しのつもりか?」


 飛燕が目を吊り上げるが、要はゆっくりと首を横に振る。


「とんでもない、ご忠告申し上げているのです。殴られたことがありますから。平手打ちなんて生易しいものじゃないですよ。たとえ主上であろうと指を握り込んで殴りますよ、あの人は」


 要もその理由を詳しく知っているわけではない。

 梓から数字の二を奪い取られた人物とは、知り合いであったらしい、ということだけだ。


「それは……動機に成り得ますね」


 要は意味を取りかねて、薄く微笑む行成に問い返す。


「何のです?」

「旅券を発行した理由ですよ。──ところで」


 行成は、なおも問いたげな要をよそに秘書から何枚かの壇紙を受け取り、筆で何事かを書き付けた。


「書司寮助として、君に仕事を与えます」


 ひらりと差し出された紙の最後には花押がある。本名を図案化した、複製困難な判子のようなものだ。内容が内容だけに偽造と疑われないための配慮なのだろう。


「これを〈壺菫〉の亭長に渡して下さい。それから、一等書司桂城梓大允と共に、可及的速やかに、成田琥珀一等書司と那賀川の二の姫を、〈天満月〉の書司寮に保護してください。図書寮と公権力によって罪人にされる可能性があります。誘拐や不法侵入あたりでしょうかね」


 ぴくり、と要の耳が動く。


「何のことでしょうか」

「勿論、先月の〈壺菫〉であった人災のことですよ。尤も、書司に危害を加えるつもりがなければ、積極的に介入するつもりはなかったのですよ……所詮建物はただの入れ物です。本は利用するためのものであり、理想では、全ての読者に全ての本が渡るべきです。そう、本は人がいて本としての価値を初めて持つ。書司は、読者であり手渡す人でもある」


 外国の図書館学者の有名な言葉を、書司寮助は引用した。


「更に“図書館は成長する有機体である”ならば、成長しない図書寮は図書寮ではない」

「待ってください。事故と、桂城大允の後輩に関係が?」

「彼自身と言うより、彼のご両親の研究が政治的に問題でしてね」


 穏やかな語り口だが、目に厳しさが混じる。


「実は彼がまだ幼いうちから書司寮に目を付けられ、早く入寮させられたのは、監視と忠誠心の獲得の意味合いがある……と考える書司もいましたが、実のところは、書司を、特殊な背景があれば尚更、寮で保護するためです」

「失礼ですが、よくご存じですね」

「成田琥珀は、有能な書司で前途ある若者です。知っておくのは職務のうち──と言いたいところですが、個人的な感情もありますね。何しろ、彼の入寮時、私が迎えに行ったのですから」


 行成は悪戯っぽく微笑んだ。


「手紙は、図書寮へのささやかな贈り物ですよ。宜しく頼みます」


 一介の書司に、命令を逃れる余地はない。


「分かりました」


 返事をしながら、思い出されるのは傍若無人な上司の顔だ。

 たぶん、きっと、絶対罵られるに違いない。

 胆をくくるしかない。

 懐にしまった紙は、ずしりと重かった。

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