第18話 償いの決意
人とは、心を決めただけで、大分変わるものらしい。芙蓉の声は落ち着き払っていた。
「今後の行動に際し是非知って頂かなければならないことがあります。私の本当の身分を」
「どうであっても変わらないけどね……分かった、聞くよ」
琥珀が嘆息して床にあぐらをかいたのを見て、口を開く。
「まず、私の名はふようだと言ったのは嘘ではありません。ふようとは成田さんが考える芙蓉ではなく不要です。私はここでは不要だから。本当の名は、那賀川紫」
「那賀川──紫」
「正五位下右衛門
「五位っていうと貴族で大方が殿上人──地下の下っ端の俺とは大違いだね」
「父は、今上帝の曾祖父の帝にあたられる方の息子、つまり先々帝の弟宮です。母は先々帝の姫、つまり先帝の姉宮であり、今上帝の伯母にあたります。ただ、父上は親王宣下を承ることはなく、臣籍に下って那賀川の姓を賜り、母宮は皇族から降嫁されました。私も臣下の一人として武官に志願しました。軍人が本分でしょうが、主な役目としては内裏をはじめ様々な場所の警邏をしています。それから、各都市に出向き治安状況を確認したりも」
「……うん」
「貴族は、那賀川家も違わず、須く政治家の面を持っています。浮遊計画もその一つ。那賀川家は中立派でしたが……私は賛成派でした。だから検非違使として視察の任を得たとき、実験に適当と判断──書類に偏った判断材料を記入──し、結果。実験は失敗に終わりました」
重く長い沈黙が支配した。
「そんな気はしてた」
苦笑が漏れた。少女の目が見開かれる。
「いつから、気付いてたの」
「そりゃ分かるよ。悪いけど普通じゃないし、太刀なんか持てるのは武官だしね。しかも一体モノの傀儡と友人で? やんごとなき身分の方だろうなとは思うさ」
「どうして? どうして、そんな平気な顔してるの。どうして力を貸してくれたの。断ることだって、殴ることだって、殺すことだってできたのに」
「君こそ何でそう卑屈な上に強引かな。俺に言わないでおくことだってできただろ? いい子ぶるのはお互い様にしよう。俺に協力を求めて俺が思い通りに応えたのが不安なのか?」
「違うわ。さっきの文。手段を選ばず私を捕らえに来そうだから」
「話して俺に裏切られるって思わなかった? 罠にはめられるって」
「そんな回りくどい卑怯な手段は使わないでしょう」
「信用されてるのかされてないのか分からないな」
「私を引き渡したいなら今ここで敵対させて頂きます。報酬でも暴力でもあなたを従わせます」
「今度は悪い子になりたがるのか?」
「私は悪人よ。私が都市を墜とした。私が実験に賛成したのは、元々植物から作られた傀儡である諒が、環境に耐えられなくなってたから。空気が悪いのかどうか、彼は病に侵されてた。浮遊計画が成功すれば、地上からもっと離れられるから。彼を助けたい一心があんなことになるとは思わなかったけれど──でも沢山の傀儡と信じてくれた諒とあなたの大事な──」
顔がぐにゃりと歪んだ。今にも泣きそうな顔。
躊躇ったが、琥珀は手を芙蓉の、いや紫の頭の上に置いた。
仇と言えるかもしれない一人だ。あの日あの事故があり“軽微な損害”で収まったあの下に、両親がいる。この肩を小さく振るわせて己の責任に耐えている少女は、仇の一人だ。
「憎くないのは嘘だ」
敵の一人は、自らの名前を不要と名乗り、追われてまでむりやりに来て……俺に頼ってまで友人を探す娘だ。ひたむきに、一途に。
「全く憎くないなんてのは嘘だ。だからって憎むのも嘘だ」
「っつ──」
「自分の悲しみと他人の悲しみを比べるな。他人の方が自分より悲しいだなんて、無条件に思うな」
「…………」
「君は正しいと思ったことをしたんだろ」
「…………」
「何が正しいなんて誰にも分からない。本当に悪いことならバチが当たる。それまで誰がなんと言おうと、胸を張っていろ」
芙蓉と名乗っていた少女は──紫は俯く。前髪がさらりと額に頬に、目に落ちる。
「じゃなきゃ誰も報われないぞ。君自身も俺も、みんな」
ただ、沈黙が降りる。
琥珀は返答を待っていた。
言葉が欲しかったわけでもなく、表情が欲しかったわけでもなく。伝わったことを確かめたかった。彼女が自分の思うような人間であることを確かめたかった。
たとえどんな善人でも許されないことをしたとは思っている。自身の感情で政治的な判断を下したからだ。
ただ、嫌な人間であれば琥珀は憎めるが、違うだろう。彼女は短絡的な憎悪を許さないだけのひとだろう。良い人間であれば憎まない、なんてのは嘘だが、じゃあ、感情的な判断を自分なら全く下さないのだろうか。政治を、善意もろとも否定して良いのだろうか。
清廉で無能な政治家は有害だが嫌いじゃない。有能で悪辣な政治家は必要悪だが、嫌いだ。そして清廉で有能な政治家であることの何と難しいことか。
血筋は下級役人、位は政治には論外の──罪人の息子故におそらく永遠に──従八位上で、技能だけで書司の官職を得ている琥珀には良く分かる。
友人の竹村東吾も一等書司だが、異能者の書司として特別優秀ではない。勤務三年目で正七位下で、相当官の中務省図書寮大允と“順調に”位を進めているのは、別の努力の賜だろう。律令制における出世とは主に位階だ。官位相当の制度があって、全ての職には明示暗黙で、相当の位階に達した人物にしか就けない決まりがある。
血筋とはいえ、この若さで正五位下かつ武官。苦労も多かったことだろう。
よく見ると、指にも手の甲にも、貴族らしからぬ、切り傷の痕や厚くなった皮膚がある。
指先はやがて、直衣の胸元を掴む。
ぽつり。
水滴が狩衣の袖に落ちた。白い布に灰色の水玉が模様を織っていく。
琥珀の声は、紫の思考の熱に差された水だった。
水は身体の表面を流れるうちにゆっくりと染みこんで、奧まで届いて、目から溢れた。
「……本当はずっと……もっと早く……言うべきだったのに」
胸に皺が寄る。
「私はずるいのよ。私も撒いた種なのに、まだ、私だけのせいじゃないって思っていて……だから、甘いの。甘々だわ」
髪が琥珀の胸に落ちかかる。
「浮遊計画はね……将来的には都市を櫓から、浮遊都市に変更させることを目的としてるわ。地上の汚染が年々進んでいるって報告があったから。ここを実験場所に選んだ理由はあなたが言った通りよ。人的被害が皆無に近いから。書司には噴飯ものでしょうけど、資料がなくなることは大抵の役人には重要じゃないのよ」
テキストのデータで保存していればいいと思っているのだ。中身が読めればよい、と。
紙媒体も筆致も、本の綴り方も、書誌学上や考古学上では極めて重要な財産だが、殆どの国民にはどうでもいいことなのだ。
「私には、汚染が致命的かは判断できなかったし、地上を捨てることには心配もあった。だけど、私はここの上に諒が避難できればそれでよかったから」
「君にとっての榛名諒は、罪を犯すに値するほど、大事な人だった」
「学問教養の師、学問に秀でた一体型傀儡“榛”は、私にとっては傀儡じゃなかった。兄だった。もしかすると父親かもしれない」
あまりにも人間らしい容姿で、あまりにも人間らしい振る舞いをする。多感な時期を共に過ごした傀儡は、いつの間にか心の中で家族の位置を占めていた。
だから、彼の本物の植物で作られた身体が徐々に環境に適応できなくなりつつあることを知った時、裳着の後に、初冠をした。
裳着は女性の、初冠は男性の、それぞれ成人の儀式だ。
今は平安時代とは違い、一般に言う女官とは別の、律令制下での仕事は女性にも開かれている。しかし殆どが文官だ。朝廷は、武官に任じられるには試験の他に儀式を用件としていた。
「律令制の役人の世界に入る時に、私は、文武官どちらでも選べるように初冠もしたの。元々刀も弓も趣味だったから、試験にも通って。政治向きでもないことは分かっていたから。数年して、浮遊計画が持ち上がった。実験の日取りが決まった頃、諒は生みの親から仕事が来たと言って、家から出て行った……」
理由も話さず、突然消えた。
あの時に味わった悔しさと、自分のふがいなさを思い出して、紫は唇を噛みしめる。
「頭では分かろうとしたの、彼にとっての私は、ただの教え子で人間だってこと。家に来たのも生みの親の命令だったから。感情があるように見えてもそう見えるだけなのかもしれないって。人の心と違って、傀儡の心臓は──“木霊”は樹でできてる。彼だって、政治的な意図で作られただろうって思う。でも割り切れなかった。ここに彼がいなかったら私は何のためにやってきたんだ、って」
何のために、なんて分かり切っていることだ。彼を少しでも環境の良い場所に置いてあげたい、なんていう自分勝手。彼が望んでいたかどうかなんて分からないのに。
紫は震える声で続けた。
「浮遊実験の数日前にね、彼から連絡があったの。仕事がもうすぐ終わるから、二月二日、つまり昨日、〈壺菫〉の浮遊都市の屋上、月光庭園で会おうって。それから、一緒に持ってきて欲しいって、本が届いた」
琥珀の眉が、ごく僅かに寄せられる。
「追っ手が図書寮なら、追われる理由は私個人じゃなくて、諒や本かもしれないと思った。でも、大内裏が追っ手なら私個人の理由かもしれない。だったらなおさら諦められない。自分のしたことの責任を果たさないといけないの」
紫は顔を上げた、涙に濡れた瞳は微笑んでいた。一拍おいて、深呼吸をして、告げる。
「……ありがとう、全部聞いてくれて」
水の流れのように緩やかな声だった。
「もう弱音は吐かない。もう、泣かない。何があっても真相を解明して──責任を取る。〈壺菫〉やあなたに、償いをしていく」
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