第12話 夕食の時間

 竹村東吾が用事を済ませ、宿直所の扉を叩いたときには、かりそめの太陽は傾いていた。

 橙色の中に宿直所は黒々とうずくまり、人の気配もない。

 しばらくして扉の中でぱたぱたと廊下を走る音が近づき、がちゃがちゃと鍵をならすと、扉が勢いよく開いた。


「お帰りなさい……あ」


 右手に持ったお玉を所在なげにくるくる回して、立っていたのは芙蓉だった。

 しまったというような、ばつの悪そうな表情を浮かべる。


「よくあの旅館から逃げられたな」

 機先を制され、一瞬鼻白むが、芙蓉は苦し紛れに笑った。

「……さて、どうやって抜け出したでしょう、なんて」

「どうやってかは知らんが、方法も目的も理由も常識的じゃないのは確かだ」


 芙蓉は目を瞬き、お玉を後ろ手に隠すと、頭を下げる。

「済みませんでした。非常識なのは分かってます。でも、私、戻るわけにはいかないんです。だから……」

「勘違いするな。俺は、琥珀にこれを渡せと言われて来ただけだ」

「ええ?」


 差し出されるまま、芙蓉は弁当箱を受け取る。


「ええ? じゃない、あいつの顔を立ててやると言ってる」

「あいつって、成田さんですか?」


 まだきょとんとしている顔に、


「何だ、あいつは何も話してないのか? 俺と琥珀は腐れ縁だ。図書寮に就職する前、まだ書司寮に入ったばかりの糞生意気なガキの頃からな。あいつの顔に免じて今回は不法侵入については無関係ということにしてやると言っている」


 東吾は溜息を一つつくと、淡々と言葉を紡いだ。


「あ、ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない。むしろ俺は君を野放しにするつもりはない」


 きっ、と芙蓉の顔を見据える。芙蓉の顔に緊張が走る。

 二人の間にあった空気がぴりぴりし始める。芙蓉は、東吾の左手に黒表紙の本を確認し、両手を空けようと弁当箱を廊下に落とそうと指を放しかける。

 と、その時。


「あら、竹村君じゃないの。珍しいわね」


 朗らかな声が廊下の奥から投げかけられた。


「お久しぶりです、藤原さん」

 さっきとはうってかわってにこやかに東吾が微笑み、緊張した空気が不自然に緩む。

「どうしたの、芙蓉ちゃん?」

「あ、これ、持ってきてくださったんです」


 指先から滑り落ちそうになった弁当包みを持ち直し、持ち上げて見せた。ぎこちない笑顔。


「琥珀ちゃんのお弁当、わざわざ持ってきてくれたのね」

「寮に戻るついでです。いつもあいつが迷惑かけて済みません。弁当箱くらい自分で洗うように言ってるんですが」

「いいのよ、私の仕事だから。そう、竹村君、夕ご飯これから?」

「そうですが」

「良かったら食べていかない? もうすぐできるから」


 無邪気な灯子の台詞に、芙蓉は難色を示そうとするが、


「ね、芙蓉ちゃん」

 にっこり笑われては、頷かざるを得ない。

「ええっと、はい。……でも、あの、実はまだご飯できてなくて」

「あら」


 作り始めて優に一時間を突破している。泊めて貰うお礼にせめてと夕ご飯作りを買って出たのは芙蓉自身だった。


「やっぱり私も手伝う?」

「大丈夫です。一人でできます。灯子さんはゆっくりされてください」


 言いながらも、耳が台所の鍋が泡立つ音を聞きつける。


「じゃあ、戻りますね」


 沸騰して吹きこぼれる寸前のみそ汁の蓋を開け、火を止める。鍋の裏に付いた大豆をうらめしそうに見てから水で洗い流すと、流しで冷水に付けたきゅうりをまな板にのせる。

 どん、どん、どん、とまな板に包丁が叩きつけられる度に、ぺち、ぺち、ぺちときゅうりがあちこちに飛ぶ。


「わっ」


 目の前に飛んできたきゅうりに思わず目をつぶる。

 ほっぺたに張り付いた、薄切りをはがす。まな板に転がった厚さもばらばらのきゅうりは、きゅうりのなれの果てだった。中には緑の切り株と言った方がいいものまである。


 食材だけでなく調味料やら粉やらををあちこちこぼして、海外の絵師の抽象画のようだ。お題は“暴発”。


 灯子に手伝って貰うということは、つまりこの惨状を見られてしまうということだ。とにかく作り終えて台所を元通りにしなくちゃ。気持ちは焦るばかりでちっともはかどらない。


「壊滅的だな」


 いつの間に立っていたのか、東吾が台所の入り口で両手に腰を当て、心底呆れたように言い放った。

 言葉に詰まる芙蓉の脇を抜けて流しで手を洗い、手から包丁を奪い取る。


「あの、私、やります」

「どうせ琥珀や藤原さんの口に入るんだ。下手なものを食べさせられるか」

「う……」

「異議は」

「ないです」

「それはよかった。あっても認めないが」


 慣れた手つきできゅうりの両端を落とし、くず入れに入れる。厚いきゅうりを全て、薄く切り直していく。


「でも、すぐできますから」

「まだいたのか」

 抗議の声を上げると、僅か十数秒しか経っていないのに、冷たく言われる。

「邪魔だ」

「じゃ、じゃあ。見てるだけでも」

「包丁を握ったこともないようなお姫様が覚えても仕方ない。できない方が公達受けがいい」


 言い方も適当な一般論は、彼自身がそれを良しとしていないことが明白だった。どうでもいいと思っているからだ。というより、歯に衣を着せないのはむしろ嫌っているから。


 嫌われているのは分かっていて、芙蓉は仕方なく後片付けをし始めた。ふきんとぞうきんを駆使して、作業の邪魔にならないように磨く。


 ぽつりと、東吾が呟くように、


「何を作るつもりだったんだ」

「お味噌汁と煮物はできてます。きゅうりは、わかめと酢の物にするつもりで」

「手順を考えろ。それから、調理に合った切り方を意識した方がいい」

「料理がお上手なんですね」

「一人暮らしが長い」


 不快そうに目を細める。


 沈黙が流れる。包丁のとんとんという音だけが流れていた。

 ややあって、再び東吾は口を開いた。


「頼みがある」

「……何ですか」


 戸惑って答えるが、東吾は口調はおろか表情もなかった。


「勝手は承知だが、できるだけ早く、この都市を出て欲しい。琥珀が職を失わないために。あいつが積み上げてきたものを壊さないで欲しい。あいつはただの書司じゃない」

「どういうことですか」


「中等学校在学中に図書寮第二分亭〈夏萩〉で臨時書司補勤務。最年少の十六歳で書司の養成機関である図書大学を主席で卒業。在学中に既に幾つかの表彰を受け、卒業と同時に書司資格を得て正式に勤務開始。翌年の昇任試験で一等書司。今年満十八歳。明らかに飛び級だ。これだけの輝かしい経歴は滅多にない」


 東吾の無表情の口元がその言葉を言い終える間だけ、緩んでいた。すぐ口元を引き締める。


「君に協力することで職を失えば、書司寮に属するだけのただの厄介な人間だ。俺が一人暮らしが長いのもそのせいだ。両親は神職で、神でないただの人が、自然の定義を変える力を持つことを嫌っていた。子どもの頃から厄介者だ」


 だから書司としてせめて公職に就こうと必死で勉強してきたのだ。


「あいつは両親には認められていた。だが、あいつは言わないだろうが、あいつの両親は〈月の接吻〉で死んだ」

「……!」

「遺体は見つかったが、家は掘り起こせていない。それを掘り起こす邪魔をするためだろう、あいつの両親がいわゆる朝廷にとって面白くない研究をしていたこともあり、ついに第四分亭の亭長などという架空の役職に左遷されてしまった。これ以上、事件に関わらせたくない」


 声はいつしか熱を帯びていた。


「俺は、書司であることを続けさせてやりたい。君のせいだけとは言わない。性格故に、君を助けようとするだろう。だから君の方から離れてもらいたい。すぐに結論を出せとは言わないが、可能な限り早く」


 きゅうりをまな板から器に移し、塩を降る。味がしみて水分が抜ける少しの間に、乾燥わかめを別の器に入れて水で戻しておく。


「駄目です」


 横顔に、芙蓉は即座に返事をした。考えても変わらないからだ。考え続けれて、悩めば、どうしても決意が鈍る。鈍った切っ先なんかじゃ状況を切り開けない。


「一応聞いておこう、何故だ」

「……言えません」

「何故だ」

「言ったらあなたも巻き込んでしまいますから」

「そうか」


 そう言ったきり、東吾は押し黙った。

 居心地の悪い沈黙は、食事を作り終えるまで続いた。




 琥珀が帰宅したときも、微妙な雰囲気が漂っていた。

 ご飯とおかずを器によそい、東吾がてきぱきと食卓に並べていく。

 芙蓉が暖めなおしたみそ汁を盛る手つきはつたない。


「今日は二人が作ってくれたのよ」


 灯子が一人、にこにこしながら珍しく席に着いていた。誰かに食事を作ってもらうことが普段ないから、それだけでも嬉しいらしい。


「そっか、ありがとう」


 早速みそ汁に箸を付ける。あれ、と、違和感を感じて、口に含んで動きを止める。いつもと味が違った。大豆の欠片が表面に浮いて、風味が飛んでなくなっている。


 理由はすぐに合点がいった。芙蓉が不安げな目つきで自分の方を見ていたからだ。


「あの……私が……作ったんですけど、どこかおかしいですか」

「芙蓉ちゃん、沸騰させすぎたんじゃないかしら?」

「駄目でしたか」

「そんなことないよ」


 今度はきゅうりとわかめの酢の物を食べる。


「これ、美味しいよ。酢の加減が丁度良くて」

「それは竹村さんが作ってくれたんですよ。煮物は、私ですけど」

「こっちの煮物も美味しそ……」


 箸で大根をつまんだとたん、ぼろっとくずれて煮汁に溶ける。

 場が静かになった。


「大丈夫、上手くなるわよ。良かったら私が教えてあげるわ」


 灯子の朗らかな声も場違いに聞こえる。

 思い切って聞いてみる。


「料理、普段しないんだ?」

「あ、はい」

「じゃあ、こういう食べ方知らないよね」


 ご飯を崩して、みそ汁をその中に注ぎ込む。汁かけ飯──いわゆるねこまんまの一種だ。

 思った通り、びっくりして言葉もない彼女に、美味しそうにかっこんでみせる。


 みそ汁単体だと気になっていた物足りなさも、ご飯に絡む味噌の味でさっきよりも気にならない。


「行儀悪いけど、食べたことないと損だよ」

「……」


 彼女はお椀をじっと見つめていたかと思うと、思い切ったようにみそ汁をご飯にかけた。

 同じようにかっ込む。茶碗の半分を胃に流し込むと、一息ついて、


「美味しい」

「だろ?」


 にかっと琥珀は笑ってみせる。


 後は何となく和やかに食事も終わり。芙蓉と灯子が食器を片付けに台所に入ったところで、東吾は湯飲みを空にして食卓にとんと置いた。


「気をつけろよ」

「……何が?」


 すっとぼけてみせる。


「夜はまだ冷えるからな。風邪を引くな」

「なんだよ、お母さんみたいだな」

「お前はいつも自分のことを後回しにするからな」

「そうでもないさ、なんだかんだ、自分のやりたいようにやってるだけだよ」

「自分の体を大事にしろ。健康管理も仕事のうちだ。第五分亭にいつでも戻れるようにしておけ。俺は帰る」

「ああ、ありがとな」


 東吾が席を立ったのと入れ替わりに、片付けを終えた芙蓉が戻って来る。


「終わりました」

「ありがとう。じゃあ、準備して行こうか」


 どこに、とは言わなかった。すっと芙蓉の目が真剣味を帯び、小さく頷く。


「すぐに支度してきます」

「まだ時間があるから急がなくていい。明日になると同時に出よう。それまで仮眠しておこう」

「はい」


 返事をして部屋に戻りかけ、彼女は一度振り向いた。


「あと……ありがとうございました」

「いいよ、気にしなくて。これも仕事のうちだし」

「そちらもですけど、ご飯全部食べてくれて。噂の汁かけご飯も食べれましたし」

「そんな大層なもんじゃないよ」

「初めてだったんです。誰かのためにご飯つくるの。作ってもらってばかりだったから、こういう嬉しさ、知らなかったから」


 そう言って、彼女は出会って初めて、笑顔を見せた。


「ありがとうございます。じゃあ、また後で」

「また後で」


 琥珀もつられて笑っていた。

 今日のしばらくぶりの笑顔は、やっぱり自分でもぎこちない。

 少しだけ両親に後ろめたさを感じながら、それでも、ほんの少し救われた気がしていた。

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