第13話 地下へ

「人、いないんですね」


 芙蓉の感想に、琥珀は少しだけ顔をしかめた。


「さっき通りがけに見た道みたいに、この辺りは封鎖されてて関係者以外立ち入り禁止になってるからね。どこまでが関係者なんだか」

「いいんですか、内緒で入っちゃって」

「裏道も把握してない駄目書司が悪いんだって。あと、内部ほったらかしすぎ」

「裏道ですか」


 納得しかねたような反復に、琥珀は苦笑する。


 道だなんて呼べた代物ではなく、建物の細い隙間や塀の上を伝って来たのだ。薄曇りの空にまたたく人工の月影すら恐れるように、ひっそりと。

 一応今も傾いた壁の影にいるのだが、職員どころか人間の姿は全く見えない。


 宿直所を出発して、見張りの書司の目を盗み、張り渡された縄の内側に入り込む。ここまでは簡単だった。

 入るのも簡単と言いたいところだが、二人して上に目を付けられていて、そう上手くいくかどうか。廃墟の入り口に人を配置すれば、別に周囲にまで見張りを特別置く必要もないのだ。


 午前中に訪れた廃墟の入り口を見渡せる場所まで、影を渡って移動する。見たところ、入り口にも人はいない。


「見てくる。ここにいて」


 琥珀は言い置いて、周囲にもう一度人気がないのを確認すると、足音を潜め扉の前に立った。

 芙蓉がこじ開けた扉は閉まっていた。取っ手を押しても引いても、無論横に引いてもビクともしない。


 よく見ると、扉の下部に穴が開けられて、太い鎖が、扉と接する石材にびっちりと巻き付けられ、無骨な錠前がぶら下がっていた。オマケにその鍵穴はセメントで埋められている。

 芙蓉のいる崩れかけた壁まで戻る。


「どうでしたか?」

「駄目だった。或いは器具があれば何とかなるだろうけど。あれはしばらく開ける気はないな」


 鎖を断ち切るような道具はあいにく持っていない。状況を説明すると、彼女は考え込むような仕草の後、


「木工寮の事故処理の段階になって、鎖を切るつもりなんでしょうか」

「だと思うんだけど」

「でも、一般の作業員の目に触れては困ることもあるはずですよね。だったら、入り口が他にあるんじゃないですか? 処理するために。そうでなくても、どこか通じてるところが他にもあるかもしれないです」

「そうだね。探してみよう」


「別々に探しましょう。固まってるより効率いいです」

「分かった。俺は右手から、君は左手から回ろう。この暗さでも、多分半刻もあれば半周で反対側に着く。見つけたり何かあったら刀で合図しよう。三回光らせた後に一回」

「了解です」


 二手に分かれて回り込むように周囲を探す。注意深く、地面や壁を眺め渡す。

 半円を半ばほど過ぎたところで、暗い地面近くに光がまたたくのが見えた。一、二、三。消えた後に、もう一度。芙蓉の刀だ──何かあったか。

 心持ち急いで光の場所までたどり着くと、芙蓉は無事だった。


「見てください、ここの地面。他と違うんです」


 指をさした地面は、土埃にまみれて区別が付かないが、踏んでみると感触が違った。人工的な建造物の感触。

 首を傾げてながら表面を凝視すると、床の表面はつややかな銀色の光で満たされていた。


 顔を近づけると、光を反射して銀色に見えたそれは黒い糸でできている。長い黒い糸の束が床に張り巡らされているのだ。まるで落とし穴をふさぐ枯れ木か、蔦のように。払おうとして掛けた手は、まるで相手が針金であるかのように痛みを感じるだけ。


 懐から小刀を掲げて断とうとするが、刃は立たないどころか手から弾け飛び、地面で弾んだ。


「……これ、傀儡の髪だ」

「でも、私には地面に見えるんです。これは“地面”です。“髪”じゃない。“入り口”じゃ決してない」


 彼女は頭を振って目を何度もこすってまばたく。


「踏んだときの地面の感触がおかしいから、何かとは思ったんです。言われて気付きました。間違いなく、傀儡の髪なのに。通れると思えない、斬ろうと思えないんです」

「〈分類〉だ。踏んで気付いただけでも良かった。大丈夫、俺が何とかするから」


 琥珀は息を吐き出すと、手に持ったままの黒い本の表紙に手を掛けた。


 0と書かれた頁をめくる、その瞳に不可思議な光が灯る。


「これは“強”く“しなやか”な“地面”か。固定力は強いが髪ならどうとでも……第四次、いや第三次区分でいけるか?」


 指が頁を更にめくる。


「511か、違うな。髪ならこっちだな」


 傍目には分厚い辞書をめくっているようにしか見えない。ただ手つきは非常に手慣れていた。指が頁を覚えているかのように滑らかに一枚一枚の紙を捕らえ、離し、千以上に及ぶ頁の中から目的の場所を探し出した。


「これは“柔らか”で“安全”な……595」


 表示の上に札を置き、筆で何事かを記入する。

 芙蓉は息を呑む。


 見た目には何も捕らえられなかった。琥珀が見事な筆致で文字を書き込んだことしか分からなかった。それは自分自身が彼の仕事について素人だからだろうか。それとも最初から何もなかったのかも知れない。


 ただ確実に変わったのは行く手を塞ぐ髪だった。密集してあれほど硬そうに見えたそれは、解れ揺らめき、ただの髪の束になってしまった。


「書司は全てを〈分類〉する者だ」


 背表紙の、金の掠れた箔押しを琥珀は指で示す。


「Decimal Classification for Professional 15th──書司用十進分類法第十五版。異能である書司専用の分類表だ。この札は書司専用分類発動体の目録札。全ての物体の定義を分解し、分類し、定義と意味づけをし、人と物事の関係性を変えることができる。髪が硬いのはただの思いこみだ。硬いと思うから切れなくなる、できないと思えば人は何もできない。でも、できると思えばできるようになる。髪は普通ハサミで切るもの。三つ強化の定義をされたところで、定義を戻すのは楽だな。さあ、やってみよう」


 飛んでいった小刀を拾って、髪に当てる。いともあっさり切れてはらりと落ちる。


 その髪が後ろからすくい上げられた。きつく握られる。握った手の主は芙蓉だった。強ばった表情の中で、顔の前に掲げて目を閉じると、地面において砂を被せる。


 琥珀は髪の被せられた地面の奥の穴に懐中電灯の光を当てると、その中に足を差し入れた。

 つま先に体重をかけて崩れた建材が揺らがないことを確かめ、体を滑り込ませる。着地。

 細長い通路が真っ直ぐ、丁度浮遊都市の中心部に向かって伸びている。


「大丈夫、降りてきて」

「はい」


 芙蓉は足がかりもなく身軽に地面に舞い降りると、同じように周囲の壁を灯りでなめ回した。


「これ、見取り図。渡しておくね」


 琥珀は懐を探り、自身の複写コピーした紙を渡した。浮遊都市の全景と、場所割り、配管などが書いてある。


「これ、どうやって手に入れたんですか? 新聞にも載ってなかったですよ」

「某学術誌から。じゃあ行こう」


 二人の足音が静かな通路に反響する。


「書司って、すごいんですね」

「確かに書司は図書寮職員の中でも特別だ。異能の魔法使いだ」


 視線が手の中の書物に、声が床に静かに落ちる。


「だけど……全てを分類するだけだよ」

「だけ、というと?」

「結局物の本質は変わらない。他人によって本質は簡単に変えられないから。関係性を変えるって言うのかな。言ってみれば思いこみなんだ」


「そうなんですか?」

「そうだな、はじめ、君を男だと思ってた」

「女だと分かってたら、お風呂入ってこないですもんね」

「うん、あれはほんとにごめん」

「いいです、気にしないことにしましたから」

「……つまりそういうこと。平安時代の美人の基準が今とは違うみたいにね」


 懐中電灯で照らされていく通路の両側に、やがて扉が目立ち始めた。扉の表示と見取り図を照らし合わせると、大まかに三層に別れたうちの最上層のうち、職員の住居空間らしい。


 一つ一つ、扉が開くか試してみる。歪んで開かない扉も多いように、開く部屋も、中は崩れ、歪み、瓦礫が積み上げられていた。


 中には作りつけの家具以外見当たらない。当然、実験前に避難したのだろう。


 円を描くように曲がる廊下の両側の、四人部屋は次第に二人部屋と変わり、両者が扉の塗装の違いで見分けられるようになった頃、通路は十字路になり、その先に三つ目の色を見つけた。


 こちらが個室なのだろう。手前の向かいの二部屋を開ける。

 右手は洗濯室、左手は個室。個室はもぬけの殻だった。


「来てください」


 洗濯室を見ていた芙蓉に呼ばれて、引き返す。照らした灯りの先、壁は一部崩れ、ぽっかりと口を開けていた。その奥には個室があった。


 半分はつぶれて土が進入し、扉のあるだろう部分を埋めてしまっている。

 どうも住人は建築家の一人だったらしい。図面が壁のあちこちに貼られていた。


 中の一つは詳しい見取り図だ。手を合わせてから扇を開いて、ボタンを押し、扇の全面に図面を写し取る。


 持ってきた見取り図では分からなかったが、図面通りならこの奥にあと三つ、反対にも通りを挟んで四つ、個室があるはずだ。

 その奥は研究練に続き、十字路を右手に行くと、昇降機のある庭園。中央は生活の共有スペースだ。


 ふと違和感を抱き、部屋を見回す。部屋には他の部屋と同じように、作りつけの家具以外はない。必要最低限の寝具に机、本棚、収納。


 だが本棚を見たとき違和感は強くなった。当然避難したのだろう、空になった本棚に指を滑らせる。……埃が積もっていない。


「最近誰かが持ち出した形跡がある」

 机の引き出しを引く。何も入っていない。

「成田さん」

 芙蓉が息を呑んだ気配がした。

「……これ、隙間に落ちてました」

「え?」


 芙蓉の手に握られていたのは、丁度手のひらサイズの長方形の透明のラミネートフィルムだった。その中に、一輪のたんぽぽが咲いている。


「これ、私が小さい頃諒にあげた栞なんです」

「じゃあ、ここが榛名諒の個室……」

「間違いないです! だから本もここに来た誰かが持って行ったんです」


 誰か、が誰かは分かっている。今朝──もう昨日か、昨日の朝に出会ったLC社の連中だ。


「諒はやっぱり、事故の日もここに留まってたんですね」

「そうだね。少し……休む?」

「大丈夫です。時間ないですから」 


 気丈に笑ってみせる笑顔は少し痛々しい。


「優しいですね、ありがとうございます」

「優しくないよ。書司だから」 


 芙蓉は、どうしてそんなことを言うのか、とっさに問おうとして口を噤む。自分にも理由があり、彼にも理由がある。それだけのことだと思い直す。


 それに、理由を知って、受け止められる自信は、今はなかった。


 ちくりと痛んだ棘の傷が古傷とは決して言えない場所で、膿む間もなく心臓を突き破ってしまいそうだった。膿は心臓とは別の、脳に巣くってしまっている。


 思わず下がる目尻を見られぬように、視線を床に落とす。彼に会いに来たのは本当なのに、無事を祈るのも本当なのに、死んでしまっているかもしれない悲しさよりも先に胸が痛みだす。それが悲しかった。


 彼女が落とした視線の先のたんぽぽに、琥珀も目を向ける。


「次に彼が行きそうな所。心当たりある?」

「あります……月光庭園です」

「月光庭園っていうと、最上部の庭の名前だね」

「はい。あれは、特別な場所なんです。汚染された空気から逃れて綺麗な空気を得るための場所。傀儡や植物を浄化していく実験のための施設なんです」


 確信めいた口調だった。何故そんなことを彼女が詳しく知っているのか、あえて今は聞かないことにする。


「分かった。行こう」


 洗濯室を出たところで、再び違和感。人の視線を感じたような気がして、周囲を見渡す。


「成田さん?」

「いや、なんでもないよ。ごめん」

 もう一度だけ振り返る。周囲は闇ばかりだ。

「気のせいか」

 呟いて、再び足を進めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る