第7話 書司と利用者

「ん……うん」


 先ほどまでの形相はどこへやら、憑き物が落ちたような顔で、彼女は目をしばたいた。彼女が腕を顔の上に掲げると、額から手ぬぐいがぼとりと落ちる。

 琥珀は広がった髪の上からひょいとそれをつまみ上げ、布団の横に置いた琺瑯製のたらいに張った氷水に泳がせる。


「起きた? どこか痛む?」

「……いいえ」

「なら良かった」

 ぎゅっと手ぬぐいをしぼり、少し日焼けした額に乗せる。

「あの、本は」

「これだろ?」

 水を切った袋を顔の前に持ち上げて、結び目に手をかける。

「開けるからな」

「駄目」

「あのままだと濡れて駄目になるだろ。起きるのを待ってただけでも配慮したつもりだ」


 頭を浮かせかけ、眉根を寄せて枕に沈める少女を見て、琥珀は、本を硯箱の蓋に置くと手袋をはめた。

 なるべく穏やかに話しかける。


「大事な本なんだな。部屋に置いた太刀よりも」

 入り口の脇には立てかけてある太刀の布包み。

「……ええ、とても」

「なら、本はもっと大事に扱わないと」

「そうですね。書司だったんですよね、あなたって」

「今更だなぁ」


 当たり前のことを実感されて、苦笑する。

 書司として書司寮に管理されてきてこの方、書司とだけ呼ばれたことはあっても、書司であることを疑われることはなかった。


「書司だからって刃物で脅しておいて。で、その書司に用があるんだろ」

「どうして、そう思うの」

「俺を気絶させて探索することもできたはずだ。だがしなかった。追われて書司を疑いながらも、俺の意識が必要だった」

「単なる人質です。気絶させると荷物だから」

「だが俺と追っ手は仲間ではなかった、だから救おうとした。あいつら、君がかたくなに拒んだら、俺を逆に人質にして言うことを聞かせただろうな」

「買いかぶらないで」

「刃が外向きだった。暴れて傷を負わないためだろ」

「よく見てるのね」

「書司の基本は観察だからな。一冊一冊の本の全てを観察して把握するのが仕事だからね」


 本の表紙に手を滑らせる。


「“散り”はじめてるな、これ。何も対処してないのか?」


 開いた表紙の一枚目、目次の間の遊び紙は、黄色く色づいていた。比喩ではなく、本が紅葉するのだ。頁の端は茶色く変色し、葉脈のような線が浮き上がっている。このまま放っておけば、そっと指先で触れただけでもぼろぼろと崩れるようになる。


「誰にも見せられないから、できなかったんです」

「その辺のテープや糊で補修しなかったのはいい判断だな。もっとも、普通の痛みとは違って、“散る”のは書司でもどうしようもないんだが。進行を遅らせるくらいしかできない」


 硯箱の中から薄い半透明の紙を取り出して遊び紙を挟む。チューブから透明のクリームを押し出し、そっと塗りつける。


「返してください」

「処置したらね」


 少女は、琥珀の手の動きから目を離さない。琥珀もまた、本を注視しながら尋ねた。


「まずさ、何であんなところに入ったんだ? で、〈壺菫〉に来た目的は? 何故男装なんか? 追われてたことと関係あるのか?」

「あなたに答える必要は……」

「俺は書司で君は利用者。答える必要がある。それに、一応俺の権限で保護中。入り口で入館の手続きもせずに、勝手に入り込んで。本物の太刀を賜るような立場なら、俺に保護される必要も、隠れる必要もないだろう。それとも、職業は追いはぎ?」

「違います」

「じゃあ、始めから聞こうかな。君の名前は?」

「……ふよう……です」

「芙蓉。いい名前だね」


 琥珀が名をなぞると、芙蓉は目を上げた。


「どう取って頂いても結構ですが、名前はどうでもいいんです。会わなければならないひとがいて、だから私は──」

 声が高くなったことを自覚したのか、目を閉じる。


「済みません。意地張って」

「疲れてるんだろう。三時間くらい寝てた。急に気絶したからびっくりしたよ」


 俺も疲れたけどな、と思う。裸のままで気絶されたものだから、呼吸を確保して灯子を呼びに行って、誤解されそうになって必死に説明して、三時間殆どしゃべりっぱなしだった。


「あ、でも私、お風呂で」

 少女はばっと上半身を起こし、胸元をかき寄せる。

 白い単と緋袴の上に、布団代わりに上着が一枚被せてあった。

「あの、これ」

「灯子さんが着せてくれたよ。君の服は土埃で汚れてたから、洗濯してくれてる」


 返答に、彼女は、はあぁと大きな息を吐いて、

「──ごめんなさい」

「いや、君が謝る必要はない。俺が悪かった。て……あれ?」


 頭を下げられ、意外な返答に、拍子抜けする。文句の一言くらい言われるかと思ったからだ。前後の状況はともかく、年頃の女の子の裸を見たことは言い訳できない。


「勝手に閉架に入り込んで、入っちゃいけないところに入って、武力で脅して、人質にして、お風呂まで使わせて貰って、なのに勝手に気絶までして。……見たのも、お互い様だし……」

 手を頭に当てる。指先に手ぬぐいが触れた。

「本当に申し訳ありませんでした」

 琥珀は手を止めて、芙蓉の目の端が下がっているのに気づき、慌てて首を振る。

「いや、そんな、いいって。──ああ、今お茶の支度してくるから、ちょっと待ってて」


 まるで逃げるみたいだと思ったけれど、琥珀は部屋を出た。いたたまれなかったとか気まずいというよりは、何となく悪いことをしてしまったような気がしたからだ。

 疲れて動転しているようだから、一人にして落ち着かせたいという気持ちもあった。

 それに、そう。少し動揺もしていた。本気で怒ったり、真剣に謝ってくれる新しい誰かに会えたのは、久しぶりだったから。


 それも、彼女はLC社の奴らに少し前には〈分類〉されたのだ。


 書司の能力は、生まれついての才能だ。常に何かを分類し自分なりの定義づけをする業を背負った人間は、やがて他人や世界の全ての事象を分類することになる。その目線は人間的に育つことはあまり無い。そうであってはいけないのだ。


 何故なら、仕事としての書司は図書寮亭に於いて、誰が見てもそうであるような分類を、図書寮が決めた分類に従って〈分類〉するという仕事をし、その為の訓練を書司寮で受ける。全ての図書を分かりやすく〈分類〉、つまり配列するだけでなく、全ての事柄を、人間を〈分類〉するような訓練すらある。


 個人の感情を殺して全てを観察し続けるその先にあるのは分類番号0、総記と図書館。全ての事象を見守り保存するのは、究極的に神しかない。神はそして、やはり0なのだ。いないことと同じことなのだろう。


 書司は須く、孤独感を抱えている。他人とは分かり合えないとどこかで思っている。自分は観察者であり、この世に生きる主役ではないのだから。


「でも、それは思い違いだ」

 ゆっくりと首を横に振る。

「俺は何人かの友人が俺を受け入れてくれたことを知っている。書司の〈分類〉能力を、彼らのために、本の分類のためだけでなく使えることをありがたく思っている」


 彼女は書司が異能だと、実感したはずだ。自分の体が硬直し動けないことに、衝撃を受けないはずがなかった。言葉だけで人すらも定義する書司が異能だと、目の前で知ったはずだった。

 書司の自分を恐れていいはずだった。


 傀儡にお茶の用意をさせて戻ってくると、彼女は布団の上に正座をして、手にした一枚の旅券を差し出した。


「私の友人が、ここで働いているんです。どうしても会わなければいけない用事があって来ました。元々取ってあった旅券は、駅で制限中で今は使えないって言われてしまって。立ち往生しているところを、ある女性が助けてくれたんです」

「君は姐さんの、官職用の旅券で来たんだな。あの人も書司なんだよ。俺の、姉弟子だ」

「あの事故に友人は関わっていたから。あの夜の浮遊都市落下事故〈月の接吻〉の日、彼も浮遊都市にいたかもしれないんです」


 心臓が大きく跳ねる。


「そうなのか」

「はい。だから、私を保護していただけるというのはありがたいのですけど、これ以上ご迷惑をおかけするわけには」


 琥珀は、指の腹でぽんぽんと膝を叩く。懸念はあった。彼女に協力することで、自分の立場がもっと危うくなるのではないか、という。

 だから、彼女の意志を問うことにした。問う前から分かってはいたけれど。


「今、この都市は排他的でさ。旅券の出発日も一週間後になってるだろ? それが俺の保護できる限度だけど、納得できる?」


 芙蓉は口を開きかけたものの、声を出さぬまま空気を飲み込む。視線を床に巡らせ、床板のひびを見つめる。ひびからの返答は当然ながら有り得ない。漸く出した声は乾いて割れていた。


「抗う方法はありません。でも、何があってもそれまでに真実を掴んでみせます」


 芙蓉は顔を上げる。髪で隠れ、涙に彩られていると思った瞳は、涙どころか想像以上に強い視線を持っていた。


「大丈夫、何かを探しに来たり、学ぼうとする人のためにここはある。俺は君たちを蔵書のように受け入れる──」

 琥珀はゆっくりと立ち上がり、手を差し伸ばす。 

「ようこそ、図書寮第四分亭〈鴨頭草〉へ。はじめまして、亭長の成田琥珀です」

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