第8話 挿話・首都での一幕

 長椅子にぼんやりと座る狩衣姿に向けて、優顔の青年は溜息混じりの声をかけた。

「梓さん、また何かやらかしたんですか」


 人影が振り返ると、立烏帽子を被っていないために、頭の上で結った髪がさらりと流れて、その後に生意気な上目遣いと視線が合う。本来男の衣料である狩衣に身を包んだ彼女は、手に持った紙杯を掲げてみせる。休憩時間に入ったばかりで、中身は十分残っていた。


「何かって、何かやらかしたなんて誤解してるのは周りだけよ」

「はいはい。黙ってれば美人なんですけどねぇ、貴方って人は」

「で、何よ要。用件があるならさっさと言いなさい。私、もったいぶった男は好きじゃないの」

「亭長がお呼びですよ」


 梓と呼ばれる女の瞳が、心底つまらなそうに細められる。


「まったく、私の貴重な休憩時間を煩わせないで欲しいものね」

「心当たりは?」

「あるけど、ないわね。昨今の上はどうでもいいことにケチをつけたがるんだから」


 これ見よがしに溜息をつくと、飲みかけの茶を押しつける。


「これ、あげるわ。伝言のお駄賃」

「随分安いですね」

「無駄話しない男になったら、新しいのを奢ってあげるわよ」


 女は長椅子から立ち上がると、ひらひらと手を振って亭長室へ続く廊下を歩き始めた。

 首都〈天満月あまみつつき〉にそびえ立つ中央図書寮本亭。


 この世に存在する文字を記した媒体の全てが納められている、人類の知識と文化の集積所だ。

 図書寮の中でも、書司を最も擁する図書寮でもあり、その性質から辞書事典の編纂なども行う他、政府の各省寮に資料を提供することも職務の一つである。政策に関わる情報を提供することから責任は重く、書司の中でもいわゆる俊英が務めることが多いのだが。


「来たか、桂城一等書司。こちらは大内裏の方だ」


 図書寮本亭亭長こと図書寮助──図書寮を取り仕切る頭の次に偉い──は、亭長室の畳に腰を下ろしたまま、横に立つ直衣姿の男を示した。


 梓は、亭長の大分薄くなった髪の本数を数えながら、ちらりと目を遣る。

 二十代半ばの自分より二つ三つ年上であろう男は、官僚と権力の臭いがした。


 今では公式な場でしか付けなくなった冠は文官のもの。同じように古くは貴族の平常の服とされた直衣は、今では外国のスーツと同じように用いられている。色は季節に相応しく白の表に裏地の二藍が透けている。下にはいた指貫も白だ。


 自分が呼ばれた理由はさっきから見当が付いていたが、政府の人間が出てくるなら確定だ。大内裏は、この図書寮本亭や行政施設が集まっている場所のことを指す、つまりは役所だ。


 図書寮も役所に違いないが、少し違う。都を含めて他の都市にある全ての、本亭以外の図書寮は一般に門を開いている。そして置く資料及び経営が洗脳・思想先導することを自ら厳しく禁じており、政治や役所一般の口出しを許さないという側面があるからだった。故に図書寮の上の人間はともかく、一般の職員は、役人であるにも拘わらず政治を嫌う傾向にあった。


「初めまして。お忙しいところお呼びだてしまして、すみません」

「初めまして」


 差し出された手をあからさまに無視して愛想のない視線を向ける。男が苦笑すると、亭長が声を荒げた。


「桂城君、失礼だろう。君は一等書司の職にありながら、初代亭長の教えのみならず……」

「口癖は十文字以内だからまだ形式美を保ってられるんですよ。亭長のそれは公害です」

「まあまあ、お二人とも。さて、単刀直入に聞きましょう。貴方は先日、〈壺菫〉への旅券を申請、入手しましたね」

「聞いて何しようと? あんたが調べた通りよ」

「職員用の旅券でしたね。ですが、乗ったのは貴方でも貴方の部下でもなかった」

「そうね」


「現在は墜落事故の影響で、旅券の発行に制限が設けられています。通常なら、回りくどい手続きが必要なのはご存じでしょう。簡便な申請だけで入手できる権利を持つのは、高官と一部の職にある者だけです。例えば、特殊な才能を持つ書司の、更に一等書司といったような。その責任をお忘れということはありませんか」


「権利は行使するためにあるのよ。違う?」

「〈壺菫〉勤務の成田琥珀一等書司は、桂城梓さん、貴方とあの“薔薇の魔女”の同門出身だと伺いました」


 あくまで穏やかに、だが少しばかりの毒を込めて男が問うが、彼女の表情は変わらない。


「確かに、成田琥珀は弟弟子だわ。図書大学在学中に、私は敬愛する師と彼とに専門講座ゼミで知り合い、各々の判断で個人的な弟子となったのよ。これも知ってるんでしょうが」


「事故が訪問者に及ぼす影響を考えれば軽率な行動を慎むべきではありませんか。事故からまだ一月しか経っていません。瓦礫も残り、事故現場は廃墟だそうです。あそこは我々大内裏の直轄ではないために、図書寮の僅かな人間に片づけを頼るしかなかったのです。本格的な解体に向け今は木工寮への管理委譲が決まったばかり。そんな場所に、いくら知人がいるからと言って無闇に人を送るなど権利の前に倫理に反していませんか。書司は特別な人間などではない」


「勿論ただの人に決まってるわ。特別なのは私だけなんだから」

 さらりと言った後で言葉を続けながら、梓は目を吊り上げる。

「でもね。起こったことはいずれ誰の目にも明らかになるわ」


 発表では死者はなく、重傷者もない──それは嘘だ。本当の被害は違う。


 報道企業マスコミ対策の一環で、赴くにはやたら回りくどい手続きの後に旅券の発行に一月待ちを求められ、それすらも先日一時発券休止されたまま解除の兆しが見えない。これが良い証拠だ。わざわざ弟弟子から電話を貰わなくったって、誰にだって予想はつくと、梓は思う。


「友人と会う約束があるって、その子は言ってたわ。名前を貸した理由なんてそれで十分。このつまらない話が用件ですって? 帰るわ。私も暇じゃないのよ」


 はっ、と小馬鹿にしたように笑って、踵を返したその背に男の声が掛かる。


「君は旅券を発行した相手が何者なのか知っているんですか」


「知らないわ。もしかしたら、しつこい男から逃げたかったのかもね?」


 一瞬空気が張りつめたのが肌で感じられたが、梓は振り向きにこりと笑む。


「じゃあね」


 扉の向こうに姿が消えると、軋んだ開閉音に男の吐息が重なった。


「二月二日、〈壺菫〉への午前の旅行者は計五十人でした。照会は彼女で最後でしたね」

「桂城の旅券を使用したのは、まず間違いないでしょうな。みすみす入館を許してしまい申し訳ない」

「分かっていて旅券を譲渡したならば、監視する必要があります。許可を頂けますか、亭長」

「いや。桂城は何でももったいぶる癖がある。今度のこともただの親切心でしょう」

「監視をするまでもない、と? ただの書司ではない。一等書司で、“二藍の射手”ですよ」


 かばっていらっしゃるのですか、と言外に告げられて、亭長はゆっくりと頭を振った。


「逆です。加減というものを知らない。それに我が図書寮でも、下部組織の書司寮は有力勢力です。“薔薇の魔女”の愛弟子を本気にさせると厄介ですよ」


 両膝を卓の上に突き、皺の深い指を組む。


「そう。たかが書司、されど一等。例の姫君が〈壺菫〉へ向かったのは、或いは我々にとって、非常に喜ぶべきことかもしれません。あそこではたった一人の書司しか障害にならないでしょう。更に重要な点は、図書寮以外の勢力が及ばないということです」


 安堵にはほど遠い亭長の顔を眺めやり、思い出したように男は手を打った。


「そういえば、春の除目の悲喜こもごもも落ち着いて、皆も秋の司召除目を考え始める頃ですね。少し早いですが、あちらの不遇で有能な書司君に、高麗縁の畳を御用意するとしましょう」


 失礼、と断ってから扇型の通信機器を開き、手早く幾つかの場所に電話をかける。亭長は指を卓に滑らせると、書類の端にクリップで留めた、少年の写真の一枚に目を落とした。


 茶色味がかった黒い双眸の奧に宿した暗い光が、陰鬱に見つめてくる。事故直後、今春の書籍補修技術者の資格試験用にと撮ったものだった。この世の不幸を全て背負ったとでも言っているような忌々しい目の端は、少し赤味を帯びている。


「情は不要。我々は前に進まなければならない。どんな犠牲を払ってもだ」


 指は写真を十字に破り、そのまま握りつぶされた紙片は、屑入れに落ちていった。

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