第6話 宿直所と少年と少女

 京を始めとしたこの国の都市は全て、円形を描く都市の外縁部を除き、縦横の通りに区切られた碁盤目の、由緒正しい条坊制だ。北端に政治の中枢機関及び役所が置かれ、そこから最南端まで朱雀大路が延び、この道が外縁部と突き当たる場所が、他の都市と繋がる駅、羅城門だ。

 左京の九条四坊、町と呼ばれる区画のさらに外縁近く、小さな家がひっそりと建っている。


「ここは?」

 少年が不安げに問いかけた。

「ここは職員用の宿直所どのいどころ。と言ってもみんな自分の家や宿舎に帰るから、静かなもんだ。安心してくれていいよ。俺も今ここに間借りして余裕があるくらいには、人は来ないし」

 今も自分たち以外に人気はない。職員が灯子一人で十分間に合っているのでもそれは察せられる。時々、食堂が食事を食べに来るだけの書司で混み合うことがあるくらいだ。


 廂に置かれた小さな鐘を鳴らすと、奧から籠一杯に洗濯物を抱えた灯子が顔を出す。籠を床に置くと、まくった袖から伸びる手を振った。

「今日はずいぶん早かったのね」

 品の良い笑顔を映すように琥珀も微笑をつくる。

「ちょっと予定が変わってしまって」

 灯子は彼の影に隠れるように、俯いて立つ少年に気づき、首を傾げる。

「あら、そちらはお客さん?」

「彼のために部屋を一つ用意して欲しいんですが、頼めますか」

「ええ、空いてるけど……宿直所でいいの?」


 あくまで仮の宿だから、たいした設備も揃っていない。明らかに書司ではない少年と琥珀の顔を何度か見比べると、頷いた。

「かわいいお客さんね。二人さえ良ければ、好きに使ってくれていいわ」

「ありがとうございます」

「今鍵を持ってくるから、少し待ってね」

 前掛けを翻して、奥に引っ込む。

 琥珀は彼女が自分を信用して何も聞かずにいてくれたことに、感謝した。


「言っておくけど、庇うつもりはない。さっき言ったとおり、事情は聞かせてもらう」

 言いながら視線を向けたのは、布で包まれてその姿を隠した太刀だ。少年の烏帽子から被いた布と、同じ色でくるまれて背中に負われている。 


 広大な敷地を持つ図書寮〈壺菫〉では、書司の同行が義務づけられている。迷子防止と迅速な資料の検索という利便性を提供するため、というのが表向きの理由。裏事情としては資料の破損を防ぐためでもある。火気厳禁、刃物の持ち込みも禁止。検査の上一時預かりとなる。

 例外となるのが、刀だ。一部の官職の人間は帝から刀が賜られる。帝以外は、誰によっても取り上げることができない。帝の意を排除したものは国内では有り得ないものだった。

 それが彼自身の持ち物なのか、だとしたら何故彼が朝廷側の人間から追われる理由があるのか。それより何より、どうしてあんな場所に入り込もうとしたのか。


「何で刀なんか持ってるんだ。私物?」

「私物です」

 琥珀は何か言おうとして口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。


「お待たせ」

 鍵を手にした灯子が戻ってきたからだ。彼女は少年の方を向くと、にこやかに笑う。

「私は灯子。ここの管理人よ。気兼ねせずにゆっくりしていって頂戴ね。じゃあ行きましょう」

 二人は先に立つ灯子の背を追った。小さな水彩画の下がった薄明かりの通路を進む。中は最近の建築らしく塗籠で、几帳ではなく、土壁で個室を区切っている。

 それぞれの客室の扉には一様に札枠カードケースが木ネジで留めてあった。

 灯子は一つの扉の前で立ち止まると、枠に一枚のケント紙板を差し込む。可憐な薄水色の花が咲いた。

「これは雨水草。水たまりに咲く花なの。春が近くなったらまた別のを描くつもりよ」


 楽しそうに微笑んで、扉を開くと、開けてあった窓を閉めていく。窓辺にも小さな瓶に花が咲いていた。内装は建物の外見に即してひどく伝統的に作ってあった。畳張りの部屋に寝具用の畳が二畳、脇息に鏡箱。そして当然のように、視界を塞ぐための几帳。

「ここにあるものは自由に使っていいわ。一通りは隅の籠に入ってるけれど、何か必要な物があったら遠慮なく言ってね。水とお湯は給湯室があるからそこから持ってきてね。これが鍵」

 銅色の鍵を渡すと、言葉を切って、改めて少年を見る。

「それにしても、大冒険だったのね。こんなに土埃」

「あ……すみません」

 全身灰土色。汚してはいないかと、辺りを見回す。その動作は水の中のようだった。


「先にお風呂に入っていらっしゃい。この部屋を出て、廊下を右に曲がってすぐよ。それからゆっくり寝るといいわ」

 烏帽子の上から布を被いている上に、俯いているので表情は口元しか見えないが、足元がおぼつかないのはすぐ見て取れる。


 こっくりと少年がうなずいたのを確認して、琥珀と灯子は静かに部屋の扉を閉める。

「ご迷惑ばかりおかけしてすみません」

 灯子の後を追い食堂脇の廂に琥珀は腰掛けた。ついさっき鐘を鳴らした場所だ。廂の前に広がる庭には物干し竿がかかり、灯子の手によって、洗い立ての洗濯物がぴんと皺を伸ばされて手際よく干されていく。灯子自身のものと、琥珀と、昨夜寝泊まりしていった書司の忘れ物だ。

「気にしないで。そんなことより、今日は何があったの? こんなに早く帰ってくるなんて」


 早朝から深夜まで部屋を空け、時には帰らないこともある。同じ家に暮らしても、顔を毎日会わせることもない。

 気遣わしげな視線は、安堵感を含んではいない、不安げなものだ。

「辞令が下りました。第五分亭所属から第四分亭亭長になり、事故現場は」

 努めて冷静に言ったつもりだったが、言葉に詰まる。

「事故現場は木工寮に一時引き渡しに。調査は──俺の実家の掘り出しは、中断です」

 灯子の長いまつげが何度か瞬く。

「第四分亭って聞いたことないけど、いいことなの?」

「架空の役職です。ていのいい左遷です。架空にしておくつもりは、ないんですが」

「気を落とさないでね」

 選択を干す手を止めて、庭の隅の石を眺める。毎朝琥珀が手を合わせる石だ。

「ご両親なら、きっと分かってるわ」

「──風呂、入ってきます。俺も随分汚れたので」


「あら、でも、彼がまだ入ってるんじゃない?」

 慌てたように言うが、

「そっちの方が好都合です」

「え? ええ、琥珀ちゃんがそう言うなら」

「じゃあ」


 小さな脱衣所の作りつけの棚には、水干がきれいに畳んであった。案の定、刀の入った布包みは見当たらない。部屋に置いてきたのだろう。

 琥珀は自身の狩衣を手前の棚に入れ、布一枚を手に引き戸を開けた。

 部屋の鍵を取りに行く間に沸かされたのだろう、既に浴室は暖かかった。三人も入れば満員になる湯船から、湯気が立ちこめている。

 煙る湯気の中に、浴槽に沈む白い肩が見えた。それから、流れるつややかな髪がしっとりと濡れた肌に張り付いて、たとえようのない色気を漂わせている。


「まて、俺にはそっちの趣味は──」

 呟いて額に手を当てると、彼の肩の上でふらふら揺れていた頭が、強烈な勢いで振り向いた。

 雨蛙をにらむ虎蛇、いや水の中だからクロガラシウミヘビか。実物を見たことはないが。

 何がマズいかは分からないが、何かが背筋をはい上がる。


「勝手に入って来た上に、あまつさえそっちの趣味はない、と。さっさと出て行ってください」

 少年は、いや、少年のかたちをしたクロガラシウミヘビは、湯船に体を沈め、恨めしそうな声を反響させた。舌のように海草のように黒髪が揺れる。


 ここではたと気づく。男にしては、髪が長過ぎやしないか?

 少年の顔を、まじまじと見る。

 一度目は遠目、二度目は暗闇の中、三度目は外でも布を被って俯いていた、そのせいで気づかなかったが、小柄な体に小さな肩、小さな顎に柔らかそうな朱の差したほっぺた、丸い瞳に長いまつげ、それに、男にしては体毛がない。


 もしかして……女の子?

 まじまじと顔を見て、視線を下に移動させる。浴槽に沈む胸元に、二つの膨らみ。

 その前には浮いたビニール袋。中には一冊の和書が入っている。

「これは……」

 かがみ込んで拾い上げようとした時、突如として、銀色のきらめきが鼻先をかすめた。

 誤算だ。太刀は持ち込まなかったが、小刀は持ち込んでいた。


「危害を加える気はなかったんじゃ」

「事情が変わりました」

 健康的に鍛えられた肢体を惜しげもなくさらして、少年、もとい少女は、構えを取る。少女と言っても琥珀と同い年か、少し年上か。烏帽子のせいで分からなかったが、黒髪は腰まで届いて水をしたたらせている。容は美少女と呼ぶには及ばないが、少年と見間違えないくらいには十分に女らしい丸みを備えていた。髪と湯船と煙とで、肝心の場所は隠れてしまっていたが。


 恐ろしいのは、眉が全くつり上がっていないところで、湯煙の間で揺らめく瞳の奥に激情が宿っていた。

 琥珀の指先にさらわれた本は、舞って琥珀の足下に落ちる。


「触らないで!」

 和書を挟み、二人は対峙する。

「後ろに下がって。動いたら、殺す」

 刃をぎりりと握りしめながら、少女はじりじりと間を詰める。琥珀はゆっくりと風呂場の入り口まで後ずさる。

 少女は腰で湯を割って進むと、膝を湯船の端に持ち上げかける。


「あ」

「何?」

「いや、動いたら見え……」


 少女は自分の体を見下ろして、彼女は自分が裸でいるのにやっと気づいたのか、さっと顔を紅潮させる。


「殺す、殺す、コロスコロスコロス!!」

「ちょっと、待て、見てないのに殺されるんじゃ割に合わないって」

「顔ぐらい背けなさいよ!」

「刃物持った相手にそんな危険なことできるかよ!」


 その時、お風呂場の扉ががらりと開いた。

「いい、開けるわよ、どうしたの、琥珀ちゃ──」

 琥珀は振り向いた。時間が止まった、と思った。

 灯子はしばらく目を丸くしたまま固まっていた。

 少女がお風呂にざぶんと鼻の上まで沈む水音に、琥珀は我に返る。

「あの、あの、これは違……」


「こ、琥珀ちゃん」

 灯子は真っ赤と真っ青の二つの顔を見比べて、

「あのね、琥珀ちゃんはね、ちゃんと分かってると思うの。でも、一応言わせてね。あのね、ここはそういうところじゃないのよ?」

「いや、だから誤解……」 

「それにしても随分おとなになったのね。白拍子遊戯だんそうプレイなんて、ちょっと、早すぎると思うけど」


 ちらりと顔を下にやる。顔を上げる。

 顔には、彼女自身にも分かっていない、複雑な照れ笑いが浮かんでいた。

「そうよね、もう大人ですものね、あんまり長湯しちゃ駄目よ?」


 扉が再び閉まる。

 琥珀自身と少女の、四つの目が下半身に注がれる。

 どさくさに紛れ、下半身を覆っていた布は、ビニール袋の上に落ちていた。

 一瞬の、耳も痛くなるような静寂。そして。

「きゃああ、嫌あっ、変態いぃぃぃ!!」

 立ち上がって、絶叫と共に湯桶を投げる。

 とっさに庇った両腕に湯桶が弾け飛ぶ。目を開けた目に、水しぶきが飛び込んできた。

 少女の体が真横に倒れ込んだのだ。お湯の中に浮かぶ気絶した裸体を前に、絶望的な気分が襲ってくる。

「ああああぁぁ……」

 琥珀の低い叫びは、狭い浴室にこだました。

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