第5話 第四分亭

 薄闇では早く走れるはずもなく、小走りに、何度も躓きそうになりながら、琥珀は壁に手をつきながら小走りに背中を追った。

 少年はどんな訓練を受けているのか、危なげもなく先に進んでいる。距離は開く一方で、少年の闇に浮かぶ白っぽい着物は、ひらりひらりと舞い、通路の闇に溶けていった。

 遂に下向きの角度を付け始めた廊下に、小走りすら断念し、早歩きで瓦礫をまたいでいく。

 懐から手のひら大の懐中電灯を取り出し、前方を照らす。片手が塞がると走りにくいと思ったが、歩くならこちらの方が早い。

 さっきちらりと見た少年の背中には荷物があったが、驚くべき身軽さだ。


 やがて入り口の光が全く届かなくなり、天井も塞がった頃、一本道は二又に分かれていた。右の道の先は更に地下へと伸び、左の道は平坦だ。少年はどちらに進んだのか、姿どころか足音もしない。大分引き離されたのか、こちらを伺って先でじっと息を殺しているのか。

 間違った方に進めば最悪相手は引き返して地上へ出、自分だけ遭難する羽目になってしまう。

 壁を電灯の光で当てると、銀色の四角い板に行き先が示されている。

 右の地下へ続く道の行き先は庭で、左の平坦な方は研究員の私室と作業員の宿舎へ続いているようだ。

 どうしようもなくなって、琥珀は控えめに叫んだ。

「おーい、聞こえてるか? ここは危険だ。戻ってこい」

 返答はない。どちらに行ったのかも分からないから、足の向けようもない。

「事情があるなら聞くから返事くらいしろよ。何処にいる、聞こえてるか?」


「ここです」

 声は耳元からした。内心の驚きを押し殺して静かに振り向く。

「書司もなしに閉架を歩き回るのは規則違反だな。……っつと」

 喉元に光る輝きに、息を呑む。

「悪いけど、じっとしてください」 

 外気とは違う冷たい感触に背筋がぞくっとする。

「抵抗しなければ危害は加えません。そのまま、灯りを消して」

「危害はもう加えられてるよ」

 一拍置いてから冗談めかした返答をする。少年は押し殺した声で告げる。

「じっとして、灯りを消してください」

「悪いけど、暴力に屈するワケにはいかないな」

「お願いします。じゃないと見つかる……」


 語尾に重なるように、コツコツと靴音が響いてきた。背後からではなく、前方からだ。灯りでなめ回した床に足先が現れ、数人の男達が姿を現した。先頭の男が別の男に、何事かを話しかけると、先頭を入れ替る。

 入れ替わった男は手に持った灯りを地面から二人に向け、見比べると少年に話しかけた。

「何をしているんですか?」

「動かないでください。職員がどうなってもいいんですか?」

 きっぱりと琥珀を人質だと宣言する少年に、男は肩をすくめる。

「残念ですね。そこの書司さんはここの人間のようですが、我々は違いますよ」

「同じ図書寮の職員では?」

「ご存じないのですか? 全ての書司は書司寮に属していなければならない。書司寮は図書寮の下部組織だ。だが書司が全て図書寮の人間かというと違う。在野の書司もいるんですよ」


 意味を取りかねる少年に変わって、応えたのは琥珀だった。

「在野の書司……渡来系企業のLC社か?」

「逼迫した状況なのに余裕ですね。ご名答、我々の雇い主はLibrary Comfort社です」

 少年は人質に問いかける。

「どういう意味なんですか?」

「書司は、いわば超能力者。書司寮は全ての書司を登録して統制・教育をしてる。その上が図書寮。更に上が政府の中核である二官八省のうちの一つ、中務省。ここまではいい?」

「はい」

「図書寮は、図書寮の各亭の運営と本の管理が主業務だ。必要と希望に応じて書司寮から人が行く他、直接採用もある。けど、どうしても流通や人事には弱いんだ。それを代行する企業では最大手なのがLC社。つまり書司以外の非常勤の図書寮職員の斡旋や、図書資料を図書寮に販売したり、不要な資料を廃棄、備品の供給といった業務をしてくれる」


「……さて、大事になりましたね。利用者が書司を連れ込んで、オマケに脅しているなんて」

 説明が終わったのを見計らって、男は手を広げる。琥珀は人質に取られた姿勢のまま、

「そちらこそ、何の用です? ここは図書寮〈壺菫〉の管轄下だ」

「その格好で言われても説得力はありませんが、そうですね、ご存じではない? 管理は本日から大内裏に委譲されました。図書寮は〈壺菫〉から図書寮そのものに管理を一旦戻し、大内裏はLC社に木工寮到着までの調査を委託した、それだけですよ」

 いつの間にか、他の男達は琥珀と少年を取り囲むように立っていた。

「しかし、驚きました。駅の旅券をどうやってか調達され、〈壺菫〉の閉架への入り口も、知らないうちに突破されているとはね」

 少年の、琥珀より背が低いために持ち上げている二の腕が、首の横でぎゅっと縮まる。


「こんな暗闇で調査していた甲斐がありましたよ。本当に運が良かった。このまま何も知らずにいたら、社どころか大内裏のお方に顔向けできないところでした」

 包囲の輪が徐々に狭まる。

「その書司を離していただいて、大人しく捕まっていただくのが一番なのですが、そのおつもりは……なさそうですね。まぁ、仕方ありません」

 男は少しだけ残念そうに目尻を下げると、一冊の本を袂から取り出した。黒い書皮と、栞代わりの目録札は琥珀の手にある物と同じ。


「719」


 小さく呟き、筆を素早く滑らせると、少年の身体が硬直するのが背後で分かった。太刀が手から転げ落ち、床に不協和音を響かせる。思わず体を琥珀から離し、右手を抱えてうずくまる。

「ほう、手、だけですか。厄介な」

「何をしてる!」

 ようやく人質から解放された琥珀の叫びは叱責にも似ていた。

「人間相手に〈分類〉なんて──」

「他の動物と違い人間は自意識が強い。分類されたところで、三次分類なんてすぐに回復する」

「だからといって許されることじゃない」

「緊急事態の使用は、第三次分類一点に限って認められている。君を助けるためだ」


 少年の声に振り返ると、震える右手を押さえつけ俯いた姿勢のまま肩で荒く息を吐いている。

「大きな不善を為すために小さな善を施し、裏切ろうとする者が、嘘をつかないでください!」

「そうですか。そう言われては仕方ありませんね」

「な──」

 反論する間もなく、男は懐から小刀を取り出した。刀の先は少年の喉元に定められている。

「手荒な真似はしたくありませんでしたが。無駄な抵抗は止めて、我々と都に戻りましょう」


「無駄かどうか」

 少年の足が動いた、と思ったときには太刀を上に蹴り上げていた。素早く右手で掴み、男の小刀をはじき飛ばす。

「誰か知っていて連れ戻しに来たというのか」

 それは、ただの少年でもなく、図書寮の利用者ではなく、戦う者の目だった。

「確かに見苦しい。したことの責任も取らずにここに来た。それでも、醜くても、やらなければ帰れない! 約束した、今日再会すると。たとえ──たとえ死んでいても、どれほど酷い姿になっていようとも、それが生き残ってしまった我が身の罪だから、受け止める」


 男は視線を受け止めて、小さく肩を竦めると長い息を吐いた。

「地表の胞子濃度は年々酷くなる一方です。ここが残ったのも障壁が無事だったお陰。ただの運。あなたの言う受け止めることすら不可能だったかもしれないんですがね。それに、書司を敵に回して図書寮都市で逃げ切れると?」

 まだ震える肩の下で、息が熱く吐き出される。

「書司を相手にしてでも、私はやらなければならない。止めるなら、生きてる意味がない」

「残念ですが、実力行使しますよ。──取り押さえろ」


 少年は唇を噛んだ。さすがに太刀を人間に向けて振り下ろすわけにはいかない。

 刀の腕がどれほどかは知らないが、体格的には琥珀よりも一回り以上小柄な少年が、体格のいい男五人に取り囲まれて、抵抗できるはずがない。


 琥珀は一瞬だけ考えた。考えたというのは正確ではない。自身の信念に照らせば結論は明らかだった。口実をどう付けるかと言うことだけが問題だった。


「待ってください」

「君には関係のないことだ」

「あります。彼は俺が案内した利用者です。保護する権限がある」

「保護権限はこちらにもある。大内裏のさる方からの命令だ」

 琥珀に目もくれず、男は少年の両肩を掴む。男の肩を琥珀は逆に掴み、視線を合わせた。

「俺は第四分亭──図書寮第四分亭〈鴨頭草つきくさ〉亭長、成田琥珀です。図書寮法では利用者に対する暴力行為及び一切の行動・思想と自白の強制から、利用者を守る義務があります」

「君は、君を人質にした犯罪者の肩を持つと?」

「その件は事情を問いただし、正式な手順を踏んで近日中に〈壺菫〉まで報告します」


 ふん、と男は鼻を鳴らすと、手で他の男達を制した。少年の肩が放される。

「いいでしょう。ただし猶予は一日だけですよ。明日の朝には連れて来てください」

「必要な手続きが済めばの話です。在野の三等書司に、期限を区切る権利はないはずですが?」

「わかりましたよ、成田亭長。近いうちにお会いできるのを楽しみにしています」

 男達は入り口に向かって歩き出す。途中で足早に向かってくる人影に失礼、と断って、ぞろぞろと闇の中へ消えていった。


「琥珀、どこだ?」

 入れ違いに琥珀に灯りを向けられた人影は弁当包みを抱えたまま緊張した面持ちで現れると、疲労した顔で立ち尽くす友人と、太刀を握りしめたままの少年に目を丸くする。

「何か……あったのか?」

「ああ、いや、まあ、ちょっとな」

 ぽりぽりと頬をかき、苦笑いで応じる。目を向けた先の少年の、さっきとはうってかわって眉間に皺を寄せて苦痛に耐えている顔に、


「宿直所に連れてくよ」

「いいのか? まだ閉架手続きも済んでいない、何処の誰かも分からない利用者だぞ」

「一晩休ませるだけだ。ここからじゃ旅館も遠いしな。俺の第四分亭の利用者だし」

「第四分亭っておい、そんなものは……」

「ハコがなくてもいいよ。どうせ組織図にも載らないんだろう。俺のいるところが分亭だ」

 東吾から弁当を受け取ると、少年を振り返る。太刀を鞘に収めているのを確認して、

「歩けるな」

「……」

「よし、行こう」

 琥珀は地上への道を戻り始めた。

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