第4話 調査中止命令

 成田琥珀は目を開けた。庭の片隅の木陰、水で土埃を落とされ、花を供えられた膝丈の小さな岩は、庭の一部になってしまいそうなほどささやかなものだ。合わせていた手をはがし、膝の裏を伸ばしながら立ち上がる。

 早朝の冷たい空気を吸い込む。そのまま目を閉じて息を少し止め、吐ききったとき、聞き慣れた声がした。


「琥珀ちゃん」


 振り返ると琥珀より十歳ほど年長の女性が立っていた。首の後ろで長い髪を括り、細い体を質素な着物に包んでいる。目が合うと、腕に抱えた同じく質素な色合いの布包みを差し出した。


「はい、お弁当」

「いつもありがとうございます、灯子さん」

「気にしないで。書司さんたちがいつも頑張れるようにするのが私の仕事よ」

 頭を下げる琥珀に陽だまりのような笑顔を返す。

「気をつけて行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 軽く口の端をあげて応えると、琥珀は宿直所から出て、まだ薄暗い道を歩き始めた。


 他に人の姿もなく、土を踏む軽い音がはっきりと聞こえる。あの月が落ちた夜、不逞の輩から図書資料を保護した日から人は閉架から激減しており、早朝は言うまでもない。

 黄と黒の紐で区切られた事故現場跡に紐をまたいで入り、一人作業を開始する。分類札で瓦礫を〈分類〉し、“軽”くし、鋭利な破片は“鈍”くしては所定の場所に運ぶ。

 やがて日が昇り、見知った顔がちらほらと集まり始める。

「おはよー」

「よお、今日も早いな」

 狩衣に身を包んだ男女は九時半前には全員揃い、琥珀も作業の手を止めた。


 きっかり九時半に、中年男が姿を見せる。

 いつもと同じ風景、いつもと同じ日が今日も始まるはずだった。だが、ふいに覚えた違和感は、男の傍らにある、きっちりと山吹重やまぶきのかさねを着た青年の姿だった。

 珍しく無精ひげをはやした上司は、よれた襟を正すと整列した部下を見渡した。


「おはよう」

「おはようございます」

「二月二日の朝礼を始める。先月初めの落下事故の後片付けも、君たちの働きのおかげで、昨日報告では、行方不明の資料回収はリストの八割を達成した。屋外の探索は昨日で終了とする」

 琥珀は息を詰め、じっと次の言葉を待つ。

「本日より埋もれた地中部分の探索に入る予定だったが……大允」


「はい」

 眼鏡を指で押し上げて、青年は言葉を引き取った。

「〈壺菫〉第三管理室の竹村です。図書寮本亭との協議の結果、内部の探索は危険と判断し、管理権限を大内裏だいだいりに委譲することになりました。外の瓦礫の撤去及び内部の安全性の確保が済むまで、書司の立ち入りは禁止です」

「本日を以て書籍の発掘作業は終了とする。発掘班は解散、今日は事務手続き等調整の上、明日から各自本来の業務に戻るよう」


 上司の締めに、書司たちは目を丸くして、少しの間、沈黙が続く。


「ちょっと待ってください」

 やっと声を上げたのは、少年と言ってもいい年齢の書司だ。

「問題があるのか?」

「ありますよ。何で部外者に任せるんですか。残ってる資料とか備品が、どんな扱いを受けるんだか分からないですよ」

 上司はぼさぼさ頭をがりがりかく。

「だから言ったろう。貸出した資料は回収が済んでるんだ」

「立ち入り禁止ってどういうことですか」

「当たり前だが、書司は瓦礫だの建築だのの専門家じゃないってことだ。そもそも実験は〈壺菫〉じゃなくて木工もく寮あたりがやってたんだしな。今まで発掘できたのは、尻ぬぐいがこっちの利害と一致してただけだ」

「話し合えば、立ち会いくらいは許可が」


 やめなさい、と少年の隣で、女が制する。

「私たちの〈壺菫〉が決めたことよ。滅多なことでは覆らないわ」

「けどよ、立ち入り禁止て、成田の実家だってまだ埋まってるんだぜ」

 別の男が声を上げる。

「そっちはどうなる? 作業がどんくらいで終わるのかくらいは教えてくれよ」

「何時になるか……分からん」


 さりげなく、あるいはあからさまに。集中する視線を受けて、琥珀は重い口を開いた。


「俺の実家は、実験の下敷きになりました。発掘班に志願したのは自分の手で掘り出したかったからです」

「ご両親は見つかったんだろう」

「ですが……このまま、元の所属に戻っても、利用者案内は旅券制限で殆どないですし」

「聞いてないのか。お前には先日付で辞令が出されている」


 聞いてないのは当然か、という口調で、上司は言った。

 琥珀が朝から深夜まで、ずっと現場で事故の後片付けを、実家の発掘作業を行っているのは知っていたからだ。労働関係の法律を逸脱しているのも知っていたし、何度か忠告も命令もしたが、一向に従わない部下のことを考えれば、昨日張り出されたばかりの辞令を知らなくても不自然ではない。


「急すぎますし、辞令の季節でもありません。何も聞いていませんが、どこにでしょうか」


 上司が口ごもるのを見て、竹村が助け船を出す。

「おめでとう。成田琥珀一等書司。第五分亭〈壺菫〉所属から図書寮第四分亭亭長への栄転だ」

 苦々しく、少しも祝福など含んでいない口調で、竹村は告げた。琥珀の返答を聞くよりも早く、横合いから別の書司が口を出す。


「第四、て、そんな縁起悪いの存在しないスよ? 何かの間違いじゃないスか?」

「公式には……組織図には載りません。名前も好きに付けていいそうです」

「架空の役職ってことスか?」

「異動に関する質問は受け付けません」

「ってことだ。以上、解散」

 上司がぱんぱんと手を叩いて締め、一同は重い足を動かして、ぞろぞろと散り始める。

「お前もさっさと辞令を受け取ってこい。本亭のお偉いさんが帰ったら、質問もできないぞ」

 上司が一度振り返って琥珀に告げるも彼の足は動かなかった。硬い表情のまま立っていた。


「行かないんですか、成田君」

「……行けるかよ」

 吐き捨てる。視線を地面に落とす。

「東吾。教えて欲しい。これって見せしめか?」

 さっき、誰もが頭に思い浮かべた疑問を口に出す。

「俺が掘り続けたから、掘り出そうとしているものが大内裏には不都合な研究だったから──」


 ややあって、友人の切れ長の目に気の毒そうな色が浮かぶ。

「おそらく。ただ、君の上司を責めないでくれ。俺に不当な異動だと怒っていた。図書寮の敷地内で書司を排除しての行動もあり得ないと」

「見りゃわかるよ。おっさん寝てないみたいだったしな」

「図書寮は大内裏の管轄下、二官八省の下にあるに過ぎん。決定には逆らえん。……琥珀」

「何だよ」

「疑うなとは言えないが、瓦礫の撤去と、事故原因の究明が大内裏の、というより実験を行っていた木工寮の目的だ。お前の実家が、ご両親の研究が大内裏の手に渡る可能性は低い。理由を付けてこちらも作業を監視する。心配はない」


 琥珀の東吾を見返した目には不審の色がある。

「心配ない、か。説明だけにしては、お前が来るのはおかしいと思ったんだけど。俺を捕まえに来たわけじゃないみたいだな」

「全く違う。お前に頼みたいことがあって来た。その思考をいい加減にしたらどうだ」

「何をだよ?」

「悲しむなとは言わん。いつまでもご両親の死を引きずるな。足下を掬われるまでもなく、絡まって転倒する羽目になる」

「作業を止めてまで手伝うほど、大事なことなのか?」

「仕事以外は食べて寝るだけの生活をいつまで続ける気だ? 書司の本分を忘れたのか?」

「冗談じゃない」


 肩で息を吐き、振り切るように首を振ると、少年は感情を表情から消して真顔に戻った。


「で、東吾、久々の訪問の目的っていうのは? 事故以来だよ、顔見るの」

 肩をすくめた少年に分かってるよと言いたげな視線を向けた後、

「お前の説得が目的じゃない。旧交を温めに、というのが嘘にならないといいんだが」

「男の友情なんてわざわざ暖めるもんじゃないよ。臭そうだ」

 ふっと息を漏らして、東吾は微笑した。

「随分落ち込んでいるかと思ったが、……安心したよ。これなら頼めそうだからな」

 少年は眉を僅かに上げる。

「今の、俺を試したりしたか?」

「さあね」

「んで、何を頼みたいって?」

「暇になったついでに、一人、閉架の案内をして欲しい。全ての利用者に一人の書司を、が我らが亭の規則だ」


 左手に持っていた分厚い封筒を差し出す。


「旅館の201号室で待機中。まだ若い少年だ。会って閲覧関係の書類を作成して、夕方までには俺まで出してくれ。明日には仮許可証を出しておく」

「この時期になんて切羽詰まってるのか、よほど研究熱心熱心なのか。で、何で俺だよ?」

「旅券が君の姉弟子の桂城梓かつらぎ あずさ一等書司のものだった。彼女がわざわざ手助けするんだ、理由があるのだろう」

「姐さんが? っていうか、それだけで俺?」

「普通の資料要求じゃないのは見当が付くだろう。一等書司が案内した方がいい」

「おい、それ俺っていう理由になってない……」


 元々発行に面倒くさい手続きを要する閉架利用札カードを持つ利用者は少ないし、実験に際して、多くの作業員は直前に避難していた。残った作業員は犠牲になって今は存在しない。事故の後始末が済んでいないため、都市自体の新規入館にも制限ができた。今や都市内部を歩く人口の八割が職員だ。職員なんて有り余っている現状、自分である理由がない。


 思わず大声をあげる琥珀に、

「書司の本分、忘れてないのだろう? 迷える利用者を助けるのが書司の役目、宜しく頼む」

「おい、東吾──」

 踵を返す友人になおも言いつのろうとして、彼の肩越しの人影に、声を止める。

「何かあったか?」


 視線の先を追う東吾も、人影を認めた。小柄な水干姿が、数十間(数十メートル)先、地下に半分めり込んだ、浮遊都市の一部の扉に、周囲を伺いながら接近している。


「噂の少年だ。どうやって閉架に入ったんだ?」

「姐さんの知り合いだ。何か普通じゃない手段を使ったんだろ」

 ちっと小さく舌打ちし、弁当を押しつける。

「琥珀?」

「なるべく穏便に済ますよ。ここで待ってろ」


 駆け抜ける事故現場はまるで、おとぎ話に聞いた船の墓場だ。


 一面の瓦礫の波に屋根に葺かれていた檜皮ひわだの苔が揺らぎ、奇妙な形に折れ曲がった板の海草の群れから突き出た柱がマストの墓標。中点にかかった太陽によって、飛沫のようにきらきらと反射する硝子の欠片を割るように、空中から投げうたれた大地の欠片が土と緑とをまとって島を形作っている。

 防波堤のような茶色の城壁を、打ち付ける波しぶきが潰しながら乗り越えようとしていた。

 鳥のさえずりばかりが風に乗り、吐き出した息と踏みしめた地面の音がはっきりと聞こえた。

 勿論、それはたった視認できる範囲の、長い辺で三、短い辺で一町(百メートル)ほどの場所に過ぎない。しかしついひと月前までは平穏な日常が営まれていたはずの場所が一瞬にして破壊された事実は、決してありふれてはいけない非日常の出来事だった。


 瓦礫を駈け散らして来る足音に少年は一度振り返ると、こじ開け終えた扉の中に飛び込んだ。

「おい待て!」

 琥珀も続いて飛び込む。しかし中は入り口と、割れた天井からから漏れる光だけの、薄暗闇。

 入り口に少しの間立っていたが、奥に反響していく駆け足の音に、意を決して後を追った。

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