雪や氷ももとは水

三鹿ショート

雪や氷ももとは水

 数年ほど音沙汰がないということを両親から伝えられたために、偶然にも近くに住んでいた私は、安否を確認するべく、弟の自宅へと向かった。

 其処は、今にも倒壊してしまうのではないかと思うほどの集合住宅だった。

 雑草が生い茂り、塵が散乱している庭を抜けると、私は弟の部屋の扉を叩いた。

 中から顔を出したのは、一人の女性だった。

 弟の名前を告げ、私が兄だということを告げると、彼女は私を部屋の中に入れてくれた。

 部屋の内部は、塵だらけだった。

 塵を踏まなければ進むこともできず、様々な種類の虫たちが動き回っている。

 今にも嘔吐しそうなほどの悪臭だったが、なんとか耐えながら、部屋の奥へと向かっていく。

 やがて、私は一人の男性を目にした。

 一人の男性と表現したのは、その人間が、私の知っている弟とは姿が大きく異なっていたからである。

 虚ろな目に、骨と皮だけのような痩身、そして、涎を垂らしながら笑みを浮かべ続けていた。

 このような人間が弟だとは、信じたくはなかったのである。

 弟が座っている場所の近くにある机の上に存在していた物から、何故そのような姿と化したのか、容易に想像することができた。

 私は彼女に振り返ると、即座に然るべき機関に連絡するべきだと告げた。

 だが、彼女は何を告げられているのかが分からないといった様子だったために、弟と彼女は揃ってこの部屋から脱出するべきだと確信した。


***


 弟は廃人同然であり、元通りになるかどうかは不明だと告げられたが、彼女は順調に回復していった。

 会話が成立するようになった頃、何故弟と彼女はあのような状態と化してしまったのかと私は問うた。

 私の問いに、彼女は自身の腕の一部分を手で押さえながら、事情を説明してくれた。


***


 大学の入学試験で失敗した弟は、両親から激しく非難された。

 これまで事あるごとにそのような行為に晒されていたために、我慢することが出来なくなった弟は、家を飛び出した。

 それから、日雇いの仕事を繰り返しながら、糊口を凌いでいた。

 やがて、安定した仕事を得ることができるようになり、彼女とも知り合うと、二人で生活を共にするようになった。

 特段の問題も無く、平穏な日々を送ることが出来ると考えていたが、終わりは突然訪れた。

 小遣い稼ぎとして同僚に紹介された仕事において、弟は、扱っていたその商品の虜と化してしまったのである。

 勿論、彼女は弟を止めたのだが、既に正気では無くなった弟には何を言ったところで、無駄な行為だった。

 何の理由も無く怒鳴られ、殴られる日々を過ごしていた彼女は、この現実から逃れることを望んだ。

 ゆえに、弟と同じように、手を出してはならないものに手を出してしまった。

 その結果が、あのような荒れ果てた生活だったのである。


***


 その話を聞いて私が最初に思ったこととは、何故同じように生きてきたにも関わらず、道を踏み外すことになったのかということである。

 両親の言葉に従っていれば、このような未来に至ることは無かったに違いないのだ。

 それは、私が証明している。

 私の言葉に、彼女は首を左右に振ると、

「あなたの弟は、両親よりも、あなたのことを恨んでいたようです。あなたの出来が良くなければ、弟である自分は、あなたと同じような道を進むことを強要されることはなかったのだと、泣きながら何度も言っていました」

 その言葉に、私はどのような返事をするべきか、悩んでしまった。

 確かに、私は両親の希望を叶え続けることが出来ていたが、その理由は、それを実行することが可能な能力を持っていたからだった。

 しかし、弟もまたそのような人間であるとは限らない。

 同じ人間を両親に持っているために、弟もまた、私と同じような人間だと考えていたが、それは私の思い込みだったのだ。

 振り返ってみれば、私は出来の悪い弟に対して、どのような言葉を吐いていただろうか。

 それは、両親と同じように、相手が自信を失ってしまうようなものばかりだった。

 家族の中で、弟だけが、孤立していたのである。

 つまり、弟がこのような未来に至ることになってしまったのは、我々家族に原因が存在しているということなのではないか。

 私は、罪悪感に押し潰されそうになった。

 だが、今さら後悔したところで、弟が元に戻るわけではない。

 どれだけ謝罪の言葉を吐こうとも、弟が反応することはないのである。

 それでも、私はそのような行為を続けた。

 弟が崩壊したことに罪の意識を持ったからには、そうするべきだと考えたからだ。

 しかし、両親は、弟の変わり果てた姿を見ようともしなかった。

 自分たちの教育が誤っていたと認めなければならなくなってしまうと考えているためなのだろうか。

 その姿を見て、私は両親の言いなりになっていた自分を恥ずかしく思った。

 だが、安定した生活をすることができている今の自分が存在しているのは、両親の言葉に従ったためである。

 結局のところ、私はどうするべきだったのだろうか。

 弟に訊ねたが、返答は無かった。

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雪や氷ももとは水 三鹿ショート @mijikashort

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